神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だからわたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内のとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
それでは、わたしたちに与えられたヨハネの手紙のテキストは、そういった事情に対し、何を語ろうとしているのでしょうか。ヨハネの手紙は、神の子と悪魔の子という表現に典型的に見られるように、二つの立場を明確に区別しています。この二つの立場はさまざまな表現によって言い換えられていますが、それをまず拾い出してみたいと思います。神の子に属するグループの特徴として次のような表現があります。神から生まれた、正しい生活をする、互いに愛し合う、死から命へと移る、兄弟のために命を捨てる、行いをもって誠実に愛し合う。それに対し、悪魔の子に属するグループは次のような特徴で描かれています。自分の兄弟を愛さない、兄弟を殺す、兄弟を憎む、人殺し、死にとどまる、同情しない、言葉や口先だけ。両者のコントラストは非常にはっきりしていると言えるでしょう。このようなコントラストの中で「愛しなさい」ということが繰り返し語られています。これは見方を間違えると、一種の脅しのようなものになってしまいます。もし悪魔の子に属したくなければ、しっかりと愛を実践しなさい、ということになるからです。自分が神の子に属し、救われるための手段として兄弟愛を実践することになりかねません。もしヨハネの手紙が脅しによってキリスト者たちを駆り立てようとしているならば、それは宗教改革時代の版画による中傷合戦と何ら変わらないことになります。
確かに九節は、「神から生まれた人」「神の種がいつもある」などの表現を用いて、最初から神の子と悪魔の子の区別が決定されているような印象を与えています。しかし、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」や「この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」という表現は、キリスト者が先天的に宗教的エリートとして区別されているということでは決してありません。このことは一章八―一〇節と比べるとはっきりします。そこではこのように記されています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」。もし、先天的にキリスト者が神の子として定められているならば、「罪を犯すことができない」ということと「罪を告白しなければならない」ということは明らかに矛盾します。
ところで、あのルターという人こそは、パウロを通じて「終わりの時」という視点に目覚めた人でした。パウロと同様に、ルターにとってイエス・キリストの十字架が終わりの時、終末として迫ってきました。例えば、パウロはガラテヤ書で次のように語っています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(二・一九―二〇)。パウロもルターも、人生のさなかにあって命の終わりを経験します。イエスの十字架において終わりの時を先取りしています。そうすることによって、この世の束縛から自由にされ、新しい者とされていくのです。そのことをイエスは神の国の到来として告げ知らせましたし、ヨハネの手紙では「神の子」と呼んでいます。また、洗礼を受けるということも古い自分に終わりを告げ、新しい自分に生まれ変わるという点で終わりの時の先取りだと言えます。
終わりや目的は様々に表現されますが、他人事ではなく、わたしにとってそれは何かを考えておくことは大切です。一般的には、生物学的な寿命の終わり、つまり死を終わりと考えることもできます。死に直面した人間に対する特別な治療や介護をターミナル・ケアーと呼びますが、人間が人間らしい尊厳をもって死ぬことの大切さが少しずつ論じられるようになってきました。ターミナルという英語は「終わり」「終着」という意味ですが、人生の終わりをどのように締めくくるかということがターミナル・ケアーでは問われています。しかし、信仰者にとってのターミナル・ケアーは死ぬ直前ではなく、いつも今日という日に課せられています。わたしたちが神の子とされていることは実にターミナルな事柄です。しかし、終わりをを先取りするということは、わたしたちが先々を心配してせっかちであるからでしょうか。もしそうならば、わたしたちは片方の足を未練たらしく地上に置き、もう片方の足を棺桶の中に突っ込んでいるような愚かな存在だと言えるでしょう。終わりの時を身に受けた人間がどのような態度を取るか、ルターは実に見事なたとえによって語っています。「明日、終わりの日が来ても、今日、わたしはリンゴの木を植える」。
神によって与えられ、支えられている命を今日どのように用いるのか、そのことを神の子であることは負っています。しかも、わたしたちが終わりの時を先取りし、神の支配に満たされていることの恵みは、ただ自動的にやってきたわけではありません。一六節で「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と語られているように、わたしたちが神の子であることにはイエスの命の重みがかかっています。道徳的なまじめさの延長に、愛することを考える者とはなりたくありません。わたしたちは、終わりの時を生きる者として、イエスの命に重みに押し出されて生きる愛の実践者、神の子になりたいと思います。
(一九九四年一〇月三〇日、札幌北光教会、小原克博)