イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
それが語られる前に、天使はヨセフに対し、産まれる子をイエスと名付けなさい、と命じられています。そして、「この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉が続いています。イエスという名前は、ヘブライ語ではイェシュアと発音しますが、「イェ」というのが「神」を意味し、「シュア」というのが「救い」を意味します。ですから、イェシュアは文字どおりには「神は救い」という意味を持っています。そこから、先ほどの「この子は自分の民を罪から救うからである」という天使の言葉が出てきます。ただ、イエスという名前はだからといって、特殊な名前であったわけではなく、当時、一般的に用いられていた名前の一つです。ですから、もしイエスの名付けの理由説明だけでこの箇所が終わっていたならば、イエスの一面しか見えないことになってしまいます。このイエスがインマヌエルと呼ばれること、あの預言者イザヤの約束が成就すること、そこにマタイの主張が集中していきます。
インマヌエルという言葉が「神は我々と共におられる」という意味を持つことが説明されています。マタイによる福音書全体がこのインマヌエルに要約されると言っても過言ではありません。イエスが弟子たちと共におられるという表現がマタイ福音書の随所にちりばめられています(一七・一七、一八・二〇、二六・二九)。そして、この福音書の冒頭部に呼応するかのように、福音書の最後は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二八・二〇)という言葉で終えられています。この福音書を書き記したマタイにとって、イエスは過去の偉大な人物ではありませんでした。イエスは、はるか昔より預言者の言葉によって示され、今もなお教会を支え導き、そして世の終わりのときに至るまでわたしたちと共にいてくださる方として語られています。
もっとも、このことはマタイ福音書に限定されることではなく、聖書全体がこのテーマを持っています。「神がわたしたちと共におられる」は、出エジプト記六章七節の神がモーセに語った言葉によれば、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」と言い換えられます。このもっとも基本的な言葉を忘れたイスラエルの民に対し、預言者エレミヤは新しい契約の中で、やはりこのことを再度告げる神の言葉を聞きます。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(三一・三三)。さらに、これらの言葉は世の終わりを語るヨハネ黙示録の中でクライマックスを形作ります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(二一・三―四)。このように聖書全体がインマヌエルの出来事によって覆われていることがわかります。
「神は我々と共におられる」という事柄は、決して理解し難いことではありません。しかし、逆にそれが落とし穴になって誤解することもあります。神があたかも自分を守護し、自分はその力を自由に利用できるかのような錯覚に陥る危険があります。私たちが選んで、何でも屋の神の側にいるのではなく、あくまでも「神が」わたしたちと共にいてくださるという順序に注意する必要があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」(一ヨハ四・一〇)ということがわかっていれば、本来、わたしの神と他者の神とを戦わせたり、恵みの大きさを比べて自慢したり、卑下したりする必要はまったくないはずです。インマヌエルの出来事の中で、主語はいつも神だということです。そして、その神がわたしだけでなく、わたしたちと共におられるます。わたしが気にくわない人とも、わたしがまだ関心を持つことのできない人とも、神は共におられるということです。
大江健三郎氏は、ノーベル賞の受賞講演の中で「人類の癒し」ということを語っています。わたしたちがインマヌエルという出来事と共に考え、想像力を巡らせる対象も人類です。もちろん、わたしたちの意識は一足飛びにそのような全体へと行き着くことはできません。しかし、インマヌエルということがわたしだけを中心にしたものではなく、わたしの属している組織や集団を中心にしたものでもなく、むしろ、それらを越えたところへと「わたし」という一人の偏狭な魂を運び出す力であることを知っておく必要があります。わたしたちの生活の中では、あるいは世界の情勢の中では「神は我々と共におられる」という言葉よりも、はるかに「神なんているものか」という言葉の方が容易に出てきます。「神なんているものか」という文句を吐き捨てたくなるような境遇にいる人々と比較し、相対的に恵まれている自分の境遇を考えて「やはり、自分には神が共にいるのだ」と考えるならば、これほどの傲慢と誤解はありません。このような考えの人は、まさに神の恵みを自分の独占物にしようとしています。
希望がないかのようなところに、かえって、神の恵みが満たされていることをわたしたちは見つけ出していく務めがあります。ヨセフのことを考えてみてください。彼は、喜び踊る気持ちで子どもの誕生を待ち望んでいたわけではありませんでした。反対に、結婚前に身ごもったマリアと伝統的な律法の教えとの間に板挟みになりながら、マリアと縁を切ろうとひそかに決心していたのでした。イエスの誕生は、ヨセフにとって半ば人生の終わりを意味していました。「一体、神様、どう責任を取ってくださるのですか」とヨセフは問いたかったかもしれません。絶望的です。しかし、そのようなヨセフに対し、天使はインマヌエルの出来事を告げています。このような絶望と希望との逆接的な転換がアドヴェントを特徴づけています。商業主義に犯された現代のクリスマスは、まさにお楽しみ一色です。しかし、本来、アドヴェントは古い生活の放棄の時として、悔い改めの時として守られていました。今日でも東方教会の一部ではアドヴェントに入ると華美になることを避け、服装は黒を中心にし、また断食をする教会もあります。これは決して極端なことではありません。古い自分自身を脱ぎ捨てることを迫られるという終末的な体験の中でこそ、わたしたちは自己中心的な神関係を乗り越えていくことができます。「わたしが」というエゴよりも神の恵みが優先することに気づいたとき、インマヌエルの恵みが隣人の中に見えてくるはずです。その恵みの連鎖が、古い「わたし」を打ち砕き、新しい「わたしたち」をつなぎとめていく、そのような時を過ごしたいと思います。
(一九九四年一二月二五日、札幌北光教会、小原克博)