神に造られた者


エフェソの信徒への手紙 2・1―10

 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。


この世に生きる信仰者

 エフェソの信徒への手紙は、この世界の中に置かれた教会のあり方や、この世で生きる信仰者の課題をテーマとして語っています。もちろん、一口に世界と言っても、当時の人と現代のわたしたちとの間にはその理解に違いがあります。当時の地球上の総人口は、およそ二億人であったと考えられています。それが、今世紀初めには一六億人になり、今では五〇億とも六〇億ともいわれる人々が同じ地球上に住んでいます。そして、毎年、一億人ずつ増加しています。このような世界の中に住むわたしたちは、様々な教育やメディアのおかげで、世界の様子を広範囲に渡り、しかも、きわめて速い速度でその様子をキャッチすることができます。情報の収集能力という点に関して言えば、現代と二千年前とでは確かに大きな違いがあります。しかし、最近、しばしば指摘されるのは、このような情報が溢れる時代になって、かえって人々は自分だけの密室にこもることを好むようになってきたということです。ウォークマンなどのイヤホンを耳に着けて、音楽に聞き入る若者の姿は、すでに一般的な風景になっています。自分の部屋に入るときと同じ感覚を、外出するときにも持ち運びたいと考えるわけです。また、親泣かせのおもちゃとしてファミコンがありますが、これはまさに幼児から大人に至るまで広く影響を及ぼしています。いったんファミコンを始めると、やめるにやめれない魅力がそこにはあるわけですが、ファミコンに没頭している当事者にとっては、まさにファミコンのゲームの中で演じている自分の役割にもっとも現実感を感じるようになります。ゲームの中の世界こそが本当の世界であり、そこでは非常に敏感に反応できる能力を発揮します。しかし、その敏感さが日常の生活の中では極端に鈍る、つまり、日常生活にはかえって現実感をもって接することができなくなるという事態が生じます。もちろん、ここでファミコンを悪者として処断しようとするつもりはありません。問題は、これから様々な形で登場してくる電子メディアが、いわば仮想的な現実を作り出し、それが日常的な現実と競合し、時には現実感覚が逆転するという危険性があるということです。それは、宗教にも関係します。今は、ウィンドウ・ショッピングするかのように数多くの宗教を見て回り、試着して気に入らなければ、また別のものを探すことのできる時代です。自分に合うまで、着たり脱いだりすることができます。自分のイメージに宗教や信仰を合わせるわけですから、もし気に入らなければ、プイと背を向ければよいわけです。宗教が個人の欲望や幻想を満たす道具として用いられていることを指摘して、カール・マルクスは「宗教はアヘンである」と言いました。まさにそういう危険性を宗教は昔も今も持っています。

 エフェソの信徒への手紙は、そういった個人主義的幻想に埋没することなく、信仰者と世界とがどのようなかかわりを持つべきなのかを問うています。

信仰者の過去・現在・未来

 例えば、信仰者が信仰を持つ前、どのような世界に生きていたかを二節ではこのように語っています。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」。ここには当時の世界観が表されています。古代世界においては、宇宙は天と地とその間の空中からなると考えられていました。天とは神々が住む世界であり、地は人間が住む世界です。そして、それら天と地の空中には、天に行くことのできない様々な霊が漂っていると信じられていたようです。しかも、これらの諸霊は地上の生活に大きな影響を与えると考えられており、二節でも「この世を支配する者」として記されています。同じエフェソ書の六章一二節では、信仰者の戦いをまさにこれらの霊との戦いとして次のように記しています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。もちろん、世界を支配する悪の諸霊ということで、何か超自然的な化け物を考える必要はありません。ここでエフェソの信徒への手紙が問題としているのは、信仰とは個人の内面的な事柄にとどまらず、この世における様々な支配し誘惑する力との戦いをも必然的に含むのだということです。

 そして、聖書が一貫して語ることは、そのような世界で生まれ、生きる者は、キリストに出会う以前は、「死んでいた」も同然であったということです。この世を支配する力の思うがままに生活しているからです。三節では、そのことをこのように語っています。「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべきものでした」。「肉や心の欲するままに」行動するとは、自己目的を満たすための行動するということです。そのような生活を「以前」のものとして、過去のものとして、エフェソ書は現在あるいは未来の信仰者の姿とはっきりと峻別しています。死んでいた者が生かされているという驚きをエフェソ書は伝えようとしています。しかも、それは自分の行い、自分の力によるものではなく、神の恵み、賜物であり、信仰によるものであることを強調しています。

信仰と行い

 信仰と行いの関係についてはパウロ以来、繰り返し強調されながらも、同時に繰り返し誤解されてきた事柄でもあります。わたしたちは意識するとせずにかかわらず、何かを行うことによって、さらにその成果を期待しています。「善い業」を行えば善い報いがあるのではないかと考えるのが普通です。あるいは、パウロが強調してきた「人が義とされるのは信仰によるのであり、行いによるのではない」ということを偏って理解することによって、結局、何をしてもしなくても関係ないという放縦に陥る人々もいました。信じてさえいれば何をやっても勝手だと考える人にとって、信仰と行いは別々の事柄になっています。いずれにしても、単純な因果法則に従っている限り、信仰と行為との一致点を見いだすことはできません。「善い」原因があり「善い」結果がある、「悪い」原因があり「悪い」結果がある、と考えるならば、確かに信仰が入り込む余地はありません。せいぜい信仰は善い結果を生み出すために補給する栄養ドリンクのような働きしかしないことでしょう。しかし、イエスが「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ五・四五)神について語るとき、イエスは明らかに人間本意の善悪の基準を乗り越えています。確かに、わたしたちは自分の感情を中心にして事の良し悪しを判断しがちです。そして、事がうまく運べば自分を誇るということになりますし、うまくいかなければ勝手に落ち込むということになります。そして、その上に因果法則を適用して、うまくいったのは信仰があったおかげで、うまくいかなかったのは信仰がなかったからだと考えるかもしれません。このような説明は一見、納得しやすいものです。しかし、聖書はこのような自己中心的な堂々廻りの理解を越え出ることを、むしろ求めているのではないでしょうか。

 行いによって救われるのではないと、この手紙は語っています。たとえ誰が見ても賞賛せざるを得ないような最高の行いをしたとしても、それでも、それによって救われるのではないということです。しかし同時に、わたしたちが「善い業」を行って歩むべき存在であることが語られています。これらのことは矛盾しません。一〇節がその理由を語っています。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」。わたしたちがなすべき善い業は、わたしたちの自己目的のためではなく、神が前もって準備してくださったからこそ可能なものとなります。神が前もって準備してくださった約束の成就として、わたしたちは「善い業」を行うことができます。わたしたちが用意周到に「善い業」を準備して、その結果を取引条件にして神から救いをちょうだいするのではありません。

 最近、一連のいじめの事件の中で「いい子」「悪い子」という分類が問題になっています。神は、そういう意味でわたしたちに「いい子」になりなさいとは言っていません。わたしたちが「いい子」であるよう装い、姑息にも自分の身を守ろうとするならば、それは神の御心に逆行することになるでしょう。そのような愚かな罠に陥らないように、宗教改革者マルチン・ルターは「大胆に罪を犯せ」と言いました。自己保身的に「いい子」になるよりは、大胆に神がなされる準備を信じ、そして大胆に罪を犯せと言うのです。神は、人間的には失敗や挫折に見えることを用いても、大胆に摂理を押し進めていかれるお方です。わたしたちは神の計画・神の道のすべてを見通すことはできません。しかし、わたしたちがすでにその上に置かれていることに十分な確信を持つべきです。失敗や弱さや愚かさ、すべてを丸抱えにした、わたしという存在がその道の上を歩まされています。なぜならば、人と人とが生きていくためには強さも弱さも、賢さも愚かさも、同様に必要だからです。この世を支配しようとする力は、わたしたちを強さや賢さのみを求めることに駆り立てようとします。しかし、神の準備してくださった道を歩もうとする者は、その誘惑に打ち勝たなければなりません。そして、弱いときにこそ力を発揮する信仰を身に帯びて、誇らず自慢せず、しかし、大胆に神を信頼していくときに、わたしたちは神の約束の成就者となっていく幸いを得ることができるのです。

(一九九五年一月一五日、札幌北光教会、小原克博)