コリントの信徒への手紙一 3・10―17
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
誰もが揺るがぬ土台の上に立ちたいと思います。とりわけ、先日来、報道されている阪神大震災の惨事を聞くに及んで、その思いは自ずと強くなるでしょう。しかし、今回の地震においてわたしたちが知ることは、この地上においてまったく揺るがないものなど存在しないということです。高速道路が倒壊し、マンションやホテルが横倒しになり、地面はぱっくりと口を開いています。今まで安全だと思われていたものが決してそうではないことが次々に暴露されていきます。また、この地震があってから、次に起こる地震に備えた方も少なくはないでしょう。家具の位置を変えたり、防災用具を買い備えたりして、いつか我が身に及ぶかもしれない天災に備えようとするわけです。もちろん、それがいつ来るのかは誰もわかりません。この世における日常が根底から揺り動かされる日、その日のことを聖書では「かの日」と呼んでいます。一三節に箱のように記されています。「かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」。聖書が語るこの審判の日は、しばしば火と結びつけられています。人は人生が不安定であることから逃れるために、富を蓄えたり、社会的地位を築き上げたり、様々に安定した基盤を求めます。しかし、いくら着飾ったとしても「かの日」には、すべての虚飾が焼き払われ、一人一人の本当の姿が明らかにされるというのです。一三節にある「明らかにされる」という言葉には、ギリシア語の原文では「アポカリュプトー」(avpokalu,ptw)という言葉が使われていますが、これはまさに覆いを取り除くという意味を持っています。
コリントの教会では「わたしはパウロの弟子だ」、「わたしはアポロの弟子だ」と口々に言い争っていたようです。そこでパウロが語るのは、そのような帰属意識・党派意識が取り除かれた後に、一体、何が残っているのかということです。本当にキリストを土台としているのか、という問いかけが信仰者にはいつも向けられています。土台というと、石のように固く動かないものを考えるのが普通です。現に聖書でも、神やキリストを石や岩として表現することがあります。しかし、それは生きた石であり、岩であるという点が大切です。聖書は、天の玉座に座してこの世を眺める観察者として神を語ってはいませんし、また、この世の出来事の背景にある法則のようなものとしては語っていません。聖書は生きた神を語り、生きる者の神を語ります。ですから、キリストを土台にするとは、キリスト教的安定志向の勧めではなく、まさにキリストの生命の躍動の中に全生活を置くということです。命ある者に不動ということはあり得ません。すべての被造物の創造者である神は、被造世界と共に生き、活動する神であり、そのことをこの地上においてイエス・キリストという姿で示されたのでした。
そのようなイエス・キリストを土台とする者を、神の霊が住む神の神殿であるとパウロは呼んでいます。パウロは一人一人の信仰者を神の神殿と見なしたことは、当時の世界では、きわめて革新的なことだったと言えます。まず、神殿というとエルサレムの大神殿や、アテネのパルテノン神殿を想像するように、多くの宗教は特別な聖職者によって、特別な聖域おいて執り行われるのが普通でした。そのような人間が定めた聖域によって仲介されることなく、信仰者そのものが神殿だという言葉は、封建的で、権威主義的な宗教からの解放の言葉でもあります。他方、グノーシス主義運動に典型的に見られるように、人間の個人的な体験、神との出会いを強調する宗教は確かに存在していました。しかし、それらはもっぱら人間の身体を魂を束縛する悪しきものとして否定的に考えていました。それに対し、パウロが神の神殿であるというときには、霊とか肉とかという区別なく、人間の身体すべてが神の神殿であると言っています。
また、神の神殿は偶像と対比して語られています。例えば、コリントの信徒への手紙二の六章一六節では次のように記されています。「神の神殿と偶像とどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』」。偶像とは、人間の欲望を満たすために人間が作り出した虚像です。しかし、わたしたちはしばしば神の神殿としてではなく、いつの間にか、偶像として生きたり、人を偶像視したりしてしまいがちです。神はわたしたちを生かし、わたしたちを新しさの中へと押し出される方であるのに、わたしたちは、自分にはこれくらのことしかできない、自分はこの程度の人間に過ぎないのだと思い込んで、自分の身を守ろうとします。自分自身を偶像化することによって安定を得ようとするわけです。あるいは、他の人に対し、自己中心的な視点から、早急な判断を下そうとします。「この人はこういう人なのだ」とイメージを押しつけることによって、自分にとって対処のしやすい動きのない偶像として扱おうとするのです。
聖書は、いずれの偶像崇拝に対しても強い警戒を発しています。そのような偶像に対置するものとして、パウロは新しい神の神殿としての信仰者の姿を、そして教会を考えています。わたしたちが神の神殿であるとは、もちろんわたしたちが自らの手で獲得した特権ではありません。むしろ、それは神の恵みによってわたしたちに与えられた課題です。生ける神の姿をこの世においてイエスが表したように、今また、わたしたちは生きた神殿として生ける神を証していく務めを与えられていますす。その務めを果たすわたしたちの間に神は住み、巡り歩かれます。わたしたちの間で巡り歩かれ、一人一人の人生の中で巡り歩かれる神の歩みに歩調を合わせながら、いつしか、わたしたちの人生そのものが神の道行きの上に置かれていく、それがキリストを土台とする生き方となるのです。最後に、イエス自身が土台について語っている言葉に聞きたいと思います。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり立ててあったので、揺り動かすことができなかった」(ルカ六・四六―四八)。
(一九九五年一月二九日、札幌北光教会、小原克博)