わたしは良い羊飼いである


ヨハネによる福音書 10・7―18

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


羊と羊飼い

 皆さんは、羊と聞いて何をイメージされるでしょうか。今日の聖書の箇所に限らず、聖書には羊や羊飼いという言葉が多く見られます。わたしたちが聖書を読んでいく上で、どれくらい言葉に対して具体的なイメージを膨らませることができるかはとても大事なことです。イエスが「わたしは良い羊飼いである」と語られたときに、おそらくそれを聞いたほとんどの人は、日常生活の比較的身近なところにいる羊や羊飼いの存在を思い浮かべることができたに違いありません。それに比べると、残念ながらわたしたちの身近に羊はいませんし、また職業的に羊飼いをしている人もおられないと思います。そういう意味では、言葉の第一印象としては、羊について非常に貧困なイメージしか持ち合わせてないと言うことができます。しかし、それだけにわたしたちには想像力を豊かにして聖書に接していく必要があります。

 そもそも旧約聖書においてアブラハムなどイスラエルの先祖たちは遊牧民として生活をしていました。羊など家畜と共に新しい牧草地を求めて、一定の場所に長期間とどまらず次から次へと移動していく生活です。羊飼いはどのような仕事をしたのでしょうか。それは意外と大変ものであったと思われます。まず、羊飼いは適切に牧草地や水のある場所へと大勢の羊たちを導いていかなければなりません。また、すべての羊がいつも健康であるとは限りませんから、弱ったり病気になっている羊の世話を見なければなりません。夜になると特に大変です。夜には羊泥棒や狼のような獣が出没します。そのような外敵から羊を守るために羊飼いは夜も番をしなければなりませんし、それを一人でできない場合には、今日の聖書にもあったように雇い人を使うことになります。他にも羊飼いの役割はあると思いますが、いずれにしても、羊たちは羊飼いなしには生きていくことのできない存在です。そして、そのような具体的なイメージのもとでイエスは「わたしは良い羊飼いである」と語られたのです。しかし、この言葉には少し注意が必要です。なぜなら、この言葉は原語のギリシア語で特に「わたしは・・・である」という言葉が強調されています。このニュアンスを入れて、もう少し厳密に翻訳すれば「わたしこそが良い羊飼いである」となります。したがって、それはイエスは羊飼いであり、その良し悪しの程度が「良い」羊飼いである、ということではなく、多くの羊飼いがいるが、本当の羊飼いはわたし一人である、という意味を持っています。

 この羊飼いというイメージは、教会の歴史の中で聖職者に当てはめられてきました。例えば、プロテスタント教会で用いられる「牧師」という言葉は、羊を牧する者という意味に由来していることは明らかです。しかし、いくら立派で誠実な牧師がいたとしても、だた一人の良い羊飼いであるイエスとは区別されなければなりません。ある人が他の人々を自分に従わせるために、自分を指して「わたしは良い羊飼いである」と語り、そしてイエスの代わりをすることはできないということです。誠実な牧師の語る言葉は、イエス・キリストというただ一人の良い羊飼いがおられることを明らかにするはずです。

 心理学にメシアン・コンプレックスという言葉があります。日本語に訳すとメシア症候群と言うことができるでしょう。これは自分がメシアだと錯覚する、あるいは他人からそのような誤ったイメージを押しつけられるときに生じる心理的症状のことです。例えば、自分こそが人々を救わなければならないと使命感に燃える人は、メシアのような役割を果たそうとし、しかし結果的にすべてを解決しきれないことで、自分を袋小路へと追い込んでいくことがあります。また、反対に信徒が牧師に対しメシアの役割を押しつけてしまう場合もあります。イエス・キリストが苦しみ、十字架にかかり、そして救いを勝ち取った同じことを牧師に要求するわけです。牧師は楽をしてはならない。牧師を苦しめることによって何か救いが得られるとでも思ってしまいます。もちろん、いずれの場合の行き過ぎも、聖書のメッセージから離れてしまいます。牧師ができることは実にささやかです。ただ一人の「良い羊飼い」であるイエス・キリストを繰り返し語っていくことです。

 そのような意味では牧師もやはり羊のひとりです。しかし、同時に聖書はわたしたちに対し、ただ羊であることにとどまるのではなく、羊飼いになることも求めています。ヨハネによる福音書二一章一五節以下で、イエスは三度ペトロに「わたしを愛しているか」と問いながら、「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」と語っています。ペトロは決して特殊な人物ではありません。わたしたちはイエスに招かれることによって同時にペトロが受けたのと同じ使命を負わされていると言えます。もちろん、イエスはわたしたちの不十分さや弱さを知っていますから、わたしたちをこの世に遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものだ、とも語っています。しかし、それでもイエスはわたしたちがこの世とかかわり合っていくことを求めています。それはイエスの立場から言えば、次のようになります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(一六節)。

囲いの内と外

 教会は確かに様々な点でこの世と区別され、その意味では、ある種の囲いがあると言えます。しかし、この囲いは世の中から逃避し、断絶するための囲いではありません。また、できるだけたくさんの羊を囲い込むための縄張り争いのための道具でもありません。ただ歴史の中では、教会が縄張り争いのようなことをしてきたことも事実としてあります。それが結果的に教会の分裂をもたらしたこともあります。教会同士の関係に限らず、縄張り争いというのは厄介なものです。この世には確かに囲い込もうとする力があり、目に見えない縄張りがあり、またそれに応じて多くの羊飼いたちがいます。社会と隔絶した自分たちだけの理想世界を作ろうとする宗教団体も決して少なくありません。そのような中で、イエスが「わたしは門である」と言っていることは象徴的です。門は囲いの内と外をつなぐ役割を果たしているからです。このイエスという門のゆえに、わたしたちは希望に満たされて、この世へと送り出されていきます。

 しかし、この世の羊飼いたちが時として非常に大きな力を持つことがあります。例えば、第二次世界大戦に突入しようとしていたドイツ帝国では、アドルフ・ヒトラーという羊飼いが人々を一手に引きつけていました。多くのキリスト者は、イエス・キリストという羊飼いとヒトラーという羊飼いは仲よくやっていけると考えていました。そしてゲルマン民族の純粋さと優秀さといううたい文句を囲いの内側に詰め込みながら、外側に対しては、さながら強盗、盗人、狼のような非道を尽くしてきました。しかし、囲いの内側にいる者は、そのような残虐行為も神の国建設のための一段階と考えていました。わたしたちの国の歴史の中にも同じような出来事があったことは言うまでもありません。イエス・キリスト以外の羊飼いの声に聞き従っていった過去をわたしたちは直視しなければなりませんし、特にこれからの時代への戒めとしなければなりません。

 誘惑の声はいつの時代も最初からそれとはわかりません。知らず知らずの内にその声に耳を慣らされ、いつの間にかその声に従わされるという点にもっとも大きな危険性が潜んでいます。しかし、良い羊飼い以外の声が大きくなる前兆には、いつも恣意的な囲い込みがあります。現在話題になっているオウム真理教の問題もそれにかかわっています。オウムウ真理教の捜査が進展することは望ましいことです。しかし、警察や国家権力がオウム真理教をスケープゴートとして利用し、国家の管理の外にあるものは悪いものだ、国家の監視のもとにいれば安全だと呼びかける声には少なからず注意が必要です。人々の中にある世の中に対する不安を顕在化させながら、国家が用意する安全な囲いの中に入りなさいと言います。五〇数年前の時代状況にきわめて似てはいないでしょうか。

 イエスは「わたしは良い羊飼いである」とわたしたちに語りかけています。その方は、わたしたち羊のために命を捨てる方でもあります。かつてドイツ帝国はヒトラーという一人の独裁者の自殺によって、決定的な崩壊の時を迎えました。しかし、イエス・キリストがわたしたちのために自らの命を献げてくださり、死からよみがえられたことにより、わたしたちは、この世を超えた神の国が近づきつつあることを知ります。それはまだおぼろげにしか見えないかもしれません。しかし、パウロの言葉を借りるならば「顔と顔を合わて見ることになる」(一コリ一三・一二)そのときまで、わたしたちはしっかりと主イエスの声に従っていく必要があります。教会は何よりも主イエスの声において一致することができます。一致は、組織をしっかり構成して、そこに人間を当てはめてできるものではありません。また、北海教区が大切にしている「連帯」という言葉も、人間的な寄り合い所帯のことを言っているのではなく、一人の良い羊飼いに従っているという証しの言葉として理解されるべきです。  わたしたちが一体誰に従って生かされているのか、そして誰の声によって、今またこの世へと遣わされようとしているのか、そのことを特に心にとめながら新しい一週を過ごしたいと思います。

(一九九五年四月三〇日、札幌北光教会、小原克博)