イエスによる平和
ヨハネによる福音書 14・27―31
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
終 末
今日の聖書の箇所が示している状況を考えてみましょう。この状況と切り離して、イエスが与える平和を考えることはできません。イエスは弟子たちに対し、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言ったことをあらためて思い起こさせています。具体的に言うと、イエスが去って行くとは、十字架につけられ死ぬことだということをわたしたちは知っています。もちろん、弟子たちはそのことがよくわからず、近い将来に何か大きな変化があることを漠然と感じていたに過ぎません。イエスはただ去って行くだけでなく、また戻ってくると語ります。この言葉によってまずわたしたちが思い浮かべるのは、十字架につけられてから三日目にイエスが弟子たちの前に現れる、あの復活の出来事です。しかし、教会の歴史の中ではイエスが戻って来るというのは、ただ復活の出来事だけでなく、さらにこの世の終わりに、もう一度来られることを意味してきました。この世の終わりにイエスが来られ、そして究極的な平和がもたらされることをヨハネの黙示録をはじめ聖書の多くの箇所が記しています。
しかし、この世や歴史に終わりがあるというのは必ずしも一般的な考え方ではありません。しかし、聖書に根拠を持っている終末理解がしばしば独り歩きをして、わたしたちの社会でも日常的な言葉として用いられています。特に最近はオウム真理教の関係で終末思想に対する関心が高まっていると言えるでしょう。こういった現象は社会の奥底に流れている欲求のようなものを映し出しています。つまり、オウム真理教の問題にしても、それは不慮の事故というよりは、むしろ社会の深部に流れているマグマがオウム真理教という亀裂から一気に吹き出してきたかのような感じもします。彼らは自作自演にしろ、この日常に終わりをもたらそうとしました。逆に言うと、それだけ、この社会は終わりなき日常に支配されているということです。めりはりのない生活がとめどもなく繰り返されるだけでなく、それがしばしば出口の見えない暗闇へと現代人の魂をいざなっていきます。いじめの問題はどうでしょうか。日常生活の中で不快な経験、苦しい経験をすることを完全に避けることは確かにできません。しかし、たとえつらい思いをしても、それが長くは続かなければ、例えば、いじめられたとしてもそれが三日すれば終わると分かっていれば、おそらく人間はそれに耐えることができます。しかし、苦痛に満ちた生活が繰り返され、また明日も同じ苦痛が待っているかもしれないと考えると、未来という時間はすべて恐怖の仮面をかぶって立ち現れてきます。永遠に続くかのように見える恐怖と苦痛から逃れるために、自分で自分の命に終わりをもたらすことも起こります。それだけ、終わりが見えないということは人間には大きな苦痛だということです。終わりのない介護生活の中で子どもが年老いた親を殺害するという事件も起きてくるのです。子育てに耐えかねた親が子どもを殺すということも起こり得るのです。しかし、どのような場合であれ、終わりなき日常に対し死をもって終わりを告げることは、本当の意味での平安をもたらしはしません。
終わりなき日常の背景には、生活をそのようなものとして規定する力や制度が存在しています。いじめの問題でしばしば指摘される命令する者と従う者の関係は、まさに大人社会での権力構造を如実に映し出しています。また、老人介護の問題の背景には、介護は家庭単位でなされるべきだという伝統的な通念があります。それは容易にできれば確かに望ましいことでしょうけれど、むしろ、公共の福祉サービスが家庭内介護も支援するような社会意識が必要です。また、育児の問題には、女が家庭で育児から家事の一切を担当し、男は外で働くという、やはり伝統的な男女分業の考え方が影を落としています。しかし、実際には男も育児を積極的に担当できるような制度と意識の改革が必要です。
律 法
このように、強い者と弱い者、親と子、男と女など様々な区別の間には両者の関係を規定する力が暗黙の内に働いています。パウロの言葉で言うならば、それは律法の力です。律法は当時のユダヤ教の戒律であり、現代のわたしたちには何か縁遠い感じがします。しかし、律法の力は、現代においても姿を変えて現れています。それは人と人の間に壁を造り、敵意を生じさせる力です。しかし同時にパウロは、この律法の支配からわたしたちを解放してくださる方としてイエス・キリストを宣べ伝えています。例えば、エフェソの信徒への手紙二章一四節以降ではこのように語っています。「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。パウロの語る律法を現代の言葉で言い換えてみましょう。律法とは、過去と未来を凍結させる力です。そこでは、過去に照らし合わされて未来が決定され、規則と戒律に従って、同じことが繰り返されます。そして定められたレールの上を走らなければなりません。現代の学歴社会もその一例です。人生の成功のためにはレールの上をわき目を振らずにひた走ることが求められます。そこからはずれることは失敗であり、敗北ということになります。そのような律法に対し、では福音とは何でしょうか。それは未来を切り開く力と言うことができるでしょう。ただし、それはイエスの十字架と切り離して考えることはできません。わたしたちの生活はただ漫然と過去から未来へと流れていくのではなく、聖書によれば、イエスの十字架の死によって、日々、終わりを告げられているとさえ言うことができます。自分で自分の命に終わりを告げるのでもなく、自作自演で終わりなき日常に終わりをもたらすのでもなく、ただイエスの死によって、わたしたちの前にまったく新しい神からの賜物として未来が切り開かれていきます。そのことをパウロはローマの信徒への手紙六章五節以下で次のように語っています。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされて、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。
未来は黙っていても懐に転がり込んでくるものではなく、その一日一日が神によって与えられた恵みの賜物であることを聖書の終末理解は教えてくれています。終末とは何か遠い未来のことのようでありながら、しかし、今日をどのように生きるか、という問題と深く関係しています。それゆえ、イエスは世の終わりを語りながら、同時に「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ六・三四)とも語られるのです。
平 和
イエスが残し、与えるという平和が何かということを知るために、かなり遠回りをして考えてきました。この平和がどのような緊張関係の中で語られているのかを理解しなければ、平和という言葉は日常から孤立した現実逃避の言葉になってしまいかねません。旧約聖書においてエレミヤという預言者は偽預言者を批判して、次のように語りました。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」(エレ六・一四)。偽予言者たちはエルサレム崩壊の危機が身近に迫っているにもかかわらず、人々の歓心を買おうとして、大丈夫だ、今の平和はこれからも続くのだと、平和を安売りしたのでした。同様に、イエスがもたらす平和も、ただそれにすがりつけば悩みも苦しみも簡単に吹き飛ぶような能天気な平和ではありません。それは、イエス自身が自らの死によって終わりを示しながら、その終わりの時が今という時に鋭く差し込む中で約束される平和です。ですから、マタイによる福音書一〇章三四節でイエスが語られた「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」という声を正しく聞き取らなければなりません。旧約聖書の預言者たちが神の平和を語るためにかえってイスラエルの裁きを語らねばならなかったように、イエスの平和は同時に剣の鋭さを持っています。終わりなき日常の中に、イエスの平和が差し込むことによって、「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄」(エフェ二・一四―一五)します。イエスの平和はわたしたちを悩みや苦しみから隔離して、それらがないかのような幻想を抱かせはしません。その意味で、イエスの平和はわたしたちを地上の現実から引き離す<空中浮遊術>ではないのです。むしろ、イエスの平和によって、わたしたちは悩みに耐え、悩みを抑圧せずに、かえって悩みを悩みとして耐え忍ぶ力を得ます。そのイエスの平和の土台の上に立ってこそ、可能なところでは苦しみに慰めを与え、悩みを軽くすることに手を貸すことができるのであり、またそれが求められています。
三一節でイエスは語ります。「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう」。イエスが与えたくださった平和をこの世に対して証しすることが、わたしたちの使命です。わたしたちは、この世にあって人と人とを隔てている壁を取り除くという和解のつとめを負った「キリストの使者」(二コリ五・二〇)でもあります。「さあ、立て。ここから出かけよう」というイエスの呼びかけは、ただこの場から外の世界へ出て行くということだけでなく、神によって開かれた未来へと目を向けていくことでもあります。その未来はただ過去の古い自分によって満たされはしません。人と人の間に、神と人の間に平和を実現する者が、イエスの呼びかけに応えることができるのです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタ五・九)。
(一九九五年五月二八日、札幌北光教会、小原克博)