神にかたどって造られた新しい人


エフェソの信徒への手紙 4・17―31

 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。  だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。


この世における生活

 わたしたちは日常生活のかなりの部分を惰性的に過ごしています。惰性的というのは必ずしも悪い意味ではなく、日常のこまごまとしたことをうまくこなしていくためには必要なことでもあります。例えば、わたしたちが歩くときも、その歩き方はかなり惰性的です。右の足が前方にどれくらいの角度で振り出されたときに、体の重心を前方に移動し、さらに右足が地面に着地した後、何秒後に左足を上げ始めるなどということをわたしたちは意識して歩きません。もし、一つひとつ厳密に考え始めれば、わたしたちは歩くこともできなくなってしまいます。歩くのと同じように、人と出会ったときも何となく挨拶することができ、何となくうまく世の中を渡り歩いていきます。そして何となく世の中の動きに身の振り方を合わせることを覚えていきます。

 もちろん、教会の誕生と成長もこの世の様子と無関係ではありません。教会が誕生した頃は、まさに歩き始めたばかりの幼児のように、何となくぎこちなく、時折つまづきながら、しかし、何か地面に密着するように一歩一歩が踏み出されていました。そのようなヨチヨチ歩きの教会が次第に足どりも軽く、世の中を闊歩するようになっていきます。世の中を自由に歩けるようになると同時に、世の中の様子にどんどん順応し、同化していきます。エフェソの信徒への手紙はそのような教会にあてて書かれた、ある種の警告の書です。本当にそんな歩き方でいいのか、それがキリストによって教えられた歩き方なのか、と問うています。今日の聖書の箇所では古い生き方と新しい生き方が対比的に描かれています。一七節で「異邦人と同じように歩んではなりません」と書かれていますが、ここで異邦人という言葉は、ユダヤ人に対する異邦人という対立関係の中で語られているのではなく、この世の人々一般を意味しています。つまり、この世の人々と同じような生活をすることが、あなたがたの本来の姿なのか、と疑問を投げかけ、同時に新しい生き方を勧めています。31節では「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と語っています。この警告の言葉に対し、わたしたちは第三者的な立場を取ることはできません。聖書の言葉によってわたしたち自身を吟味しなければなりません。

 ところで、ここではただ漠然と健全な生活の勧めが説かれているのではありません。一体何が問題なのかということを、特に二二節〜二四節の言葉が示してくれています。ですから、この言葉を丁寧に考えていきたいと思います。

キリストを身に着ける

 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。ここで特に聖書に特徴的な表現があります。それは「古い人を脱ぐ」、「新しい人を身に着ける」という表現です。これに類似した表現は多くの箇所に見いだすことができますが、ここでは三箇所だけ類例を示し、聖書の意図するところを探る糸口にしたいと思います。まず、ローマの信徒への手紙一三章一四節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」とパウロは語っています。これと先ほどのエフェソ書の「新しい人を身に着けなさい」という言葉を関連づけると、この新しい人とは何か漠然とした努力目標ではなく、イエス・キリストのことではないかと連想することができます。また、ガラテヤの信徒への手紙三章二七節以下では次のように語られています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。ここでも「キリストを着る」という表現が用いられていますが、この箇所で大切なのはキリストを着ることによって、それ以前の人種的区別、社会的区別、男女の性差がもはや本質的なものではなくなるということです。キリストを着ることによって、以前の様々な隔てが取り除かれて、キリストにあって一つとなることが強調されています。また、コリントの信徒への手紙二の五章二節以下では次のように記されています。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。ここで上に着たいと願っているのは「天から与えられる住みか」です。わたしたちはすでに地上の住みかを着ていると考えられています。そして、ここでパウロが言いたいのは地上の住みかを脱ぎ捨てて裸のような姿になりたいというのではなく、わたしたちの体全体を覆い、飲み込むような天から与えられる住みかを着たいということです。

 以上引用した聖書の箇所から、なぜ聖書が「新しい人を身につける」「キリストを身にまとう」「キリストを着る」と独特な表現を使うのかが、少しわかってきます。そもそも、当時は服装がそれを着ている人の正体を現していると考えられていました。現代のようにお金さえあれば誰もが自分の欲しい服を買い、身につけることができたのではなく、服装は人と特定の結び付きを持っていたようです。つまり、服装を見るだけで、ユダヤ人であるのかギリシア人であるのか、あるいは、身分の高い者なのか奴隷なのか、男なのか女なのかなどを、かなりはっきりと識別することができました。それゆえ、新しい服装を身にまとうことは、ただ表面的な装いの変化ではなく、それを身にまとう人自身が根本的に変わることを意味しています。そういった意味で、「キリストを着る」とはクリスチャンのふりをするとか、クリスチャンらしく振る舞うという表面的なことではなく、まさにイエス・キリスト自身に直接連なり、イエス・キリストと深いかかわりを持った者となるということを意味しています。

イエスを想起すること

 また、こういった独特な表現が用いられた理由には当時のグノーシス主義思想に対する警戒もあります。グノーシス主義は人間が霊魂と肉体という二つの部分から成り立ち、本来自由なはずの霊魂が肉体という牢獄に閉じ込められていると考えました。この考え方は、当時の世界の常識と言えるまでに一般的に受け入れられていました。特に教会にとっての危機は、グノーシス主義的信仰が人間の霊的救いを強調することによって、地上を生きたイエスの姿、その現実性をないがしろにするということでした。

 実はこの種の思想はいつの時代にも形を変えて存在しています。新興宗教のほとんどは霊肉二元論を前提にし、魂の救済を訴えます。グノーシス主義が姿を変えて現代社会に蔓延しているのであり、初期の教会がが直面した危機は、まさにわたしたちの危機でもあります。パウロは肉体の牢獄から抜け出ることを願ったのではなく、わたしたちのすべてを覆い尽くす命の力を望んだのでした。人間がどのような構造を持っているかに関心があるのではなく、わたしたちの霊も肉もすべてに命を与える新しい人、イエス・キリストを身にまとうことを願ったのでした。

 ここでもう一度二四節の表現に戻ると、そこには「神にかたどって造られた新しい人」とあります。「神にかたどって造られた」という表現を聞いて、創世記の天地創造と人間の誕生の箇所を思い浮かべることができます。創世記の一章二七節には「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。しかし、天地創造の直後に聖書は人間が神に対して罪を犯したことを記しています。堕落後の人間に創造のときに与えられた神のかたどり、神の像が残っているのかどうか、ということはキリスト教神学の中でかなり大まじめに論じられてきました。しかし、いずれにしても神と人間の関係がもはや正常なものではないこと、たとえ罪ある人間の中に神のかたどりが残っていたとしても、それはすでに倒錯したものであることを聖書は語っているようです。つまり、わたしたちは健全な生活をしなさい、新しい生活をしなさい、と言われても、ただ自分の道徳心に問いかけ、自分の良心の声に聞くことによってそれをすることはできないということです。わたしたちが神の御心に従うためには、神にかたどって造られた方、イエス・キリストに倣う他ありません。その意味で、わたしたちはグノーシス主義者のように、あるいは現代の霊的救済論者のように、ただ漠然と神を求め、神に祈っているのではありません。わたしたちが神という言葉を口にするとき、そこで地上を歩まれたあのイエスの姿を思い出す必要があります。わたしたちが神を語るとき、弟子たちと歩かれたイエスの足音を聞き、罪人に差し伸べられたイエスの手のぬくもりを感じ、人々を招いて食卓を囲まれたイエスの祝福の声を耳にし、そして人々に捨てられ、十字架を担っていかれたあの後ろ姿を思い起こさなければなりません。これが、神にかたどって造られた新しい人を身につけるということの意味です。

 イエス・キリストの生きた姿がわたしたちの視界から消えていくとき、わたしたちの生活は自ずとこの世の有り様に同調していきます。わたしたちがイエス・キリストの足音を聞き逃すときに、わたしたちの歩み、足どりは惰性的になっていきます。わたしたちがイエスの手のぬくもりを忘れるとき、わたしたちは隣人に対し「憤り、怒り、わめき、そしり」(三一節)ます。この手紙が、古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身につけなさいと命じていることの真意を、よく理解する必要があります。わたしたちは新しい週の始まるごとに礼拝を持つことによって、惰性的な生活を見直し、そして、今わたしたちが何を身につけているのかをあらためて吟味するチャンスを与えられています。キリストを身につけていることを味わいつつ歩む新しい週でありたいと思います。

(一九九五年七月一六日、札幌北光教会、小原克博)