従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、<霊>は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
新約聖書には確かに霊と肉という表現が多くあります。しかし、問題は、それを読むわたしたちが知らず知らずの内に自分流の霊あるいは肉のイメージをもって聖書を読み、結果的に聖書が言おうとしている点を誤解することがあるということです。実際、当時の世界で広く受け入れられていた霊肉二元論という考え方を、現代に生きる私たちは容易に理解できます。それどころか、無意識の内に霊肉二元論を前提にして聖書を読んでいることがあります。
パウロは霊と肉の対比を明確にしていますが、当時の霊肉二元論を追認し、それに基づいてキリストを語ろうとしているわけではありません。彼はむしろ人間の体に特別な価値を見いだそうとしています。その典型的な例として、コリントの信徒への手紙一の六章一九節以下で次のように述べています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。パウロにとって体は魂を閉じ込める牢獄であるどころか、聖霊が宿る神殿とされています。しかし、それは人間が最初からそのようなものを所有しているのではなく、代価を払って買い取られた結果そのようなものとされています。そして、罪に支配されていた体を買い戻すために支払われた代価こそがキリストの十字架であったと聖書は語ります。それだけの価値を持ったものとしてパウロは体を考えているのであり、それだからこそ、その買い取られた体で神の栄光を現しなさいとパウロは語るのです。人間の体と神の栄光とは密接に結びついているということを、ここで確認することができます。
では、霊について聖書は何を語っているでしょうか。それは実に様々です。一方ではイエスによって追い出される悪霊の存在が記されています。当時の世界では病気や不幸は超自然的な霊の力によって起こされると考えられ、また、地震や大雨などの自然災害の背景にも霊的な力が働いていると考えられていました。他方、聖霊と呼ばれる特別な霊の働きが記されています。聖霊の働きをパウロはガラテヤの信徒への手紙五章二二節で次のように記しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。ここでも、今日の聖書の箇所と同様に霊と肉の対比がされています。しかし、パウロはここであげているような霊の結ぶ実、つまり霊の働く結果をただ漠然と道徳的健全さに照らし合わせて列挙しているわけではありません。愛、喜び、平和、寛容などの実体はイエスにあります。つまり、パウロが霊と肉の関係を語るときも、そこでは地上を歩まれたイエスの姿を思い起こしながら、またイエスを通じて働く父なる神の愛に思いをめぐらせています。
父なる神と子なる神イエスと聖霊の働きをキリスト教の伝統の中では三位一体の神として呼んできました。三位一体などというと非常に神学的な響きがするのですが、これは単なる神学理論ではありません。わたしたちは三位一体の神のもとに聖書を読み、理解し、解釈するよう求められています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は唯一なる神を信じる唯一神宗教であるとも言われますが、わたしたちは漠然とひとりなる神を信じているわけでなく、その神を三位一体の神として信じています。それはギリシアの哲学者のように宇宙の根本原因、あるいは霊的本質として神を考えるということではありません。そうではなく、父なる神から遣わされた神の独り子イエス・キリストがどのように地上を歩まれたのか、人々に何を語られ、何を示されたのかを思い起こしながら、そのイエスと父なる神の交わりの内に聖霊の働きが示され、その聖霊がわたしたちに信仰の力を与える、それらの三位一体神の働きを知ることがわたしたちの信仰です。それは抽象的な哲学的唯一神信仰ではなく、具体的な唯一神信仰です。この視点から、もう一度今日の聖書の箇所を見直してみると、霊と肉の対比が単に人間の体の仕組みを分析的に叙述しているのではなく、まさに人間の体を舞台として父と子と聖霊という三位一体の神による救済のドラマが演じられていることがわかります。
ですから、わたしたちは聖書の中で霊と肉という対比的表現に出会ったときに、ただその言葉でとどまることはできません。その表現が由来する点、その表現を成り立たせている事柄にまで立ち返る必要があります。パウロが「霊の思い」、「霊の支配」と言うとき、それは同時に「時は満ち、神の国は近づいた」というイエス・キリストの宣教の言葉に連なっています。イエスが宣べ伝え、自らの体をもって示した神の国の到来をパウロは身をもって体験します。神の国は神の支配ということでもありますが、それをパウロは多くの人々に先立って味わっています。その神の国を先取りする意味が「霊」という言葉には込められています。神の霊は神の国が近づいていることのしるしです。そういう意味で、わたしたちが今日の聖書箇所のように霊と肉という表現に出会ったときに、そこでイエスの宣教の叫び声を聞き逃すことはできません。もし、イエスの呼びかけとイエスのなした業と無関係に、霊という言葉を聞くなら、それはまさに幽霊のようにわたしたちの観念の世界へと消え去っていくことでしょう。
(一九九五年七月二三日、札幌北光教会、小原克博)