神と人の間に立てられた契約


創世記 17:1―8

 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
 「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。
 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」。


契約とは?

 今日の聖書の箇所では、神がアブラハムと結んだ契約の出来事が語られています。そこで、アブラハムという人物を中心に、特に聖書が語る契約とは何かということを考えていきたいと思います。

 まず、聖書にある契約という言葉は、一般的に日常生活で使われている契約とは異なる部分を持つということを知っておく必要があります。それと同時に考えるべき課題は、わたしたちがこの契約という言葉をどれほど意識して信仰生活を送っているか、ということです。人がクリスチャンになるということは確かに、神との間に一つの契約関係を結んだことに他なりません。しかし、実際には本来あるべき契約意識はしばしば希薄になり、場合によっては「卒業信者」という言葉まで出てきます。

 「卒業信者」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。初めて聞いた方も、何となくその意味を推測することができると思います。端的に表現すると、卒業信者とは次のように考える人のことです。「キリスト教の言っていることはだいたい理解できましたから、わたしはもう教会に来る必要はありません。あとは自分で勉強しますから、わたしはひとまず卒業します」。このようにキリスト教信仰を理解している人の中には、おそらく神との契約という考えはほとんどないと言ってよいでしょう。あるいは、非常に知性化された契約理解だけがあるのかもしれません。卒業信者の多さを日本の教会の最大の問題とさえ言う人もいるくらいですから、根の深い問題であることには違いありません。確かに、知識だけで何とかわたしたちの記憶の中にとどまっている契約であるなら、それは容易に忘れ去られ、破棄されるでしょう。しかし、聖書が語る契約は単なる知識ではなく、また一時的な約束事ではないことをアブラハムの物語も教えてくれているようです。

 次に、日常的な契約理解と聖書的な契約理解の違いとして考えてみたいのは、その有効範囲です。わたしたちが普段、契約を結ぶというと、それは自分の安全を守るためや、あるいは自分の権利を主張する保証として契約を考えています。それ自体はもちろん間違ったことではありませんが、それがある極端に至ると、契約は非常に排他的な戦いの論理として機能することがあります。例えば、歴史的に締結されてきた国と国との契約、つまり同盟関係や条約といったものは、単に当事者同士の友好関係を保証するだけでなく、それは契約の外にある国への敵対関係を意味していました。戦中の三国同盟や、戦後の日米安全保障条約などはその一例です。また、記憶に新しい、ラビン・イスラエル首相の暗殺事件も、矮小化された契約理解と関係しています。事件の背景にあるユダヤ人保守派の人々にとって、神とイスラエルの契約は独占的なものであり、他の民族と共有する余地のないものとして理解されています。今日の聖書箇所の八節に注目してください。「わたしは、あなたが滞在しているカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」。この言葉をまったく排他的に受けとめてしまうと、ラビン首相らが押し進めようとしてきたイスラエルとパレスチナの和解は、まさに神の約束に対する背徳行為として映ってしまうのです。もちろん、聖書はそのような排他的かつ攻撃的なイデオロギーとしての契約を語ってはいません。創世記一二章では、地上のすべての者がアブラハムによって祝福に入れられるということが語られていますし(一二・三)、この一七章においても、アブラハムは神によって「多くの国民の父」(四、五節)、「諸国民の父」(六節)とされると記されています。

 矮小化された契約理解は、縄張り意識や拡張主義に結びつきやすくなります。そして、それがキリスト教にとっても他人事ではないことを、わたしたちは歴史を通じて知っています。ヨーロッパ大陸から派遣されたキリスト教宣教の一群が、一方で新しい文化を伝えながらも、他方で先住民の固有の文化やアイデンティティといったものを著しく破壊してきたという事実が、今日になってようやく受けとめられてきました。教会は先住民に対し、自分たちの契約関係の中に入るかどうかを迫り、そこに従順に入ってくればよしとしました。しかし、それを拒めば時として大量の殺戮が行われたのです。

 いや、それでも日本の教会にはそのようなひどい歴史はないと考えるかもしれません。果たしてそうでしょうか。確かに、日本の教会は数と力の上で社会に対し優位に立つことはありませんでしたから、欧米のように契約関係を強引に外に拡張するということはなかったと言えるでしょう。しかし、正しい契約理解に立っていなければ、それはたとえ外側に展開されなくとも、内側に大きなひずみを生じさせることになります。わたしたちが属している日本基督教団の歴史に、そのような契約のひずみをはっきりと見ることができます。例えば、それは戦時中に第六部、第九部に属する人々に対し教団が取った態度、あるいは、戦後、沖縄キリスト教団に対し取った態度に典型的に現れています。小さなもの、弱いものが、より大きな全体維持の名目のもとに犠牲にされ、そのような犠牲のもとに成り立っていた合同であり、契約であったわけです。わたしたち一人ひとりは言うに及ばず、この教会が、また日本基督教団が神との正しい契約関係に立っているかどうかは、今まさに問わなければならない課題です。わたしたちは、神との契約というすでに与えられている恵みに対し無自覚であってはなりません。

信仰の父アブラハム

 契約という言葉がはらむ問題性と課題を説明するために少し回り道をしましたが、ここであらためて神がアブラハムとの間に立てられた契約の出来事に目を向けていきたいと思います。アブラハムはイスラエルの先祖であるというだけでなく、信仰の父として聖書の中で特別な位置を占めています。したがって、アブラハムの名前は旧約聖書だけでなく、新約聖書においてもしばしば出てきます。例えば、マタイによる福音書三章七節以下で、洗礼者ヨハネは次のようにアブラハムに言及しています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。アブラハムを誇りとするユダヤ人たちの安心感に対し、洗礼者ヨハネは石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことのできる神の力の大きさをぶつけています。このヨハネの語る調子は、創世記一七章にも合っています。なぜなら、そこでは契約とは言うものの、神が圧倒的な権威でもって語り、アブラハムはそれに対してひれ伏し、沈黙を持って神の言葉を承認しているに過ぎないからです。アブラハムの人格的偉大さは問題にされず、むしろ神の選びが中心になっています。その出来事が起こったのは、アブラハムが九九歳の時であったと一節に記されています。

 九九歳のアブラハムに神が非常に重要なことを語られ、契約を結ばれたという点を見逃してはならないと思います。わたしたちは教会の将来を考えるときに、若者が大切だということを異口同音に語ります。しかし、年老いた者にも神は語りかけ、なお恵みと責任を負わせています。年老いたからといって、信仰を卒業できるわけではありません。着実に高齢化社会へと向かっている時代の中で、わたしたちは年老いた者にもなお語りかけられる神を十分に意識しておかなければなりません。神の働きと選びは、この世の効率主義とはかなり異なっています。神はまだ何の社会的実績も持たない青年ダビデをイスラエルの王として選び出し、また、世間的に見ればまだとても役立ちそうにない若者を預言者として立てられます。それと同様に、常識的に見れば、もう役に立ちそうにない年老いた者に、なお神が約束を与えてくださることを聖書は教えてくれています。

 この年老いたアブラハムは、もともとの名前アブラムを五節においてアブラハムに変えられています。アブラムという名前は「父は高くにいます」という意味を持っていますが、それがアブラハムという発音に変えられることによって、「多くの国民の父」(アブ・ハモン)と語呂合わせをされています。当時、名前はその人のすべてを表す力を持ったものと考えられていましたから、名前が変えられるというのは、まさにその人の生活全体がまったく新しいものにされることを意味していました。つまり、アブラムはアブラハムとなることによって、まったく新しい神との関係に入れられたということです。神は一節で「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と語りかけていますが、ここで言われている「全き者」とは道徳的に完全な者という意味ではなく、神との契約関係の中で、全面的で分かたれることない献身を示すということです。神との契約の上に生活全体を置くと言うこともできるでしょう。先ほど知識だけで契約を考えると卒業信者になるということを述べましたが、神が立てられる契約は実際にはアブラムがアブラハムにならざるを得ないほどの、生活全体を巻き込んだ、きわめて具体的な出来事であることがわかります。

 その神が七節にあるように「わたしは、あなたとの間に、また続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」と語っています。アブラハムが信仰的決断として、自分に語りかけてくださった神を自分の神として決定したというのではなく、神自らが神であり続けることを約束したということです。この言葉と、新約聖書のヨハネの手紙一の四章九節以下とは確かな音色をもって響き合っています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。

新しい契約

 アブラハムが神と結んだ契約は、永遠の契約であったにもかかわらず、イスラエルの歴史の中で何度も人間の側から破棄されてきました。つまり、神の前に「全き者」として恵みの契約に生きるのではなく、神を忘れ、契約を繰り返し破る人間の赤裸々な姿が旧約聖書の中で描かれています。ある意味で旧約聖書は、神との契約の大切を教えながら、それがいかに難しいものであったかを歴史的事実をもって示していると言えます。

 わたしたちは何気なく旧約聖書と新約聖書を手に取り読みますが、そもそも旧約、新約という日本語の「約」とは、契約の「約」であることを、読む度に思い起こす必要があります。聖書には和解、約束、成就、忠実などのキーワードがありますが、それはすべて契約という言葉の網目の中で初めて正しく位置づけられるものばかりです。そして、わたしたちにとってはその契約のかなめに主イエス・キリストがいるはずです。主イエス自身が招かざる者を食事の席に招き、杯を取って「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」(一コリ一一・二五)と語りかけられるとき、わたしたちもそのイエスと生活を共にするという新しい契約の恵みの中に入れられています。神がわたしたちの神となり、苦しむ者に安らぎを与え、将来に希望を与えるという恵みは、過ぎ去ってしまう一瞬の出来事ではなく、契約という形でわたしたちの生活の中に絶えず置かれています。

 神との契約に生かされていることに気づき、その契約の中で自覚的に生きていくときに、わたしたちは以前と同じ自分であってはならないことを教えられるのではないでしょうか。そして、神の契約は一人の人の生活を形作るだけでなく、契約の内部において神の民を結集していきます。わたしたちが神の民として生きているかどうか、それは神との契約をどれだけ生活全体の中で受けとめているかにかかっているのです。

(一九九五年一一月一九日、札幌北光教会、小原克博)