主の光の中を歩もう
イザヤ書 2:1―5アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主は私たちに道を示される。
私たちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して釜とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
平和のビジョン
預言者イザヤは、終わりの日に起こる出来事をここで記しています。ただし、終わりの日という言葉が一体、何を意味しているのかは、この一連の出来事を味わってから、ようやくわかることです。しかし、まず言えることは、これらの出来事は単なる未来予言でもなければ、現実逃避のための夢想でもないということです。現実のつらさを逃れる方便としてではなく、困難な現実を切り開く力として預言者たちの言葉は受けとめられてきたからです。いずれにせよ、ここで記されている一つひとつの事柄は、非日常的な印象を与えます。例えば、二節の「国々」、三節の「多くの民」という言葉は、伝統的なイスラエルの理解によれば、神によって裁かれるべき敵対する国々であり、人々のことです。彼らが徹底して裁かれることによって、イスラエルの民は自分たちの神の偉大さを知るという表現も旧約聖書の中にはしばしば見られます。しかし、イザヤがここで語っているのは、敵対するはずの人々さえも、終わりの日には神の教えと神の言葉を聞くためにエルサレムにやってくるということです。もちろん、ここで強調されているのは、イスラエルの民の他の国々に対する優越ではなく、人間の敵対意識を越えてすべての人々を招く神の圧倒的な力です。しかも、その神のもとに集められた人々が「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と語られています。戦いのための武器を、生活のために必要な平和的な道具に作り変えるということです。そして、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(四節)という言葉は、まさしく戦争放棄の状態を語っています。
これらの預言者的ヴィジョンは、一方ですぐには実現しそうにない非日常的な側面を表しています。しかし、他方、この平和のヴィジョンは、あたかも「棚からぼたもち」のように、ただ口をあんぐりと開けて待っているべきものではなく、はっきりと現在における責任との関係で語られています。それを端的に示しているのが五節の言葉です。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。今、主の光の中を歩むことが、預言者によって示された平和のビジョンに目を開き、そのビジョンに生きることだと言うことです。この旧約聖書的な発想は、はっきりとした形で教会の中に受け継がれてきました。教会は、イエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊降臨の出来事を通じて、かつて預言者たちが語った終わりの日の出来事がごく身近に迫っていることを感じました。教会に呼び集められたのは決してユダヤ人だけではありませんでした。そこには、かつて激しく敵対していた諸国民、諸民族が呼び集められていました。だからこそ、初期の教会は自分たちが、あのイザヤの預言を現実に担っている平和の民であるという自覚に固く立っていたのでした。
平和の民であること、それが主の光の中を歩むことの証しに他なりませんでした。今すでに主の光の中に入れられていること、そしてその中を歩み続けなければならないことが、教会の中を見渡すだけで実感をもって知ることができたのでした。お互いに侮辱し合っていた間柄の者たちが共に食事をすることなど、以前なら考えられなかったことだったからです。もちろん、人間的な敵対意識、差別感情が教会の中ですっかりなくなったかと言うと、そうではありません。パウロがガラテヤの教会の中に見ていたように、律法を守るべきかどうかという問題をめぐって、ユダヤ人と異邦人の対立が、しばしば激しさを増していました。ユダヤ人たちは、異邦人も律法をしっかりと守るべきだと考えていました。律法とはヘブライ語でトーラーと言いますが、この同じトーラーという言葉が、今日の聖書の中にも出てきています。それは、三節にある「主の教え」の「教え」という言葉です。イザヤの預言では、主の教えを諸国民が慕い、そのもとに一つにされている様子が描かれています。敵対する人々に対するパウロの主張も、まさにこの預言者的ヴィジョンに基づいたものでした。主の教えは、すべての人々を平和的に一つにするものであって、選別のための基準ではないということをパウロは繰り返し語りました。だから、以前のような敵対関係から離れ、すでに主の光の中に置かれていることを思い起こしなさい、と聖書は語ります。例えば、エフェソの信徒への手紙五章八節以下では次のように語られています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるのかを吟味しなさい」。
生きた光
このように聖書は、光について多く語っています。「主の光」、「光の子」という表現だけでなく、聖書の随所に、神や信仰者を語る上で、光に関する表現が用いられています。それは非常に単純な誰にでもわかりやすい言葉であるようですが、聖書が記された時代に人々が光という言葉で思い巡ぐらした対象と、現代のわたしたちが考える光とは決して同じではないでしょう。エジソンが発熱電灯を発明し、それが夜を照らす光として用いられ始めたのは、二十世紀になってからです。それ以前の世界では、光と言えば、まずは太陽の光でしたし、暗闇を照らすのは焚き火や、ろうそくの炎のようなものしかありませんでした。しかし、たとえ小さくとも光がなければ、夜道を歩くこともできませんし、生活することもできません。それだけに、光の照らす中に身を置くというのは、当時の人々にとって切実なことであったわけです。逆に言うと、光の中を歩むということの有り難さを実感できたということになります。そのような時代に対し、わたしたちの生活はどのように変わってきたでしょうか。エジソンの発明以降、まだ百年もたたない内に人類は様々な光を作り出してきました。現代の都市は眠らない都市であると言われています。夜中であって、皓々と人工的な光が町を照らし続けています。夜中でも昼間のように活動できることは、確かに人間に大きな安心を与えたと言えるでしょう。しかし、その反面、不眠不休の現代社会は人々に大きなストレスを与えると同時に、社会にまだ残された闇の部分から目を反らさせることになりました。圧倒的な明るさの中に身を置くことによって、社会の暗闇の部分に視線を向ける感性を失いつつあると言えるでしょう。しかし、人類が作り出したのは、夜の町を照らす光だけではありません。一瞬にして何十万人もの命を奪い去ることのできる光も、人間の手の中から生み出されたものです。その兵器は、太陽に比べることのできるくらい大きな光を放ちますが、太陽のように命を育み養うのではなく、命を脅かし、命を奪い取ります。そのような光を指して、「光の中を歩もう」と声高に言うのが、現代の核抑止論者の声です。彼らは、核兵器という光の中を歩むことによって、平和がもたらされると信じています。
このように二十世紀において人類が手にしてきた様々な光のことを考えると、聖書の中にある光という言葉をただノスタルジーをもって眺めるというわけにはいきません。聖書の中で示されている光、つまり、わたしたちがその中を歩みなさいと言われている光が、人類の生み出した人工的な光の中でかき消されてしまってはならないからです。アドベントの時期、わたしたちが身に受けるべき光を思うとき、自ずとイエス・キリストの誕生のことを思い浮かべます。ヨハネによる福音書の冒頭には「初めに言があった」という有名な言葉がありますが、それに続いて一章四節以下で次のように記されています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。イエス・キリストの光は世の暗闇を一掃してしまう巨大な光としては描かれていません。むしろ、暗闇にかき消されてしまうかのような、世の中の喧噪の中に埋もれてしまうような光の姿が、マタイ福音書、ルカ福音書の誕生物語からもうかがうことができます。イルカ福音書によれば、イエスは飼い葉桶の中に寝かせられています。しかし、この光からすべてが始まっていくのです。
光の大きさが問題ではありません。大切なのは、神が与えてくださるこの光にどれだけ響き合うか、ということです。響き合うという言い方は、光に関してはおかしいかもしれませんが、いくつか例をあげてみたいと思います。
現代物理学によれば、光は粒子性と波動性をもったものとして理解されています。光だけでなく、自然界の多くのものも固有の波、リズムを持っていることがわかっています。ただし、それらはまったく機械的な繰り返しをしているのではなく、微妙に揺らいでおり、それが自然の美しさを作り出しているようです。例えば、海の波は一回一回、決して同じ形をしていませんし、また、さざ波の音は同じ音の反復ではありません。そのような揺らぎのあるリズムを見たり、聞いたりすることによって、わたしたちは自分の中にある生命のリズムを逆に感じとり、また、その本来のリズムを回復したりすることができます。心が傷ついて、感傷的になりがちなとき、何時間も海を眺めるというのは無意味なことではなく、人間の生命力の回復に多いに関係があります。わたしたちが、パチンコ屋のネオンのような規則的な光の点滅よりも、暗やみの中で揺らいでいる、ろうそくの炎に心を引きつけられるのも同じような理由によるのです。
わたしは以前、真っ暗な森の中で、自分の姿が周囲の暗やみの中に溶け込んでいくのを感じたことがあります。しかし、突如として雲の間から現れた月の薄明かりによって自分の影が映し出されたとき、自分の存在感を衝撃的に実感させられたことがあります。月の光はきわめて弱いものです。しかし、その光に照らされて、その光にあたかも響きあうように自分の存在感が引き立てられたのです。
「主の光の中を歩もう」という言葉において、わたしたちは自分自身の生命的リズムを回復し、実感させてくれる生きた光を知るべきではないのでしょうか。その光は、私たち自身の命のあり方に目を向けさせるだけでなく、最終的に、その命の源である創造者なる神へと目を向けさせることになるのです。わたしたちは一週間や一年という繰り返しを暦に従って生きるだけでなく、その繰り返しの中で主の光の救済史的リズムに呼応していく必要があります。ユルゲン・モルトマンというドイツの神学者は、このリズムのことを「メシア的リズム」と呼んでいます。主の光の中を歩むとは、メシア的リズムに従って生きることだと言うこともできるでしょう。クリスマスの時も、わたしたちにとっては単に年間行事の一環ではなく、繰り返す度にそこに引き込まれて、メシア的リズムに呼応し、それに生かされている自分を確認する時に他なりません。
終わりの日に
このように「主の光」の持つ意味の広がりを知った上で、イザヤの言う「終わりの日に」という言葉に帰っていくことができます。それは原文に忠実に訳せば、「日々の背後に」「日々の裏側で」という意味を持っています。それは次のような二重の意味に解釈されるでしょう。一つは、ヘブライ人的な時間理解に従って、それを目の前にある過ぎ去った日々の反対側に待ちかまえている将来の時という理解です。この理解に終末論的な視点を加えれば、「終わりの日に」と訳すことも可能です。もう一つの解釈は、まさにわたしたちが今経験している日常的な日々の隠された次元において、ということです。時間的な将来のことだけでなく、わたしたちが主の光に照らされていなければ見ることのできない隠された神の真実に目を向けることがここで促されています。その隠された神の真実の躍動に響きあっていくことが、主の光の中を歩むという呼びかけの声となっていくのです。この世の暗やみは主の光を理解しませんでした(ヨハ一・五)。しかし、わたしたちは、暗やみの中でまたたくこの光を理解し、この光と響き合う存在として、主の光の中を歩みたいと思うのです。
(一九九五年一二月一〇日、札幌北光教会、小原克博)