善き力に守られて
ルカによる福音書 2:1―7そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ボンヘッファーの詩
ディートリッヒ・ボンヘッファーが一九四四年のクリスマスに際して、家族と彼の婚約者にあてて書いた詩があります。わたしたちは、この詩を通じて、一人の信仰者がクリスマスの時をどのように受け止めたかを見ていきたいと思います。世間でもクリスマスが盛大に祝われています。しかし、わたしたちは一般大衆としてクリスマス・ムードの中に身を浸し、それに酔いしれてしまうのではなく、まず、一人ひとりの信仰者としてクリスマスの時にあらためて向き合っていく必要があるのではないでしょうか。そうすることによって初めて、クリスマスの意義を共に味わうことができると思います。この詩を書いたとき、ルター派の神学者ボンヘッファーはヒトラー暗殺計画のかどで強制収容所に入れられていました。そして、翌年一九四五年の四月九日に絞首刑に処され、三九年の生涯を閉じています。伝道者パウロがやはり獄中から、フィリピにある教会の信徒たちに希望に満ちた書き送ったように、ボンヘッファーは暗い時代の中で、また自分自身の死の危険を身近に感じながらも、自分が「善き力あるもの」に守られていることの確信を言い表しています。
@善き力あるものに、つねに静かに取り囲まれ、
不思議に守られ、慰められて、
わたしは、この日々を、あなたがたと共に生き、
あなたがたと共に、新しい年へ入っていきます。A今なお、古い年は、わたしたちの心を苦しめ、
今なお、厭わしい日々は、わたしたちに重荷を負わせています。
ああ、主よ、脅しの下に立たされたわたしたちの魂に、
救いを与えてください。
その救いのために、あなたは、わたしたちをお造りになったのです。Bそして、あなたがわたしたちに、苦い杯を、
溢れるばかりに満たされた苦難の杯を、与えられるのなら、
わたしたちは、それを感謝して、おののくことなく、
あなたのいつくしみ深い愛の御手から受け取ります。Cしかし、今一度、あなたが、わたしたちに喜びを、
この世に対する、またその太陽の輝きに対する喜びを、
贈ってくださるのなら、
わたしたちは、過ぎ去ったことを思い起こします。
その時、私たちの生は、ことごとく、あなたのものとなるのです。Dあなたが暗黒の中にもたらしてくださった
ろうそくの火を、今日、暖かく明るく灯してください。
もしできることなら、わたしたちを、もう一度共におらせてください。
わたしたちは知っています。あなたの光が夜、輝くということを。E深い静けさがわたしたちの周りに広がるとき、
目には見えなくとも、わたしたちの周りを包む世界に満ちる
あの澄んだ響きを、わたしたちに聞かせてください。
あなたの子らすべての、気高い讃美の歌を聞かせてください。F善き力あるものに、不思議に守られて、
何が来ようとも、わたしたちは心静かにそれを待ちます。
朝に夕に、そして来る日ごとに、
神は、確実に、わたしたちの傍らにおられるのです。一節にある「あなたがた」とはボンヘッファー家の人々を指しています。家族と共に新しい年を迎えようとするボンヘッファーの前向きな姿勢が感じられます。それに対し、二節にある「古い年」はただ単に過ぎ去ろうとしている一年の年月のことではなく、ボンヘッファーの生きた重苦しい時代を象徴的に表しています。それは三節でさらに「苦い杯」「苦難の杯」という表現を得ています。そのような現実の中でボンヘッファーは神の救いを求めます。二節にあるように、神の救いにあずかるためにわたしたちが造られたと言うまでに、神の救いにつらなることが彼にとって存在のすべてを支えていたのでした。神の救いに触れ、それを味わうことこそが、今生きて存在していることに根本的な意味を与えるということです。
しかし、ボンヘッファーにとって神の救いとは単純に彼岸的なもの、この世を越えたものではありませでした。それは四節にあるように「この世に対する喜び」と関係があります。たとえ、この世が暗黒のようであったとしても、神の救いは「ろうそくの火」のように暗闇を照らしてくださるということが五節でうたわれています。また、六節では、神の救いは深い静けさを満たす「澄んだ響き」として理解されています。これらはすべてクリスマスの情景を思い浮かべさせます。そして、最後の七節でそれらをひとまとめにするような形で「善き力あるもの」という表現が再び登場します。それは神のことであるとも言えるでしょう。しかし、ここで「善き力あるもの」は複数形で表現されています。ボンヘッファーは、もろもろの「善き力あるもの」に守られているというのです。具体的に言えば、それは彼の父と母であり、兄弟姉妹であり、婚約者であり、友人たちであり、彼が教えた学生たちであり、つまり、わたしたちの地上の生活を取り囲んでいる、神の恵みの賜物のすべてがそれに含まれています。
わたしたちは自分自身を守るべき力を考えるとき、しばしば力あるものを考えます。例えば、経済的な力や、社会的地位・権力に由来する力は、この世において絶大な効果を発するので、人はその力を求め、その力に寄りすがろうとします。しかし、ボンヘッファーが考えている、もろもろの「善き力あるもの」は、この世にあって、ごく小さな、はかない力です。ところが、それらが神の恵みの一つひとつを形作っていることに気づくときに、それらは「善き力」として働き、わたしたちを守ります。そして、「朝に夕に、そして来る日ごとに、神は、確実にわたしたちの傍らにおられる」という確信が希望となってあふれてくることを、ボンヘッファーのクリスマスの詩はみごとに表現しています。小さな力が神にあって「善き力」とされ、守る力となるというのです。
イエス・キリストの誕生
このことを聖書はどのように表現しているでしょうか。ルカによる福音書は、イエス・キリストの誕生をまず当時の歴史的出来事から書き始めます。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(一節)。アウグストゥスは初代のローマ皇帝であり、彼のもとにローマ帝国は繁栄を極めていました。ローマ帝国の繁栄の基礎には、緻密な領土管理があったと考えられています。「すべての道はローマに通ず」と言われるほど、あちらこちらで交通網を整備しました。そして、聖書に記されているように、住民に登録させることによって、領土の実体を把握しようとしたのでした。ここで言われている登録とは二節にあるように住民登録のことですが、ただ住民台帳のようなものをつくるのが目的ではありません。この登録をもとにして、しっかりと税金を徴収することに最終的な目的があったと言えるでしょう。いずれにしても、ローマ皇帝の一声で、人々は自分の生まれ故郷に帰って登録しなければならなかったのです。ローマ皇帝の持つ力の絶大さをうかがうことができます。しかし、登録する方にしてみれば、何の得にもならない、むしろ、様々な苦労を余儀なくされる出来事であったに違いありません。ヨセフとマリアたちも、まさにローマ皇帝の力に翻弄される弱い存在に過ぎませんでした。ヨセフとマリアは、ガリラヤのナザレからヨセフの生まれ故郷のベツレヘムに行かなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムはおよそ一一二キロの距離があります。その距離を、すでに身重になったマリアを連れてヨセフは旅していかなければなりませんでした。この旅に必要な経費を若い夫婦が負担することも用意ではなかったでしょうし、何よりも、いつ子どもが生まれるかわからないマリアを連れての旅路は決して快適なものではなかったはずです。それどころか、きわめて不安と苦痛に満たされた旅路であったことが予想されます。しかし、ルカによる福音書は、そういった二人の苦労については特に記すことなく、ただ二人が旅立たねばならず、そしてベツレヘムでイエスが誕生したことを実に淡々と描いています。それだけに、イエスの誕生が、歴史の荒波の中で翻弄される、いかに小さな出来事であったかが印象づけられます。その小ささは、生まれたばかりのイエスが飼い葉桶に寝かされたという点においても強調されています。宿屋にはマリアとヨセフの泊まる場所はなく、イエスは家畜の糞尿の臭いが漂う家畜小屋で生まれざるを得なかったというように、イエスの誕生がその時代の力の中心から遠く隔たったところで起こったことが記されています。
「善き力あるもの」の源
では、なぜ、そのような小さな出来事を聖書はあえて書き記す必要があったのでしょうか。それは、ルカが意図的にローマ皇帝による命令を物語の冒頭に置いていることと関係があります。イエス誕生の時、イエスの力とローマ皇帝の力とは比べる術もないほどに大きな隔たりをもったものとしてルカは強調しています。しかし、その小さな力が、ルカが生きていた時代、つまり教会が成立して間もない時代において、ローマ皇帝か、イエス・キリストかという選択の中で選び取られるべき存在となっていました。もちろん、イエス・キリストを信じる信徒の一人ひとりの存在は、ローマ皇帝の前でなお非力で小さなものに過ぎません。それゆえ、ローマ帝国の迫害によって、その小さな命が奪い取られていったことも少なくありませんでした。しかし、多くの信仰者は、信仰を保つことがもっとも困難な状況にあっても、なお自分たちを守っている「善き力」があることを確信していました。この「善き力」は信仰者たちの小ささや弱さを顧みられない力ではありませんでした。神の御子が地上に命を受けることは、この世の命としての小ささやはかなさを自ら背負いながら、この世の命に連なっていくことでもあります。もし、わたしたちが「善き力」に守られておらず、信仰も持たずに、ただイエスが生まれた家畜小屋の中をのぞき込むなら、暗闇の圧倒的な深さの前に、わたしたちの視線はむなしく沈み込むだけでしょう。しかし、わたしたちは今、暗闇の中でまたたくイエス・キリストの命の輝きに目を向けます。そうすれば、たとえそれがこの世が理解しようとしない輝きであったとしても、この命こそが、わたしたちの生活を取り巻く、もろもろの「善き力あるもの」の源であることに気づかされます。また、イエス・キリストの命の輝きによって「善き力あるもの」たちが呼び覚まされ、善き働きのために集められるのです。クリスマスは、自分のまわりにどれほど「善き力あるもの」たちを神から与えられているかを、あらためて教えられる時でもあります。ボンヘッファー同様、父母のこと、兄弟のこと、友人のことなどを思い起こしてもよいでしょう。しかし、ここに集められたもの同士がすでに神の家族であることを感謝しながら、それを可能にし、それを教えてくれたクリスマスの驚きを心静かに受けとめたいと思います。
善き力あるものに、不思議に守られて、
何が来ようとも、わたしたちは心静かにそれを待ちます。
朝に夕に、そして来る日ごとに、
神は、確実に、わたしたちの傍らにおられるのです。(一九九五年一二月二四日、札幌北光教会)