ローマ人への手紙1章16ー17節

「福音を恥とせず」



 今日のテキストは、たった2節ですが、これはローマ人への手紙の中心部分と
言っていいと思います。
また、キリスト教信仰の中心と言うことが出来ます。
そして、ひとつ一つの言葉に、非常な重みがあります。
ここでパウロはまず、「福音を恥としない」と言っています。
ということは、福音が恥だ、という思いもあった、ということでしょう。
その次の所に「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」とあります。
パウロは、ユダヤ人にもギリシア人にも福音を伝えました。
しかしそれが常に受け入れられたとは限りませんでした。
否、それどころか、多くの場合は、受け入れられなかったのです。
そのユダヤ人とギリシア人の代表的な反応がコリント人への第一の手紙1章22
ー23節に記されています。(P.257)
  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める。しかしわたしたちは
  、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人に
  はつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである。
これはパウロが、コリント伝道した時の経験からの言葉ですが、彼はまだ行った
ことのないローマについても、同じようなイメージをもっていた、と思います。
というのは、ローマも当時の状況からすると、同じギリシア・ローマの文化圏で
あったからです。
それゆえ、聖書の世界から言うと、異邦人の世界です。
ここで、福音は異邦人にとっては、「愚かなものである」と言われています。
これは、パウロが伝道している時に、実際に何度も経験したことだと思います。
例えば、使徒行伝17章にはアテネ伝道をした記事がありますが、そこでパウロ
がキリストの復活のことを伝えた所アテネの市民はあざ笑った、と言われていま
す。
そして、このようなことは、パウロが伝道したギリシア・ローマの世界でしばし
ば経験したことと思われます。
そして今から行こうとしているローマは、やはり異邦人の最も代表的な町です。
そのようなことが十分予想されます。
聖書のみ言葉を伝えても「愚かだ」と受け取られる、ということは十分予想され
ました。
しかし、パウロはこのローマ人への手紙の最初で、「福音を恥とせず」と、言っ
て、そのような事態にたじろがない、という決意をここで言い表しているので
す。
 異邦人にとって福音は愚かだ、というのですが、私達日本人も異邦人の仲間で
あると思います。
日本においても、聖書のみ言葉は中々受け入れられないのではないでしょうか。
特に、科学の発達した現代において、聖書は非科学的で前時代的なものだ、と思
われていないでしょうか。
あるいは、日本の多神教的な風土において、唯一の神に対する信仰は異質だと思
われがちだと思います。
そういうことで、聖書を堂々と語れない、ということはないでしょうか。
しかし私達は、聖書のみ言葉を恥じる、ということはしたくないと思います。
マルコによる福音書8章38節で主イエスは次のように言っています。
(P.65)
  邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対し
  ては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、
  その者を恥じるであろう」。
もし私達が聖書のみ言葉を恥じるならば、キリストも私達を恥じる、というので
す。
私達は、キリストによって恥じられないようにしたいと思います。
 さて、福音を恥じるという場合、それはこの世的な尺度から思う時です。
この世的な考えからすると、福音は何ら重要な意味をもたないのです。
福音を信じたからと言って、この世的に成功する訳でもないし、出世が出来る訳
でもないし、お金儲けが出来る訳でもないし、病気が治る訳でもありません。
ですから、この世的に見るならば、福音は何等力にならない、と思われるので
す。
むしろ、弱いものであり、また無力としか思えないのです。
それゆえ、愚かとさえ思えるのです。
大体十字架なんて、何の力もないと思われるでしょう。
しかし、パウロは、先程のコリント人への第一の手紙1章のところで、「神の愚
かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と言っています。
また、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたち
には、神の力である」と言っています。
また、今日のテキストにおいては、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人に
も、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」と言っています。
この世的に、あるいは人間的な尺度からは、愚かであり、無力に見えても、これ
こそが神の力である、というのです。
これこそが、救いを得させる本当の力なのです。
ですから、パウロは、これを恥じとはしないのです。
新共同訳聖書の前に出た共同訳聖書では、「恥としない」というのを、より積極
的に「誇りに思っています」と訳しています。
原文からすると少し訳し過ぎかも知れませんが、むしろパウロの気持ちをよく表
しています。
 さて、ここでパウロは、福音は恥ではなく、「神の力だ」と言っています。
力といってもどういう力でしょうか。
先程言ったように、福音を信じたからといって、この世的な力を得るということ
はないでしょう。
福音を信じたからと言って、出世が出来る訳ではないし、勉強が出来る訳でもな
いし、お金儲けが出来るとか、病気が治るとか、そういった力はないでしょ
う。
そしてそういう力がないと、世間では余り歓迎されません。
今流行りの新興宗教、というよりは新々宗教は、大体このような現世利益と結び
ついています。
多くの人が入っていると言われていますが、これらは結局は、人間の欲と結び付
いています。
しかし、そういうものは一時的で、やがては滅びるものです。
聖書でも「草は枯れ花は萎む」と言われています。
ここで、「神の力」と言われているのは、そういう一時的に私達の欲を満足させ
てくれるようなものではありません。
そうではなく、もっと根本的な力を私達人間に与え給うものです。
ここでパウロは、「救を得させる神の力」と言っています。
そうです。
この神の力は、私達に救いを得させるものなのです。
「救いを得させる」というのは、聖書全体のテーマと言っていいでしょう。
聖書における神の目的は、私達人間を救うということにあります。
旧約聖書において、神ヤハウェは、まずイスラエルを救う神として自ら啓示され
ました。
すなわち、イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神はモーセを遣わし
て、彼らを奴隷の状態から救い出したのです。
これがイスラエルの民の原体験なのです。
そして、神はシナイ山でイスラエルに十戒を授けますが、そこで次のような自己
紹介をしています。
出エジプト記20章2節。
  わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導
  き出した者である。
即ち旧約聖書の神は、イスラエルを救う神である、ということです。
そしてその救い出すというのは、イスラエルの民だけではありません。
パウロがここで、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者に」と
言っています。
「ユダヤ人をはじめ」と言っているのは、旧約聖書においては、神は専らイスラ
エルの民に働きかけたからです。
しかし、神が視野においたのは、決してイスラエルの民だけではありません。
アブラハムの祝福の所では、「地のすべてのやからを祝福する」と言っていま
す。
 それでは一体何からの救いでしょうか。
それは、滅びからの救いです。
人間は、神によって創造されましたが、神のみ旨に逆らったために、罪に定めら
れました。
そのことによって、人間は死に定められたのです。
そしてこの死は、いかなる人間もどうすることも出来ません。
これを聖書では、エデンの園の素朴な物語りとして言い表されています。
そしてその罪は、人間の力では解決することが出来ません。
神の力は、この人間の力ではどうすることも出来ないことを解決するのです。
そのために神が自らみ子イエス・キリストをこの世に送り、キリストは神のみ旨に従
順に従って十字架の死を遂げられたのです。
そして、このことによって、死すべき存在である私達に救いが齎されたのです。
それは死すべき存在からの救いです。
キリストは、復活されましたが、その復活はご自分だけのものではなく、それと
同じ永遠の生命に私達も与ることが許されるのです。
それが、ここで「救いを得させる」と言われているものです。
そしてこれが神の力、と言っていいでしょう。
 17節。
  神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これ
  は、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
義というのは、聖書における重要な概念です。
「正しい」という意味ですが、神と人間との関係が正しい、ということです。
神は、人間に対して常に正しくあるお方です。
ところが人間は、神に対して正しいかというと、必ずしもそうではありません。
否、神に逆らったのです。
先程のエデンの園の物語りには、人間が神との関係を損なってしまったことが記
されています。
そこで、人間と神との正しい関係が破られてしまった訳です。
そして、この破られた関係は、人間の側からはもう回復することが出来ないので
す。
しかし、神の側からその破られた関係を回復しようとされたのです。
これが、「神の義」ということです。
この神の義は、福音の中に、すなわちキリストにおいて表されたのです。
そこで、本来人間の力ではどうすることも出来なかった、すなわち死の滅びへと
定められていた私達が、福音を信じることによって、神との破られた関係を回復
することが許されたのです。
これを神学用語では、信仰義認と言っています。
そして、このローマ人への手紙の中心主題は、この信仰義認ということです。
ここで、括弧に入れられている「信仰による義人は生きる」とあるのは、旧約聖
書のハバクク書2章4節からの引用です。
パウロは、このみ言葉を好み、ガラテヤ人への手紙でも引用しています。
私達は、福音を恥とせず、これを信じることによって、真の救いへと入れられた
いと思います。

(1991年6月16日)