ローマ人への手紙1章18ー25節
「人類の罪」
パウロは、前の17節の所で、キリスト教信仰の最も中心的なことを述べまし た。 そこで彼は「神の義が福音の中に(キリストにおいてと言ってもいいが)啓示さ れた」と言いました。 「神の義の啓示」ということであります。 今日の所は、それとは対照的な「神の怒りの啓示」ということです。 18節。 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不 義とに対して、天から啓示される。 まず「啓示」ということですが、これは、一般の宗教的用語としても使われてい ます。 そこでは、「神または超越的存在が、人間一般には知ることを許されていないそ の秘密を、みずから明かすことを言い、特にご自身の本質を示すこと」を言いま す。 その意味で、キリスト教は、啓示宗教と言われています。 聖書の信仰においては、神を知ることは、人間のいっさいの経験や認識を越える 出来事であって、ひとえに神ご自身の自己啓示によるからです。 神は、旧約の歴史においても数々の啓示をされましたが、その究極的なものは、 イエス・キリストにおける啓示です。 先程の17節の「福音の中に」というのは、キリストにおける啓示を意味してい ます。 すなわち、キリスト教においては、神の側から啓示されない限り、神の本質、ま た人間の本質、罪、救い、また世界のことなどは分からないのです。 人間の知恵によって、神の本質を捉ることが出来る、とするのが自然神学といい ます。 そして20節の記事は、その神学神学を言っているのではないか、という意見も あります。 これをめぐって、ドイツのE・ブルンナーとK・バルトが大論争をしたという有 名な事件があります。 ここでパウロが言っているのは、自然神学ではなく、創造のみ業から認められる 神の見えない性質に関する知識は、人間に与えられているけれども、人間はこれ を拒絶し、その知識を失ってしまったということです。 さて、ここでパウロは、「神の怒りが天から啓示される」と言っています。 私達は、キリスト教は愛の宗教だと理解していますし、愛とか救いということは 受け入れ易いと思います。 しかし、神の怒りなどというと、少し理解しにくいのではないかと思います。 尤も、旧約聖書には、特に預言者において、神の怒りということがしばしば言わ れています。 このようなことのために旧約聖書がとっつきにくい、と思っている人もいるので はないかと思います。 先週の夕の礼拝では、創世記19章で、ソドムの町が余りにも邪悪なので、神の 怒りに触れ、天から硫黄が下されて滅ぼされた、ということを学びました。 同じように、ノアの洪水では、ノアの家族以外の全人類が滅ぼされた、とありま す。 また、イスラエルの預言者たちは、イスラエルの人々が神に背いた生き方をして いることに警告して、やがて神の怒りに触れて滅ぼされる、ということを預言し ました。 そして、この預言は、アッシリアやバビロニアによって、イスラエルが滅ぼされ たことで、成就したと受け止められてきました。 旧約聖書においては、むしろ神の怒りということがクローズアップされているよ うにも思われます。 18節の所では、神の怒りは、「人間の不信心と不義」とに対して現される、と ありました。 十戒においては、「あなたは私のほかに何者をも神としてはならない」とありま す。 しかし、イスラエルの民は、しばしば聖書の神以外の神(いわゆる偶像)を拝ん できました。 預言者たちが、最もはげしく人々を攻撃したのは、この不信仰に対して、この偶 像礼拝に対してでした。 人間は、神によって創造された者である、というのが聖書の人間理解です。 しかし、人間は、この創造者の意志に従って歩まずに、自分の欲に従って歩んだ のです。 そしてそういう時に自分の欲を満たすものとして偶像を作り出したのです。 この偶像は、人間の自己中心の在り方を示すものなのです。 ここに人間の根本的な罪があります。 神は正しいお方である故に、人間の罪を見過ごしにはされないのです。 そして私達は、誰一人、罪のない人はありません。 従って、私達は皆、神の怒りの下にある、と言えるのです。 キリストの十字架は、神の全人類に対する深い愛を象徴すると同時に、神の激し い怒りの象徴でもあります。 神のみ心に背いて来た人間の有り方が「不義」です。 そして神はその不義に対して激しい怒りを覚えられるのです。 しかしその怒りを、本来私達が受けるべき怒りを、私達に代わって、キリストが 一身に受けられたのが、十字架の出来事なのです。 あの十字架は、神の怒りが最も鮮明に表された出来事なのです。 何の罪も犯していないキリストが、何も十字架にかかることはなかったのではな い、かと思うかも知れません。 しかし、神の怒りということから、十字架は避けることの出来なかったことなの です。 パウロは、このローマ人への手紙において、福音とは何か、ということを述べ ているのです。 しかし、その福音は、神の怒りが分からなければ、本当の意味では分からないの です。 21節。 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、か えってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。 人間は、本来神に感謝すべく造られたのです。 それは、人間は、神によって最も大切な被造物として造られたからです。 しかしながら、人間は、自分を創造した創造者を神としてあがめず、その思いは 空しくなった、というのです。 これは偶像礼拝を指しています。 そうではなくて人間は、神を崇め、神に感謝する存在として造られたのです。 感謝が大切だ、ということは多くの人の認める所でしょう。 何もキリスト教の信仰を持たない人も、感謝することを大切なこととしている人 も多くあります。 しかし一方では、感謝の出来ない現実があります。 私達に突然襲う災難などはそうでしょう。 私達の回りの状況を見ますと、感謝できない状況も多くあると思います。 しかし、その時々の状況によって、感謝したり、感謝しなかったり、というのは 本当ではないでしょう。 なぜなら、神は私達の根本的な所で、私達を支えて下さっているからです。 例えば、創造の記事で、人間は神の形に創造された、とあります。 私達の存在そのものが、どんな人であっても、神の形として光栄ある姿に造られ たことを思うなら、たとえどんな境遇に置かれようとも、感謝があると思いま す。 あのヨブ記の主人公であるヨブは、一瞬の内にすべての財産を失い、子供達も失 い、また自分は、苦しい皮膚病に悩まされた時、「主が与え、主が取られたの だ。主のみ名はほむべきかな。」と言って、主を崇めました。 また、イスラエルの民は、自分達の先祖がエジプトでの奴隷から救い出された事 件を思い起こして感謝をささげていました。 これは、直接自分達が救われたのでなくても、遠い過去に示された神の恵みにみ 業は、現在の自分達に対する恵みのみ業だと解釈し、神に感謝したのです。 これは、イスラエルの民にとっては、根本的な出来事であり、たとえ今の自分達 の状況がどうであれ、感謝すべきことでした。 また、私達にとっては、主イエスの十字架と復活は、根本的な事柄です。 この事実の前に立つ時、私達がたとえいかなる状況にあったとしても、感謝する ことが出来るでしょう。 パウロの手紙には、「感謝する」という言葉が沢山出ます。 そしてそれは必ずしも喜ばしい状況の時だけでなく、獄に捕らえられている時とか、 あるいは持病に悩まされている時などでも感謝しているのです。 それは、パウロはいかなる状況にあっても、常にキリストの十字架の贖いの恵み の大きさを思うことが出来、また復活による希望の大きさを思うことが出来たか らでしょう。 さてここで、パウロは、「神を神としてあがめず、感謝もせず」と言っていま すが、神を神として認めない所から、感謝の出来ない現実が現れます。 そして、そこから罪の現実が繰り広げられるのです。 パウロは、「感謝もせず」ということから続いて、罪の現実について述べます。 24ー27節では、当時のローマの世界で行われていた性的な不道徳のことが記 されています。 24節には、「汚すままに任せられた」とあります。 罪の状況に放置する、というのが、人間の罪に対する神の罰だ、とパウロは捉え ているのです。 同じことが、28節にも言われています。 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正し からぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。 そして、29ー31節には、実にいろいろな悪が数え上げられています。 すなわち、ねたみ、殺意、争い、詐欺、悪念、ざん言する者、そしる者、神を憎 む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者 、無知、不誠実、無情、無慈悲な者、といった具合に、実に様々な罪があるもの だと思わしめられます。 そして、このような罪の現実は、人間が神を神として認めない所から来るのだ、 と言っているのです。 私達も、このような罪の全部ではないとしても、いくつかは犯しているのではな いかと思います。 そして、こういう罪の現実に対して、神の怒りが啓示されている、というので す。 従って、私達も、神の怒りの下にある、と言うことが出来る訳です。 しかし、パウロの強調点は、「神の怒りの啓示」にあるのではなく、「神の義 の啓示」にあります。 このような救い難い人間を救うために、主イエスはこの世に来られ、そして私達 の罪を贖うために十字架にかかられたのです。 そして、これが「神の義の啓示」であり、福音であります。 そして、パウロは、むしろこの福音を私達に伝えているのです。 私達は、私達の罪のために、私達自身が神の怒りの下にあることを覚えると共に 、この私達の罪のために十字架にかかって下さったキリストの福音を心から信じ る者でありたいと思います。 (1991年7月7日)