ローマ人への手紙2章1ー11節

「永遠の命か滅びか」



 ローマ人への手紙1章では、人間の罪の問題が論じられていました。
特に、異邦人が神を認めないがゆえにいろいろな罪を犯している、という現実を
指摘していました。
そして、神の怒りのもとに、その罪の状態に放置されている、ということが言わ
れていました。
それでは、異邦人でないユダヤ人はどうなのか、というのが、この2章の問題で
す。
 1節。
  だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あな
  たは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあな
  たも、同じことを行っているからである。
ここで、パウロは、ユダヤ人に対して、「人をさばく者よ」と言っています。
当時のユダヤ人を特徴づけるものが、人をさばくということであったのです。
特に当時律法学者やパリサイ人など、律法を重んじる人にその傾向が強くありま
した。
かれらは律法を非常に重要視しました。
それは正しいのですが、その根本的な精神を忘れて、ただ形式的に守っていたの
です。
そしてそれに合わない人を裁いていたのです。
イエスさまも、当時の律法学者やパリサイ人によって裁かれて、十字架にかけら
れたのでした。
それは、イエスが律法を軽視したからだ、と言うのです。
その代表的なのは、イエスが安息日に病人を癒した、ということです。
ユダヤ教の律法では、安息日は非常に大切であって、その日には、何の業をもし
てはいけないことになっていたのでした。
それは十戒の第4戒に記されています。
しかしイエスの時代には、旧約聖書における十戒の規定を遥かに越えていろいろ
な規定が付け加えられて、実に複雑なものになっていました。
しかしイエスは、その日に、病人を癒したのです。
これに対してパリサイ人たちは痛烈にイエスを非難しました。
イエスは決して律法を軽視したのではなく、その律法の根本精神を行おうとした
のでした。
すなわち、律法の根本精神とは、神を愛するということと隣人を愛する、という
ことです。
そして、この二つは別々の事柄ではないのです。
当時のパリサイ人たちにとっては、安息日に何もしないことはすなわち神を愛す
ることである、と形式的に捉えていたのでした。
そのためには、人の人権を無視しようが、おかまいなしだったのです。
しかしイエスにとっては、たとえ安息日であっても、一人の苦しんでいる人を助
けることは隣人を愛することであり、またこれはひいては神を愛することだった
のです。
 パウロも、伝道旅行の時、しばしばユダヤ人たちに裁きを受け、ある時は牢に
捕らえられ、またある時は殺されそうにもなりました。
では、当時のユダヤ人たちは、なぜ裁いたのでしょうか。
それは、自分たちは完全である、自分たちは間違っていない、と思っていたから
です。
ユダヤ人だけでなく、自分が完全だ、自分は正しい、と思っている人は、往々に
して他人を裁く傾向にあります。
しかし、人間というのは、50歩100歩であって、完全な人間などいないので
す。
裁いている人と裁かれている人は、たいした差はないのです。
イエスは、山上の説教において、次のように言っています。
マタイによる福音書7章1ー5節。(P.9)
  人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさ
  ばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与
  えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある
  梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、
  あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自
  分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになっ
  て、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
パウロもローマ人への手紙12章19節において、「自分で復讐しないで、むし
ろ、神の怒りに任せなさい」と言っています。
根本的には、人間には裁く資格などないのです。
このことを問題にしているのが、トルストイの復活です。
人間の誤った裁きによって、いかに一人の人間が間違った道に落ちて行くか、と
いうことが問題にされています。
先日、サルマン・ルシュディ氏の『悪魔の詩』を日本語に訳した筑波大学の五十
嵐一助教授が何者かによって殺害されたというショッキングな事件が起こりまし
た。
この本は、イスラム教を侮辱しているというので、亡くなったイランのホメイニ
が「死刑宣告」をした、ということです。
こういう裁きは果たして正しいでしょうか。
ここにも人間の自己絶対化が見られます。
すなわち、自分の考えに従わない者は、裁くというのです。
一人の人を死においやる権利も、人間にある、というのです。
しかし聖書の教えは、そうではありません。
人をさばくな、と言います。
たとえ、相手が間違っていると思っても、その裁きは神に委ねよ、と言います。
 あらゆる争いごとは、自分は正しいという思いから起こります。
自己絶対化と自己絶対化がぶつかり、戦争になります。
先日の湾岸戦争もそうでした。
アメリカは自分の方が正しいと主張し、イラクもまた正義は自分の方にある、と
主張し、お互い裁き合ったのでした。
そのために多くの人が犠牲になり、多くの施設が破壊され、また環境が著しく悪
化しました。
しかし、正義は、アメリカにあるのでもイラクにあるのでもありません。
正義は、神にあるのです。
人間に求められるのは、自己を絶対化するのでなく、その正義の神の前に自らを
へりくだるということです。
 4節。
  それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛
  と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
ここでパウロは、「神の慈愛が悔い改めに導く」と言っています。
もし、私達が、神の愛を受けているのであれば、自己絶対化によって人々を裁く
のではなく、悔い改めに導かれる、というのです。
ところが当時の律法主義的なユダヤ人たちは、律法のゆえに自分は正しいと自負
していたので、中々悔い改めの心はもたなかったのです。
 5節。
  あなたのかたくなな、悔い改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさ
  ばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身につんでいるのであ
  る。
ここでは、「かたくな」ということが言われている。
旧約聖書においてもイスラエルの民はしばしば「かたくなな民」と言われてい
ます。
これは、神のいましめに素直に従わない不信仰な態度です。
例えば、イスラエルの民はモーセに導かれて荒野を旅しますが、その途中で、神
の導きということを忘れ、いろいろな場面に遭遇して、不平不満を述べ、つぶや
きました。
また、預言者たちは、神から託された言葉を民に語りますが、しばしば民のかた
くなさのゆえに、その言葉が聞かれませんでした。
聞かれないだけでなく、その言葉を語る預言者が迫害されることもよくありまし
た。
「神の怒りを自分の身に積んでいる」というのは、そのようにかたくなであり続
けたイスラエルの民の歴史を言っています。
 6節。
  神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
これはパウロのいわゆる信仰義認とは矛盾するようにも思われるかも知れませ
ん。
3章の28節の所ではパウロは、「人が義とされるのは、律法の行いによるの
ではなく、信仰によるのである」と言っています。
しかし、その少し前の今の箇所では、「神はそのわざに従って報いる」とありま
す。
一見すると互いに矛盾しているようにも思われます。
しかし、パウロの信仰義認は、信仰か行いかといった二者択一というものではあ
りません。
そうではなく、私達人間の存在は、神の慈愛のもとにある、ということです。
これは、それを心から信じるということでもありますし、またその慈愛に応えて
具体的なわざをなすということでもあります。
決して信仰があれば行いはどうでもいい、というのではありません。
当時の教会においても、パウロの信仰義認を誤って解釈して、信仰があれば行い
はどうでもいいのだ、と理解して、非常に怠惰な生活をしていた人がいた、とい
うことです。
しかし、パウロは何もそのようなことを言ったのではありません。
そのような誤った理解に対して、ヤコブの手紙が書かれた、と言われています。
ヤコブの手紙2章14ー17節に次のようにあります。(P.362)
  わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行
  いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
  ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あ
  なたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きな
  さい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとし
  たら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、そ
  れだけでは死んだものである。
本当に信仰があるならば、それなりの行いが伴う、というのです。
しかしこれは、ユダヤ教の律法主義とは違います。
ユダヤ教の場合は、律法を行うことによって、救われる、というのです。
ここではそうではなく、善行を積むことによって、救われるというのではなく、
まず神の憐れみによって、私達は神の救いに入れられているのです。
そして、まずその神の恵みを信じることが重要です。
そこには自分の罪を認めて悔い改めるということが含まれるでしょう。
そしてその次に、その神の恵みに応えて、それぞれにふさわしい行いへとつなが
るのです。
この順序が大切なのです。
 7ー8節。
  すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものと
  を求める人に、永遠の命が与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従
  わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
ここで2種類の人が言われています。
すなわち、「栄光とほまれと朽ちぬものとを求める人」と「真理に従わないで不
義に従う人」です。
そして、前者は、神の憐れみと恵みを素直に信じ、それに応えようとする人で
す。
そして、後者は、神を信じないで、自分の欲に従って生きている人です。
そして、前者に与えられるのは永遠のいのちであり、後者に与えられるのは神の
怒りである、と言われています。
1章の18節以下のところで、私達人間は、本来神の怒りのもとにある、という
ことが言われていました。
しかし、その私達は、キリストの贖いによって、神の怒りから永遠のいのちへと
移されたのです。
これが福音と称されているもので、このローマ人への手紙はそれを主張してお
り、また新約聖書全体もそのことを主張しているのです。
私達はこのことを心より信じ、永遠の滅びではなく、永遠のいのちに入れられる
者となりたいと思います。

(1991年7月21日)