ローマ人への手紙2章12ー16節

「律法の問題」



 このローマ人への手紙におけるパウロの中心的な主張は、3章29節に述べら
れている、

  人が義とされるのは、律法の行いによるのではく、信仰によるのである

というものであります。
これをキリスト教の教義で、「信仰義認」と言います。
これは、特にプロテスタントの信仰において非常に重要なものとなっています。
 さてパウロはここで、この主張に入る前に、律法とは何か、ということを論じ
ています。
パウロは、しかし、この手紙で、律法そのものを否定しているのではありませ
ん。
2章6節では、

  神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。

と、一見すると律法主義のように思えるようなことも言っています。
もちろんこれは、律法主義ではありませんが、律法を決して軽視してはいませ
ん。
そもそも律法は、神がシナイ山でイスラエルの民と契約を結んだ時に与えられた
ものです。
従って、それは、神の啓示であり、イスラエルの民の命と関係がありました。
イスラエルの民は、最初エジプトで奴隷でしたが、神がモーセを遣わして、その
奴隷状態から救われ、シナイ山に導かれて、そこで契約を結んだのです。
そしてその時に、十戒が与えられたのです。
その十戒の一番最初に次のように言われています。(出エジプト記20・2)

  わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導
  き出したものである。

これは戒めではありません。
戒めは、その次に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならな
い」というのから始まります。
すなわち、神は、イスラエルの神ヤハウェはどういうお方か、ということをまず
紹介しているのです。
すなわち、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出したお方である、という
のです。
ここにイスラエルの民の原点があります。
イスラエルの民の原点は、全く神の一方的な恵みである、ということです。
そして、律法というのは、その神の恵みに答えて、それにふさわしい生き方をな
す、ということなのです。
ですから、その神の恵みを抜きにして、ただ「これをしなければならない」「こ
れはしてはならない」という戒めだけを主張するのは、誤りです。
その神の恵みと密接に関連しているがゆえに、律法はすばらしいものとされたの
です。
詩篇は、まず律法をほめたたえる歌から始まっています。
そして、19篇などはとても美しく律法を賛美しています。
また、新約聖書の預言だとされている、エレミヤの「新しい契約の預言」でも、
律法が述べられています。
エレミヤ書31章31ー33節(P.1100)

  主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を
  立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプト
  の地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であった
  のだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それら
  の日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわ
  たしは、わたしの律法を彼らの内におき、その心にしるす。わたしは彼らの
  神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

すなわち、イスラエルの民は神からいただいた律法を守らなかったことによって
契約を破ったのであるが、神は律法をやめにするというのではなく、律法を彼ら
の心に記す、というのです。
従って、エレミヤも律法をやはり非常に重要なものとして捉えている訳です。
 イエス様も律法を軽視したのではありません。
マタイによる福音書5章17ー18節においてイエスは、

  わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するた
  めではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅びる
  までは、律法の一点、一画もすたれることはなく、ことごとく全うされるの
  である。

と言っています。
しかし、イエスが、律法を大切にしていたパリサイ人たちとぶつかったのは、彼
らが律法の根本精神を見失い、ただ形式的に律法を守っていたからです。
イエスは、その律法の根本精神は何かということで、マタイによる福音書22章
37ー40節で次のように言っています。

  イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主な
  るあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。
  第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』
  。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

ここで、律法全体と預言者で、旧約聖書の全体を表しています。
この時代聖書はまだ、正典として成立しておらず、第一部の律法(これは旧約聖
書の最初の5つの書ですが)と第二部の預言者だけでした。
従って、律法と預言者ということで、旧約聖書全体を表したのです。
ですからイエスは、旧約聖書全体を要約すると、心をつくして神を愛すること
と、自分を愛するように隣り人を愛するということに要約することが出来る、と
言ったのです。
イエスは、安息日に病人を癒したり、取税人や罪人と交わったりして、表面的に
見るならば、律法の規定を破ったようですが、しかしそれは律法の根本精神に生
きたということです。
すなわち、安息日といえども、今困っている人に真の愛を注いだのです。
そしてこれは、隣人を愛するという律法の根本精神から出た行為なのです。
ヨハネによる福音書の記者は、「イエスは世にいる者たちを最後まで愛し通され
た」と言っています(一三・一)。
そしてこれは、最終的には、十字架という形で現れたのです。
 しかしイスラエルの民は、神から恵みの賜物として律法をもらいながら、その
根本精神を見失い、それをただ形式的に守ったのです。
13節。

  なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者
  が、義とされるからである。

ここで「律法を行う者が義とされる」というのは、パウロの信仰義認と矛盾する
ようにも思われます。
パウロは、これのすぐ後の、3章の28節では、「人が義とされるのは、律法の
行いによるのではない」と言っているからです。
しかしここでは、信仰義認と矛盾することを言っているのではなく、聞く者(あ
るいは「聞くだけのもの」と言った方がいいかも知れませんが)と行う者とを対
比させているのです。
ここでパウロは、当時のユダヤ人を「律法を聞く者」と言っています。
しかし当時のユダヤ人たち(特にパリサイ人)は、自分たちは律法を行ってい
る、しかも完全に行っている、と自負していたのです。
しかしそれは、表面的に律法の規定を行っていただけで、その根本精神を行って
いたのではなかったのです。
従って、聞くと言っても、それに心から耳を傾けていたのではなかった、という
ことになります。
当時のユダヤ人が「律法を聞く者」であったとするならば、イエスは「律法を行
う者」であった、と言うことが出来ます。
それは、神の戒めに従順に従って、十字架への道を歩まれたからです。
 わたしたちも、聖書のみ言葉において、ただ聞くだけなのか、それとも行う者か、
ということが問われます。
わたしたちも、聖書のみ言葉に心から耳を傾けているでしょうか。
それともただ耳に聞こえているだけではないでしょうか。
聖書のみ言葉に心から耳を傾けている場合、それはわたしたちの生き方や生活に
影響や変化をもたらすと思います。
み言葉を聴いていながら、わたしたちの生活態度が全然変わらないのであれば、
本当に聴いているかどうかも怪しいものです。
 さて、律法と言う場合、当時の社会ではユダヤ人だけが問題でした。
しかし律法を全然知らない異邦人は、どうであったでしょうか。
14節。

  すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行う
  なら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのであ
  る。

すなわち、真の神を知らない異邦人にとっては、自分自身が律法である、という
のです。
ここの律法は、ギリシア語でνoμοsと言いますが、これは「世界の一般法
則」という広い意味をもった「法」のことです。
そういう法が自分自身だ、というのは、すなわち自分が絶対的だ、ということで
す。
すべての判断、基準は自分にある、ということです。
真の神を知らない者は、しばしば自分が絶対になります。
しかし、人間の判断はしばしば誤るのです。
それは、自分の欲に囚われるからです。
自分がこうしたい、自分がこうしてもらいたい、ということが、しばしば判断の
基準になります。
15節に「律法の要求」とありますが、「自分自身の要求」「自分の欲求」と言
ってもいいと思います。
従って、律法は、へたをすれば、人間の欲とつながってしまうのです。
わたしたち人間は、この「自分の欲求」にしばしば支配されてしまいます。
 人間は、古来、自分の欲を満たしてもらうために数多くの偶像を造ってきまし
た。
人間の欲は実に沢山あるので、偶像の数も非常に沢山あります。
特に日本は、八百万の神と言われ、いろいろな神々があります。
しかし、真の神から与えられた十戒の一番最初は、すなわち律法の最も中心にあ
るものは、「あなたは、わたしのほかに何ものをも神としてはならない」という
ものです。
これは、確かに戒めですが、しかしこれは人間を冷たく縛りつけるものではな
く、本当の意味で私達を解放し、真の命を与えるものなのです。
わたしたちは、この律法の縄目から解放されて、まことの命に与る者とされた
いと思います。

(1991年8月25日)