ローマ人への手紙2章17ー24節

「神の戒めに従って生きる」



 パウロは、このローマ人への手紙の2章において、ユダヤ人の問題を取り上げ
ています。
2章の1節で、「ああ、すべて人をさばく者よ」と言っていますが、パウロにと
って当時のユダヤ人、特にパリサイ人は、「人をさばく者」として性格づけてい
ます。
これは、パウロ自身が、かつてキリストに出会って回心する前はパリサイ人であ
ったので、実感していたことだと思います。
パウロ自身、かつては非常に律法に熱心で、そのために律法を守らない者、また
律法を軽んじる者は、許しておけなかったのです。
ちょうどその頃、復活のキリストを信じ、律法を重んじない一つのグループが起
こりました。
若かったパウロは、血気にはやり、このキリスト者たちを許しておく訳にいかなか
ったのです。
そこで彼は自ら大祭司に申し出て、このグループを迫害したのでした。
これは、パウロの律法への熱心から出た行為でした。
この迫害によって、多くのキリスト者が捕らえられたり、またステパノのように
石打ちで殺されたりした人もいました。
そして、ダマスコのキリスト者を迫害するために道を急いでいた時に、復活のキ
リストに出会って、回心し、今度はキリスト教の伝道者になったのです。
そこでパウロは、律法に熱心になるということは、人を裁く結果になる、という
ことを身をもって経験したのでした。
それは、一つの挫折の経験と言っていいと思います。
 人は長い人生において、そのような挫折の経験があると思います。
いままで絶対的だと信じていたもの、それがある時音をたてて崩れてしまうので
す。
今のソ連では、多くの人がそのような挫折の経験をしているのではないでしょう
か。
ソ連社会において、マルクス・レーニン主義・共産主義は絶対的だと思われてき
ました。
それがこう急速に崩れ去るとは、2〜3年前に誰が想像したでしょうか。
挫折を味わっている人も多いと思います。
東西ドイツが統一した時も、ある東の学校の先生は、「今まで共産主義が正しい
と信じ、子供たちにもレーニンを教えてきましたが、これからは一体何を信じれ
ばいいのでしょうか」と挫折を隠しきれないようでした。
そして、このような挫折を通して、次にどんな新しいものが出てくるのでしょう
か。
中々前途多難だと思います。
また、かつての日本も天皇を中心とする国家体制は絶対的だと思っていました。
しかし、あの敗戦で、日本の多くの人も挫折をしました。
「天皇を現人神だと信じて、天皇のために戦ったのに、戦後人間になってしまっ
た、一体自分は何のために戦ったのだろうか」、と。
このような挫折感を抱いた人も多くいたと思います。
そして、戦後新しい憲法によって、新しい歩みを始めましたが、果たしてそれが
全く新しいものかは疑問です。
依然として、かつてのように天皇を中心とする国家体制に逆戻りしようとする動
きがあります。
人は、挫折の後にどんな新しい歩みに生かされるかが問題です。
 パウロは、今までの律法主義が、復活の主に出会ったことによって、挫折し、
そしてキリストによる新しい命において、新しい歩みを始めたのでした。
キリストによって与えられた新しい歩みから古い生き方を振り返って、自らへの
反省もこめて、当時のユダヤ人を批判しているのです。
17ー18節。

  もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知
  り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、

「自らユダヤ人と称し」とありますが、これは一つの自慢です。
だれでも自分の民族や国を自慢にしているかも知れません。
イギリス人は自分がイギリス人であることを誇りに思い、フランス人はフランス
人であることを誇りに思い、アメリカ人はアメリカ人であることを誇りに思って
いる人が多いかも知れません。
また、私達日本人も日本人であるということを誇りに思っている人も多いかも知
れません。
しかしそれは、生まれ育った国なので愛着があるというようなことからでしょ
う。
しかし、当時のユダヤ人が「ユダヤ人」ということを誇りに思っていたというの
は、それとは少し違います。
それは、自分たちは、神に特別に選ばれた民だ、という誇りでした。
自分たちの民族は特別に優秀であって、他の民とは区別されているのだ、という
思いがありました。
25節以下でパウロは割礼のことも問題にしますが、この割礼もユダヤ人を他の
民族と区別するしるしとして守られてきたのです。
従ってこれは、ユダヤ人だけの特権だと考えられていました。
それと共に他の民族は神を知らない民だとして、蔑んだり、ある時は差別をした
りしました。
 自分たちは、神に特別に選ばれた優秀な民族だ、とするのは、間違った選民思
想です。
歴史において、他にもしばしばこういう過ちが繰り返されてきました。
例えば、ドイツのヒットラーは、ゲルマン民族が優秀だとして、六百万人のユダ
ヤ人を虐殺しました。
また、南アフリカのアパルトヘイトでは、ハムの子孫である黒人は白人に仕える
ように神によって定められたのだ、として人種差別をしてきました。
最もこれは世界中からの非難にあい、経済的な制裁という圧力も加わって、最近
やっと、アパルトヘイトは廃止になりました。
また、かつて日本も大和民族は優秀なのだ、として、アジアの人々を虐げてきま
した。
 しかし聖書においては、何もユダヤ人は優秀だ、というようには言われていな
いのです。
また、ユダヤ人だけが、救いの対象だ、とも言われていないのです。
聖書においては、すべての民族は平等であるし、またすべての民族が救いの対象
なのです。
イスラエルの民はむしろ、当時の諸民族の状況からすると、取るに足りない小さ
な民であった、と言われています。
申命記7章6ー8節。(P.256)

  あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもての
  すべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなた
  がたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が
  多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少な
  いものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓わ
  れた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導きだし、奴隷
  の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。

ここでイスラエルの民は「最も数の少なかった民である」と言われています。
数が少ないというのは、弱い、劣っている民だ、ということです。
従って、イスラエル自体には、神に選ばれる理由は何もなかったのです。
決してイスラエルの民が優秀であったからではありません。
ただ神の憐れみによって選ばれたのだ、というのです。
同じようなことは、パウロがコリント人への第一の手紙の最初のところでも言っ
ています。
すなわち、キリスト者に選ばれた人は、決して優秀だったからではなく、むしろ何の
価値もない者だが、全く神の一方的な憐れみから選ばれたのだ、というので
す。
 神はすべての人間の創造者なのです。
従って、神はご自分の被造物であるいかなる人間をも愛し、救おうとされるので
す。
アブラハムの選びの記事には、そのことが言われています。
アブラハムが選ばれた時次のように言われています。(創世記12章3節b)

  地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。

そうです。
神は、すべての民を祝福されようとするのです。
そして、その使命のために選ばれたのが、アブラハムであり、イスラエルの民な
のです。
17ー18節に言われている「律法に安んじ(新共同訳聖書は「頼り」)、神を
誇りとし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」と
いうことは、選ばれた民にふさわしいことなのです。
このことにパウロは少しも否を唱えていません。
神の民として選ばれたユダヤ人がこのことを果たしていれば何も問題はなかった
のです。
しかしイスラエルの民に与えられたその使命を果たさなければ何にもならないの
です。
パウロは、ここでは、ユダヤ人に対してそのことを問題にしているのです。
21ー22節。

  なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むの
  か。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、
  自らは宮の物をかすめるのか。

これは多分ユダヤ人でもエリートであるパリサイ人に対する言葉だと思います。
彼らは常日ごろ律法を教えていました。
「盗むな」とか「姦淫するな」というのは、律法でも一番重要な十戒の中にある
戒めです。
このような一番重要な律法さえ、一部のパリサイ人(全部ではないでしょう)は
破っていたようです。
その他にも、律法には実にいろいろな規定がありました。
律法学者やパリサイ人たちは、このような律法の戒めを常日頃人々に教えていた
のでした。
しかし、自分たちはそれを実行していなかった、というのです。
形式的には守っていたかもしれませんが、その法の根本精神を失っていたので
す。
 パウロはここで、律法そのものを否定しているのではありません。
神の戒めというのは、本来人を殺すものではなく、人を生かすものです。
しかしそれは、神に従順に従うという態度でなければ、ただ形式的に守るだけな
ら、人を殺すものになる。
パウロは、その前の13節で、

  なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者
  が、義とされる。

と言っています。
神の戒めは、それを言ったり、説いたり、教えたりするのでなく、それに従順に
従うことが大切なのです。
まして、自らを誇って、他人を裁くということは、神の戒めに従って生きることから
はほど遠い在り方です。
 私達も神よりそれぞれ使命が与えられている、と思います。
ただ、その使命を、わたしたちはユダヤ人にようには、律法という形では与えら
れていません。
その人には、その人にふさわしい使命というものがあると思います。
キリストによって救いに入れられた者としての使命というものがあると思いま
す。
どういう使命が与えられているか、聖書のみ言葉に示されつつ考える必要があり
ます。
そして神は、その使命を果たすことが出来るようにまた、私達にそれぞれふさわしい
賜物を与えて下さっています。
「神の戒めに従って生きる」ということは、私達に与えられているその賜物を土
の中に隠しておかずに、神のために用いて行くということなのです。
私達も、私達に与えられている神の戒めに従って生きる者でありたいと思いま
す。

(1991年9月8日)