ローマ人への手紙3章9ー20節
「義人はいない」
9節。 すると、どうなるのか。わたしたちは何かまさったところがあるのか。絶対 にない。ユダヤ人もギリシア人も、ことごとく罪の下にあることを、わたし たちはすでに指摘した。 ここの「わたしたち」というのは、パウロを含めてユダヤ人のことです。 パウロは、ユダヤ人に、何かすぐれたところがあるか、という問題で「全くな い」と断言しています。 これは当時のユダヤ人の発言としては、全く革命的と言っていいほどの発言で す。 当時ユダヤ人は、神に特別に選ばれた民だ、と誇りに思っていたからです。 事実、彼らの歴史を振り返るなら、他の民にはない特性がありました。 モーセを通してイスラエルの民に十戒が与えられましたし、また預言者たちを通 して神の言葉が与えられました。 これは歴然とした事実であり、そのことをパウロも認めています。 3章の1節では、ユダヤ人の優れたこととして、 まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。 と言っています。 これは事実であり、このことの故にイスラエルの民は特別な民である、と言えま す。 しかしそれは、ユダヤ人が特権が与えられたというのではありません。 むしろ彼らには、特別な使命が与えられたのです。 すなわち、彼らには神の言が委ねられたのですから、その神の言を多くの民に伝 え、また自らその神の言に従って生きる、ということです。 彼らには特権が与えられたのではなく、義務が与えられたのです。 それは、イエスが弟子たちに言ったように、「仕えられる」生き方ではなく、 「仕える」生き方です。 ところが、ユダヤ人は、歴史において、神の言葉に従って、他の人々に仕える生 き方をしたかというと、そうではなく、自分たちは神の民であるという特権意識 を持ち、他の民を見下げるような生き方をしたのです。 そこでパウロは、「ことごとく罪の下にある」と言います。 ユダヤ人も、彼らが軽蔑していたギリシア人と何等変わることはない、というの です。 「ことごとく」というのは、すべての人間ということです。 勿論、私達も皆、「罪の下にある」のです。 「罪」というと、何か犯罪でも犯したような印象を受けますが、そういう意味 ではありません。 「罪」というのは、ギリシア語では、αμαρτιαと言いますが、これは「的 をはずす」という意味の言葉です。 人間は、本来の在り方を見失ってしまったのです。 本来の在り方というのは、創造者なる神によって造られた存在である、というこ とです。 従って、創造者の意志に従って歩むということです。 私達人間は、自分の意志に従って、自分の欲に従って歩んでいますが、私達を創 造した神の意志に従って歩むのが本来の在り方だ、というのが聖書の主張なので す。 これを創世記の記者は、素朴な物語で言い表しています。 すなわち、エデンの園の物語です。 そこでアダムとエバは、非常に理想的な楽園に置かれる訳ですが、一つだけ神か ら禁じられたことがありました。 それが、園の中央にある木です。 他のすべての木の実は、食べてもよかったのですが、その中央の木の実だけは食 べてはいけなかったのです。 それを彼らは蛇の誘惑に負けて食べてしまったのです。 創世記の記者は、この物語を通して、人間が本来の在り方を失ってしまったこ と、的をはずしてしまったことを言い表しているのです。 これが原罪と言われるものです。 そして、この罪については、例外者は一人もいないのです。 10節に、 義人はいない、ひとりもいない。 とあります。 これは、詩篇14篇1ー3節からの引用です。 詩篇では次のように言われています。(P.758) 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。 彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、 善を行う者はない。 主は天から人の子らを見下ろして、 賢い者、神をたずね求める者が あるかないかを見られた。 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。 善を行う者はない、ひとりもない。 ここで「主は天から人の子らを見下ろした」とあります。 人間は自分自身では余り自分の罪に気付かないのです。 特にこれと言って何も悪いことをしていない人はそうでしょう。 他人の罪には敏感でも、自分の罪には気付かないのです。 しかし神の目から見れば、すべての人は、罪人なのです。 パウロでさえも、自分は罪人である、ということを常に自覚していました。 否、「罪人のかしらである」とさえ言っています。 テモテへの第一の手紙1章15節。(P.327) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言 葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人 のかしらなのである。 M・ルターも自分は罪人である、とういことを常に自覚していたようです。 三浦綾子の小説に『塩狩峠』というのがあります。 これは、明治の末、北海道の旭川で実際に自分の命を犠牲にして大勢の乗客を救 った一青年をモデルにしたものだということです。 三浦綾子の小説では、永野信夫という人がその主人公の鉄道員になっています。 彼は熱心なクリスチャンで、普段から品行方正な生活をしており、自他共に真面 目な青年だということを認めていました。 しかしある時、彼は自分も全くの罪人だ、ということを告白する所があります。 どんな品行方正な人であっても、神の目から見れば、罪人なのです。 詩篇の記者が言うごとく、「義人はいない、ひとりもいない」のです。 ただ私達は、普段の時、余り罪というものを自覚しません。 しかし、神との出会いを通して、罪を自覚させられます。 ルカによる福音書によると、ペテロがイエスから召命を受ける時に、そのことが 記されています。 すなわち、イエスは、彼の舟に乗って群衆に話をされましたが、話が終わって、 彼に「沖へこぎ出して、網を降ろしてごらん」と言われました。 ペテロは一晩中漁をしても一匹もとれなかったのですが、「お言葉ですから」と 言って義理のようにして網を降ろしてみたところ、おびただしい魚が取れまし た。 この時彼は、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と告 白しています。 ペテロは、これまで普段自分の罪などということは、思っていなかったでしょう が、聖なるイエスとの出会いによって、それを自覚させられたのでしょう。 また、旧約の預言者イザヤの召命においても同じような体験をしています。 イザヤの召命は、イザヤ書6章に記されています。(P.950) イザヤは、神殿において神に出会うという体験をしました。 そのとき彼は次のように言います。 5節。 わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者 で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主な る王を見たのだから。 ここで、イザヤは、神を見たことによって、普段気付かなかった己の汚れに気づ かされたのです。 しかもその汚れによって死んでしまうほどだ、というのです。 それほどまでに深く自分の罪を自覚したのです。 イザヤは、それまで特に悪い、間違った生活をしていたのではないと思います。 むしろ真面目で敬虔な人であったと思われます。 しかし、神との出会いによって、自分の汚れを深く知らされたのです。 背景が黒とか灰色であれば、少々汚れたものであっても余り気付きません。 ところが背景が真っ白であったなら、ほんの少しの汚れでもすぐに気付きます。 私達が普段生活している場は、灰色のようなものであって、少々の汚れには気付 かないのです。 しかし、聖なる神の前に立つならば、ほんの少しの汚れでも非常にはっきりする のです。 イザヤは、そのような体験をしたのでした。 しかし、その次を見ますと、神はセラピム(これは一種の天使ですが)を遣わ して、祭壇の炭火をイザヤの口に当てて清めた、とあります。 7節。 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたの で、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 すなわち、神は私達が自分の罪を認めた瞬間に、その罪を赦し、清めて下さるの です。 パウロも、先程のテモテへの第一の手紙のところで、「キリスト・イエスは、罪 人を救うためにこの世にきて下さった、という言葉は確実だ」と言っています。 そうです。 私達人間は、「義人はいない、ひとりもいない」のです。 私達人間は、聖なる神の前にすべて罪人です。 一人の例外者もなく、罪人なのです。 しかし、神は、その罪人なる私達を救うために御子キリストをこの世に遣わして 下さったのです。 そして、私達はすべて、一人の例外者もなく、この御子による罪の贖いに招かれ ているのです。 一人の例外者もなく、この神の恵みに与るように招かれているのです。 私達は、この恵みに与るためには、何らの資格もありませんし、また何の行為も 必要ないのです。 20節。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられ ないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 私達自身の行いによって救いを得るのではありません。 律法によっては、罪の自覚が生じるだけです。 しかし、この罪の自覚は大切なことです。 神は私達が罪を自覚する時、それを直ちに赦し給うのです。 私達は、自分の罪を自覚すると共に、それを赦し給う神の恵みに与っていること に感謝をささげたいと思います。 (1991年10月20日)