ローマ人への手紙3章21ー31節

「信仰によって義とされる」



 今日の所は、ローマ人への手紙の中でも最も中心的な所です。
ローマ人への手紙だけでなく、聖書全体においても、従ってキリスト教信仰にと
っても、最も重要な所です。
28節。

  わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではな
  く、信仰によるのである。

これは、キリスト教の教義において、「信仰義認」と言われているものです。
義というのは、神との関係において正しいことを言います。
しかし、人間は、罪のため、誰一人神の前に正しい人はいないのです。
10節の所で、パウロは、詩篇を引用して、

  義人はいない、ひとりもいない。

と言っています。
また23節を見ますと、

  すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなってお
  り、

とあります。
「すべての人は」とあるように、私達人間は、誰一人神の前に義と言える人はい
ないのです。
 しかし、それを神の側から私達に用意して下さったのです。
24節。

  彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによ
  って義とされるのである。

ここでパウロは、「価なしに」と言っています。
これは、その当時のユダヤ教の考えからすると、全く思い切った言葉です。
と言いますのは、当時のユダヤ人にとっては、義、すなわち神の前に正しくある
のは、律法の規定を完全に守ることによって得られると考えられていたからで
す。
パウロ自身も、元々ユダヤ教の中でも最も律法に熱心なパリサイ人に属していま
したので、この律法を守るということが最も重要なことと考えていました。
しかし彼は、恐らく、どんなに厳格に律法を守っても、それで神の前に正しいと
いう確信は持てなかったようです。
そこで、当時起こりつつあった、キリスト教を迫害することで、さらにその律法
に忠実であろうとしたのです。
しかしそれで神の前に正しいという確信を持てたかというと、そうではなく、か
えってそれは挫折でした。
その時彼は、復活のキリストに出会ったのです。
そして、このキリストの贖いによって義とされる、という確信を抱くことができ
たのです。
 同じような経験は、宗教改革者のM・ルターもしました。
彼は最初、エルフルト大学というところで、法律の勉強をしていました。
ある日、彼は野原で突然雷に打たれて、極度の死の不安から修道士になる決心を
しました。
そして、特に禁欲主義的な修練を行っていたアウグスティヌス派の修道院に入り
ました。
修道僧としての彼の生活ぶりは、極めて真面目で厳しいものでした。
彼は、後でそれを振り返って、「修道士が、その修道生活を通して天国に生ける
とするなら、わたしが真っ先に行くであろう」と言ったということです。
そしてこのことは、他の修道士も認めるところであった、と言います。
しかし彼は、どんなに熱心に修行しても、神を心から純粋に愛しているというこ
とには、自信がありませんでした。
イエスが言われた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛せ
よ」という戒めを十分になしている、という確信はついぞ持つことが出来なかっ
たのです。
修道生活も結局は、自己愛から出ているのではないか、すなわち自分が神の祝福
を得たい、自分が天国に行きたいから、即ち、自己愛から厳しい修行を行ってい
るのであって、純粋に神を愛すことから出ていない、と思ったのです。
ルターは、このようなことで苦悩し続けました。
その後、ヴィッテンベルクの神学教師となりますが、この苦悩はその後も続きま
した。
しかし、ローマ人への手紙を研究するうちに、ルターは、全く新しい立場にたど
り着いたのでした。
それは、「神の義」ということの新しい理解です。
彼は今まで、「神の義」は、神が義であって、すなわち神が正しいお方であっ
て、人間の罪や不義を見すごしにせずに、裁かれる、と思っていました。
この裁きを逃れるために、彼は修道生活に励んで完全になろうとしたのでした。
すなわち、功徳を積むことによって、裁きから逃れようとしたのです。
従ってそれは、喜んでなしたといよりは、恐ろしさからなしたのでした。
しかし、いくら努力をし、修行を積んでも、完全にはなれず、神は益々恐ろしい
存在となったのです。
ところが、ローマ人への手紙を研究することによって、この「神の義」というの
は、実は裁きではなくて、福音である、ということに気づかされたのです。
 21節。

  しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあか
  しされて、現された。

ここに「律法とは別に」とあります。
それまでルターは、神の義とは、律法と関係があると考えていました。
神の戒めを守ることが神の義と考え、それを守ることができなければ、裁きが与
えられる、と考えていました。
そのために、神の要求に答えられないということで、常に恐怖心をもっていまし
た。
しかし、「神の義」とは、そういう律法ではないのです。
神が義であって、人間を裁くというのでなく、神は人間を「価なしに」義とす
る、というのです。
そのために神は、み子を送って、恵みを示されたのです。
私達を義とするということにおいて、神は義なのです。
神だけが義であって、従って義でない人間を裁くというのでなく、私達をこの同
じ義へと入れて下さったのです。
そして、私達が、何か完全な行いをすることによって義と認められるのでなく、
イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる、という理解です。
 日本基督教団の信仰告白には、次のようにあります。
「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦
して義としたもう」と。
この義とされるというのは、私達が完全な行いをなすことによってではなく、た
だ信仰によるのです。
それは、私達の行いは、神の前では完全ではないからです。
ルターは、何とかして神の前に完全になろうと非常に厳しい修道生活をします
が、しかしその結果は自分の不完全さに気付いて、益々神が恐ろしい存在になる
ということでした。
20節にあるように、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」です。
私達は、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト
の贖いによって義とされたのです。
 25ー26節。

  神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受けべきあがない
  の供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに
  犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に
  、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、
  イエスを信じる者を義とされるのである。

「神の義」とは、私達を義としたもう神の行為です。
神の恩寵の行為です。
キリストの贖いの血によって、私達は義とされたのです。
旧約聖書には、年に一度「贖いの日」というのがあります。
レビ記によりますと、それはユダヤ暦の7月10日です。
その日に祭司は、贖いの動物の血を贖罪所に注いで、イスラエルの人々の罪の贖
いをしなければならなかったのです。
そのようにして、イスラエルの人々の一年間の罪が贖われる、と考えられていま
した。
しかし今や、イエス・キリストの贖いの血によって、私達の罪が赦されたので
す。
パウロは、25節において、「信仰をもって受くべきあがないの供え物」と言っ
ています。
すなわち、キリストの尊い血でもって供えられたあがないは、私達の信仰によっ
て、私達の贖いとなるのです。
ここで強調されるのは、「信仰」です。
 この信仰によって義と認められる、というのは、旧約聖書においても示されて
います。
21節でパウロは、「律法とは別に」と言って、「律法と預言者とによってあか
しされて」と言っています。
この律法と預言者は、旧約聖書を指しています。
創世記15章にアブラハムに子孫が与えられる約束の記事があります。
その神の約束をアブラハムは、素直に信じました。
創世記15章5ー6節(P.16)。

  そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることが
  できるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあの
  ようになるでしょう」。アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認め
  られた。

この6節は、ルター訳聖書では、特別な括弧で囲まれています。
すなわち、ルターが特に大事な箇所とした所です。
 信仰とは、神がみ子イエス・キリストによって私の罪のあがないとなって下さ
ったことを信じることです。
ルターは、次のように言っています。
「キリストは世の罪を担って十字架で死に給うた。これを知って悪魔もまた、震
えおののくであろう。キリストは私の罪のために死に給うた。それによって信仰
が始まるのである」と。
ルターは、この「私のため」προ μεということを重要視します。
漠然と人類一般のために死んだというよりは、キリストはこの私のために死んで
下さったという信仰です。
罪人であるこの私のために、キリストは尊い命を犠牲にされたのです。
このイエス・キリストの業を信じる信仰によってのみ私達は救われるのです。
この救いをなし遂げて下さったイエス・キリストが私達の唯一の主であり、この
主イエスに従う者となりたいと思います。

(1991年11月10日)