ローマ人への手紙4章1ー8節
「アブラハムの信仰」
前の所では、ローマ人への手紙の中で最も中心的な箇所を学びました。 3章28節。 人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 これは、ローマ人への手紙だけでなく、聖書の信仰にとっても最も中心的なもの であり、キリスト教の教義においても、「信仰義認」として最も重要なもので す。 さて、今日の所でパウロは、この信仰義認を、旧約聖書の証言において裏付け ようとしているのです。 ここには、旧約聖書を代表する二人の人物が引き合いに出されています。 すなわち、アブラハムとダビデです。 私達でも、旧約聖書の人物を二人挙げよ、と言われたらこの二人を挙げるかも知 れませんが、この二人は、当時のユダヤ人の間でも最も尊敬されていた人たちで す。 ここでパウロは、アブラハムは何故ユダヤ人に尊敬されているか、ということを 問います。 2節。 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ること が出来よう。しかし、神のみまえでは、できない。 ここでパウロは、アブラハムがその行いによって称えられているのではない、と 言います。 これは当時のユダヤ人には多少意外なことであったかも知れません。 というのは、アブラハムは、その行為において偉大な人物だとされていたからで す。 彼は、神の戒めに従って、故郷の国から旅に出て、聖書の舞台であるカナンの地 にやって来ました。 また、甥のロトに対しては、非常に思いやりのある態度を取りました。 また、たった一人与えられた息子のイサクも神の命令に従って燔祭として捧げよ うとしました。 これらは、神の戒めに忠実に従った行為として、ユダヤ人たちから称賛されてい たのです。 また、何よりも、アブラハムは神の命令に従って、割礼をしました。 この割礼は、アブラハムから始まったものとして、ユダヤ人は大切にしました。 しかし、ここでパウロは、アブラハムは、決してそのような行いによって義と されたのではない、と言います。 もし、そうであったら、アブラハムはそのようなことを誇ったであろう、と言い ます。 人間の行いには、それが立派であればあるほど、必ず誇りというものが伴いま す。 それが人間の弱さかも知れません。 イエスの時代のパリサイ人たちは、確かに社会的にも道徳的にも立派な人たちで した。 イエスは、決して彼らの行為そのものを批判したのではありません。 そうではなく、彼らがその行為によって自らを誇り、そして他の者を見下げたか らです。 そのようなことを示すためにイエスは、パリサイ人たちについて皮肉たっぷりに 譬を語っています。 ルカによる福音書18章9ー14節。(P.120) 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまた この譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひと りはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って 、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、 不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもない ことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一を ささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけよう ともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしく ださい』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったの は、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。 確かにパリサイ人は、当時の社会にあって、品行方正な生活をなし、律法にかな った行いをなしていました。 そのために社会的な信用もあり、指導的立場にありました。 しかしそれゆえに、自分達の行いを常に誇りにしていました。 そしてそれは、他の人に対する裁きとなって現れるのです。 先週は、ルカによる福音書6章の所の「人をさばくな」というイエスの教えを学 びました。 往々にして、自分は正しいと思っている人は、他人を裁いてしまいます。 しかしイエスは、神の目から見れば、そうたいした違いはなく、それゆえまず自 分の目から梁を取り除かなければならない、と言われました。 さて、ここで、パウロは、アブラハムは決して自分の行いに誇りを持っていた のではない、と言っています。 3節。 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それに よって、彼は義と認められた」とある。 アブラハム物語りは、実に創世記の12章から25章までにわたっています。 この24章もの話の中には、実にいろいろな事が語られています。 しかし、パウロは、この長いアブラハムの生涯の中で、この聖句を代表として選 んでいるのです。 パウロにとっては、これがアブラハムの生涯全体の総括であったのでしょう。 これは、創世記15章6節の言葉です。 アブラハムは、もう高齢になっていました。 妻のサラも高齢になっていましたが、二人には子供がありませんでした。 そして年令からして、もう二人に子供が出来ることは、考えられない状態でし た。 現に彼は自分の跡継ぎとして、エリエゼルという親戚の者を養子にすることを考 えていました。 その時、神は夜アブラハムを天幕の外に連れだし、天を仰ぎ、アブラハムの子孫 が「あの星のようになるでしょう」と言われたのです。 その時のアブラハムの反応が、パウロが引用している言葉です。 これは、人間の頭では殆ど考えられないことです。 それをただアブラハムは、信じた、とだけ記されています。 ここでは、アブラハムは、自分の側には何一つ希望もないのに、神の言葉に全面 的に信頼しています。 自分のすべてを神に明け渡しているのです。 そして、これを神は義とされた、というのです。 私達はキリスト者として、信仰をもっていると思います。 しかし、往々にして、信仰よりも自分の考えを優先しているのではないでしょう か。 自分の頭で考えられないことは、中々信じることが出来ないのです。 イエスの12弟子のトマスは、仲間の弟子から復活のイエスに出会ったというこ とを聞いた時、 わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また 、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。 と言いました。 復活などということは、トマスには、到底考えられなかったのでしょう。 このときイエスは、 あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいであ る。 と言われました。 私達も、アブラハムよりは、トマスに近いのではないでしょうか。 中々自分を明け渡すということは出来ずに、むしろ自分の頭や自分の考えに頼り ます。 ヘブル人への手紙の著者は次のように言っています。 ヘブル人への手紙11章1節。(P.354) さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認す ることである。 そして、これに続いて、アブラハムを始めとして、信仰によって歩んだ旧約聖書 の多くの人々が挙げられています。 さて、今日の所でパウロは、アブラハムと並んでもう一人旧約聖書の代表的な 人物を挙げています。 それは、ユダヤ人の国家的英雄ダビデです。 しかしここでは、ダビデが偉大な王国を建設したことが称賛されているのでもな く、彼が多くの功績を挙げたことが称賛されているのでもありません。 6節。 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次の ように言っている。 パウロはここで、「行いがなくても」と言っています。 当時のユダヤ人にとっては、ダビデは、まさに数々の偉大な行いによって、国家 的英雄とされていました。 ですから普通なら、ダビデを引き合いに出すのなら、彼はこういうことをした、 ああゆうこともした、と言って、数々の行いを列挙する所です。 しかしパウロは、そういうことを一切いいません。 7ー8節は、詩篇32篇からの引用です。 この詩は、伝統的にダビデが作ったとされています。 パウロが引用しているのは、ギリシア語訳からの引用で、私達の聖書とは少し訳 が違っています。 8節に「罪を主に認められない人」とありますが、これは罪を犯さなかった人、 というのではありません。 ダビデは、人間的には欠けも弱さも多い人でした。 ある時は本当に大きな罪を犯しました。 しかし彼が心から悔い改め、そのことによって罪が赦されたのです。 彼に罪がなかったのでなく、主の恩寵によって、罪なしと認められたのです。 アブラハムも同じです。 彼自身が義であるというのでなく、3節にあるように「義と認められた」ので す。 これは受け身です。 ということは、主体は神です。 神が決して義人でないアブラハムを義と認めた、というのです。 私達も、アブラハムと同じように、決して義人ではありません。 しかし、キリストの十字架の贖いによって、義と認められている、というので す。 これは私達の業ではなく、全く神の側の一方的な恵みです。 また、私達は、ダビデと同じように罪がないというのでは決してありません。 しかしキリストの十字架の贖いによって、罪なき者と認められるというのです。 これが、聖書の中心的メッセージです。 私達は、本来、罪に汚れ、滅びしかない者なのです。 しかし、このような私達のために神自ら御子イエス・キリストを遣わして、その 贖いによって、私達を義と認めて下さったのです。 私達は、何にも代えがたい、この恵みに、無償であずかっているのです。 そこで、私達も、アブラハムのように、素直に神を信じる信仰に生かされたいと 思います。 (1991年12月1日)