ローマ人への手紙4章18ー25節
「義と認められる」
パウロは、このローマ人への手紙の4章において、アブラハムの信仰について 論じています。 そしてこれは、「信仰によって義と認められる」というパウロの主張を、旧約聖書の 証言から論証しようとしているのです。 18節。 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫 はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったので ある。 ここに、「望み得ないのに、なおも望みつつ」とあります。 そしてこれが本当の信仰と言えるでしょう。 これは、彼が老年になって、もはや子供の出来る可能性がなくなった時、神によ って多くの子孫が与えられると約束された時に、彼が信じたことを言っていま す。 このような信仰のことをヘブル人への手紙の著者も言っています。 ヘブル人への手紙11章1節。(P.354) さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認す ることである。 そしてヘブル人への手紙の著者は、旧約聖書の人々がこの信仰のゆえに称賛されてい ると言って、8節ではアブラハムのことが出てきます。 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむ った時、それに従い、行く先をしらないで出て行った。 ここには、アブラハムの神に対する絶対的な信頼があります。 メソポタミアのハランという町において比較的安定した生活をしていた彼が、あ る時突然、「国を出て親族に別れ、私が示す地に行きなさい」と言われ、それに 素直に従ったのでした。 また、せっかく与えられた自分の子のイサクを神に捧げようとしたことも、神に 対する絶対的な信頼がなければ出来ないことです。 しかし、絶対的な信頼というのは、私達人間にとってしばしば危険であること があります。 私達の中にも、全く信頼していた人に裏切られるということがあります。 それは人間というのは、所詮自己中心的であるからです。 歴史においても、絶対者は、最初は人々から非常に信頼されました。 例えば、ドイツのヒットラーにしても、最初はドイツの多くの国民に信頼され、 支持されたのでした。 しかし、その信頼も、間もなく裏切られたのでした。 アブラハムは、すぐ誰でも信じる単純な人だったのでしょうか。 決してそうではありません。 むしろ彼は、慎重でうたぐり深い面もありました。 いろいろな国々を放浪するものにとって、そのような慎重さは不可欠のものだっ たでしょう。 エジプトに行った時は、自分の妻を妹と偽りました。 そうしないと、自分の命が危ないと思ったからです。 エジプトの人に対しては、アブラハムは全く信頼していなかった訳です。 また、彼は妻のサラが死んだ時、彼女を葬るためにヘテ人から土地を買います が、その時も、決してだまされないように、非常に慎重に事を進めています。 すなわち、アブラハムは、誰を信頼すべきか、誰を信頼してはいけないか、とい うことをよく知っていた、ということになります。 そのような彼は、神に対しては絶対的な信頼をもっていました。 それでは、彼は、なぜ神に絶対的信頼を持っていたのでしょうか。 17節を見ますと、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出 される神を信じた」とあります。 すなわち、その言葉によって天地万物を創造された神であります。 「無から有を呼び出された」とありますが、聖書の神は、言葉によって創造の業 をされました。 世界には多くの天地創造の話がありますが、言葉によって創造したというのが聖 書の特徴です。 神が「光りあれ」と言いますと、光が創造されました。 そのように神の言葉は、必ず成る、というのが聖書の信仰です。 従って、神の言葉は絶対に信頼に足る言葉なのです。 人間の言葉は、しばしば浅薄であり、信頼したために裏切られることもあります が、神の言葉は確実で、裏切られることはありません。 テモテへの第一の手紙1章15節に次のように言われています。(P.327) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言 葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。 ここで、テモテへの第一の手紙の著者は、神の言葉は、確実であり、信じるに値 するものだ、と言っています。 また、第二イザヤという預言者は、 草は枯れ、花はしぼむ。 しかし、われわれの神の言葉は とこしえに変わることはない。 と言っています。 アブラハムは、このとこしえに変わることのない神の言葉にすべてを賭けたので す。 聖書のみ言葉こそ、私達が命を賭けるに値するものです。 それは、聖書のみ言葉こそ、私達に真の命を与えるものだからです。 アブラハムは、この神の言葉を全く信じたので、義と認められたのです。 22節。 だから、彼は義と認められたのである。 これは、旧約聖書では、もう相当高齢になり、今更子供の出来る可能性がなくな ったアブラハムが夜テントの外に出て空を仰いでいると、神が「あなたの子孫は あの星のようになるでしょう」と言った時、アブラハムはそれを信じた、という 話のところで出てきます。 人間の頭では考えられない。 しかし、アブラハムは、神の言葉を信じたのです。 これによって彼は義と認められたのです。 義というのは、「正しい」ということですが、神の目から見て正しい、神との関 係が正しい、ということです。 しかし、アブラハムと言えども、神の目から見て正しい、という訳ではありませ ん。 ここで、「彼は正しい」と言われているのでなく、「義と認められた」とありま す。 すなわち、彼は本来神の前に正しいという訳ではないのに、正しいと認められ た、ということです。 これは、アブラハム自身の故ではなくて、神の恵みによるのです。 前の16節の所を見ると、 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであ って、 とあります。 信仰と恵みは、同じことを違った角度から言っているのです。 ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちは、「信仰のみsola fide」というこ とを主張しましたが、また「恵みのみsola gratia」ということも主張しまし た。 この両者には、密接な関連があるのです。 さて、この義と認められるのは、アブラハムだけではありません。 23ー24節。 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではな く、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよ みがえらせたかたを信じる私達も、義と認められるのである。 ここでパウロは、私達もまた義と認められている、と言います。 私達は、アブラハムよりもずっと神の目から見たら正しくない人間のように思わ れます。 しかし、パウロは、この私達も、実は神の恩寵によって、正しい者と認められて いる、というのです。 すなわち、私達は、このままの姿で、既に神の救いに入れられているのです。 しかし、ここままの姿が果たして神の目に正しいのでしょうか。 否、そんなことはありません。 私達のありのままの姿は、罪に汚れ、本来神の裁きによって滅びるべき存在なの です。 しかし、本来滅びるべき私達を救うために神自らが歴史においてただ一度決定的 なことをして下さったのです。 そしてそれは他の何をもってしても決して代わりになるものはありません。 25節。 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるため に、よみがえらされたのである。 他の何物にも代えられない、歴史においてただ一回限りのことというのは、この キリストの十字架と復活の出来事です。 ここでパウロは、キリストの十字架は、私達の罪過のためであり、復活は私達が 義とされるためだ、と言います。 ですから、キリストはたまたま2千年前に何かの理由によって十字架にかけられ た、というのではなく、私達の罪のために神によって用意されたものだ、という のです。 また、復活ということがなかったならば、私達が義とされるということもなかっ たということです。 ですから、この歴史におけるただ一回限りの出来事は、全く神の私達人間に対す る恩寵以外の何物でもありません。 私達は、常に、この神の恩寵というものに目を向けなければならないと思いま す。 そして、この神の恩寵によって、私達も義と認められていることを信じたいと思 います。 (1992年1月19日)