ローマ人への手紙5章1−5節
「希望」
1節。 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたし たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 「このように」というのは、前からの続きを表しています。 パウロは、ローマ人への手紙3章から、私達は信仰によって義とされる、と いうことを主張してきました。 そして何を信じるか、というと、4章24節に、 わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわた したちも、義と認められるのである。 とありました。 すなわち、キリストの復活を信じることによって、わたしたちは義と認めら れるとパウロは言うのです。 この義ということが、このローマ人への手紙の中心テーマです。 これは、神と人間との正しい関係を言う言葉です。 それはどういうことであるかというと、人間が神に全く忠実であること、全 く神に信頼していることです。 しかし、人は全く神に忠実にはならなかったのです。 常に自己中心的な生き方しか出来なかったのです。 それがエデンの園における禁断の木の実を食べたことに象徴的に示されてい ます。 すなわち、最初の人アダムが、神の戒めを破って、禁断の木の実を食べたこ とによって、神との正しい関係が破られたのです。 すなわち、私達人間は、神の前に義を喪失したのです。 5章1節には、義と並んで「平和」という言葉が出ます。 この平和は、この義と同じ内容と考えていいでしょう。 ギリシア語では、エイレーネーという言葉ですが、これはヘブル語のシャロ ームから来ています。 このシャロームというのは、単に人と人とが争わない状態のみを言うのでな 人と神との平和、すなわち人と神との正しい関係を言い表しています。 「神に対して平和を得ている」とありますように、聖書では平和は神との関 係を言います。 神と人との正しい関係、神の目から見て真に好ましい状態をシャローム(平 和)と言っているのです。 10節で、「わたしたちが敵であった時」と言われていますが、これは神に 対してシャロームでない状態です。 これは私達人間の罪を言っています。 アダムが禁断の木の実を食べたことによって、すなわち私達人間が神に忠実 に従わなかったことにより、神との平和が破られたのです。 神が人間をエデンの園から追放したという事は、本来あるべき神との平和 の状態が破られた事を示しています。 しかし、この破られた平和の状態を再び回復したのが、イエス・キリストで す。 破られた神との関係を修復したので、10節にありますように、「和解」と いう言葉も使われます。 エペソ人への手紙2章14−16節(p.302)。 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意と いう隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っ ている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのも のをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、 二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて 滅ぼしてしまったのである。 そしてパウロは、このイエス・キリストを信じる信仰によって、平和の状態 が回復された、と言っているのです。 2節。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によっ て導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでい る。 そしてパウロは、この平和の状態にある者は、希望をもつことができる、と 言う。 キリスト教を三つの言葉で言い表すと、「信仰・希望・愛」という事が出来 ます。 コリント人への第一の手紙13章13節(P.271)。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つ である。このうちで最も大いなるものは、愛である。 特にキリスト教は希望の宗教です。 もう20年も前になりますが、モルトマンというドイツの神学者は『希望の 神学』という本を書き、非常に話題になりました。 モルトマンによると、希望ということが、キリスト教の信仰の最も本質的な ものだ、ということでした。 旧約聖書の中にも希望については数多く語られています。 バビロン捕囚の時代に活動した第二イザヤという預言者は、捕囚の苦しみに あるイスラエルの民に、苦しみの中にあっても常に主に希望を持ち続けるこ とを宣べました。 彼は、 主を待ち望む者は新たなる力を得る と言いました。 今日のテキストの3節a。 それだけでなく、患難をも喜んでいる。 「患難をも喜ぶ」というのは、他の宗教にはないのではないでしょうか。 特に御利益を説く新興宗教においては、患難がなくなるということを宣伝文 句に言っているように思われます。 例えば、これを信ずれば病気が治るとか、受験に合格するとか、商売が繁盛 するとか。 また、何か患難にあった人の弱みにつけこんで教勢の拡大にやっきとなって いるものもあります。 ここで言っている患難を喜ぶというのは、ただ苦しい事を自虐的に喜ぶとい うのではありません。 そうではなく、患難はそれだけで終わるのではない、という信仰なのです。 世間一般でも、人は苦労をして成長する、というような事が言われます。 人は、苦難に出会って、それにどう対処するかによって、後の人生が違って きます。 しかし、人は患難は出来ることならない方がいいと思っています。 患難は、それが来たら何とかしてそれに対処し、そしてそれを通して人間的 に成長するのですが、なければない方がいいと思っています。 私達の主の祈りでも、「我らを試みに合わせず悪より救い出し給え」と祈り ます。 しかしここでパウロは、「患難をも喜んでいる」と言っています。 これは自虐という異常な心理状態なのでしょうか。 それとも強がりを言っているのでしょうか。 否、決してそうではありません。 彼は本心そう思っているのです。 ピリピ人への手紙においてパウロは、「喜びなさい」とか「喜んでいる」と いうことをよく言っています。 ピリピ人への手紙は、「喜びの手紙」と言われています。 それではこの手紙を書いている時、パウロは喜ばしい状態であったか、とい うと、そうではなく、実は獄につながれていたのです。 獄の中で、飢えと寒さに苦しみながら書いていた、と言われています。 こういう普通の人から見ると非常に苦しい状態にある時にも、彼は喜んでい る、というのです。 どうしてでしょうか。 彼は苦難がそれだけで終わる事がないということを知っていたのです。 いつの時にあっても望みを与える主が共にいますことを知っていたのです。 どんな苦労も彼には耐えられない苦労はないのです。 コリント人への第一の手紙10章13節(P.267)。 あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実であ る。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかり か、試練と同時にそれに耐えられるように、のがれる道も備え下さるの である。 「かわいい子には旅をさせろ」という諺がありますが、人は自分の子が強く 逞しく育って欲しいと思う時、厳しい訓練をします。 ヘブル人への手紙12章6節に、 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのであ る とあります。 試練が与えられるのは、神に愛されているからだ、というのです。 今日のテキストの3節に 患難は忍耐を生み出し とありますが、この忍耐は、ただこの患難がはやく通り過ぎるように願う消 極的なものではなく、積極的に耐えるのです。 すなわち、忍耐そのものにも意味を見いだすのです。 そうすることによって、人間が練れてくるのです。 それを通して人間が成長するのです。 これが練達です。 そしてそこから希望ということが現れるのです。 5節。 そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っ ている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからであ る。 ここでパウロは、「希望は失望に終わることはい」と非常にはっきり言って います。 これはパウロの長い信仰生活から出た結論でしょう。 それは、いついかなる時にも、キリストが共にいて下さるという確信からで しょう。 彼は幾多の伝道旅行において、数々の苦難に直面しました。 ある時は、捕らえられ殺されそうになりました。 その時に常にキリストを信じ、キリストに寄り頼みました。 そしてそこから思わぬ道が開けたのでした。 そのような経験を通して、「希望は失望に終わることはない」と言っている のです。 「神の愛がわたしたちの心に注がれている」ということも、彼の実感です。 この神の愛は、また私達の心にも注がれているのです。 私達は、常にこのことを覚え、いついかなる時にも、希望を失わないように したいと思います。 (1992年2月9日)