ローマ人への手紙5章6−11節

「和解の喜び」



 6節。

  わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者た
  ちのために死んで下さったのである。

ここでパウロは、「わたしたちがまだ弱かったころ」と言っていますが、これ
はパウロ自身の実感なのです。
彼は自分を振り返って、キリストを知る前は、弱かった、と思っているので
す。
私達は、パウロのことをそれほどよくは知りません。
しかし、使徒行伝や彼の手紙などを見ますと、彼は気性の激しいとても強い人
のような印象を受けます。
熱心なパリサイ主義であった彼は、当時起こったキリスト教がユダヤ教の教え
に反すると考え、彼は自ら大祭司に申し出て、これを徹底的に迫害したのでし
た。
しかし、そのような激しさも、実は本当の強さではなかった、と言うのです。
本当の強さは、キリストの恵みに生かされていると信じることによって与えら
れるものなのです。
神の恵みに生かされている時、普段の時は弱いと感じていることも、実は神に
よる強さと感じることができるのです。
パウロは、キリストに出会う前に、ただ一つ弱いと思っていた点がありまし
た。
それは「肉体のとげ」と言われています。
これは具体的には何かははっきりしませんが、パウロの持病であったようで
す。
パウロは、これの発作にしばしば悩まされたようです。
そして、これを取り除いて下さい、と神に祈った、とあります。
しかし、神の答えは、コリント人への第二の手紙12章9節(P.290)

  ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
  わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの
  力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

すなわち、人間的に考えて弱いと思うところにかえって神の恵みが働くのであ
る、ということです。
パウロはここで、「自分の弱さを誇ろう」と言っています。
私達人間は、人に負けるのが厭だという思いから、あるいは見栄から、往々に
して自分の弱さを認めません。
そしてしばしば自分の弱さを隠して、強気に生きるということをします。
そのようにして、虚栄をはったり、見栄をはったりします。
しかしこれは、本当の強さではありません。
人間とは、本当は弱い存在ではないでしょうか。
パウロも自分自身のことを「まだ弱かったころ」と言っていますし、またイエ
スの一番でしを自認し、われこそは主の強者と考えていたペテロも、イエスが
つかまった時、恐ろしさの余り、「あんな人は知らない」と言って主を否んだ
のです。
本当の強さというのは、自分の力で何とかしようという所からは出てきませ
ん。
神の前に自分の弱さを正直に認める時、そこに神の恵みが働き、真の意味で強
い者にされるのです。
私達のかつての教会員で、数年前に召天された人のことをよく思い出します。
彼女は、大変な難病に悩まされており、肉体的にははなはだ弱い方でしたが、
内面がとても強い人でした。
その難病も神から与えられた恵みだと捕らえ、常に平安に過ごされていたから
です。
 先程の6節のところで、弱い私達のためにキリストが死んで下さった、とあ
ります。
もし、私達が強い人であるならば、キリストは死ぬ必要がなかったかも知れま
せん。
そして、世間一般の人に「キリストは私達のために死んでくださったのだよ」
と言っても、「別に自分のためにキリストに死んでもらう必要はなかった」と
言うでしょう。
8節。

  しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さ
  ったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

先程は、「わたしたちがまだ弱かったころ」とありましたが、ここでは「まだ
罪人であった時」とあります。
これは同じことを言っています。
さらに10節を見ますと「わたしたちが敵であった時」とも言われています。
私達人間が、神から離れて、神の意志に従わないで生きている状態を罪と言っ
ています。
人間は神によって創造された、というのが聖書の基本的な考えです。
ですから、本来人間はその創造者の意志に従って生きるべき存在なのです。
しかし、人間はいつしか自分の意志、自分の欲に従って生き、神をないがしろ
にしてきました。
これが罪なのです。
そして、このことにより神との正しい関係が損なわれてしまったのです。
この損なわれた関係は、もはや人間の側から修復することはできません。
それゆえ本来人間は、神の怒りによって滅ぼされるべき存在なのです。
9節に「神の怒り」という言葉がありますが、旧約聖書にはこの「神の怒り」
という言葉が沢山出てきます。
例えば、ソドムとゴモラの町は、その邪悪の故に神の怒りに触れ、滅ぼされた
と言われています。
ソドムの町は、今は死海の底に沈んでいると言われています。
また邪悪な町に未練をもって振り返ったロトの妻は塩の柱にされたと言われて
います。
また、預言書には、いろいろ神の怒りについて言われています。
 神は正しいお方であって、正しくないことを見過ごしにはされません。
少々悪いことをしても、神には分からないとか、大目にみてくれる、というの
ではありません。
聖書の神は一面非常に厳しい、すなわち一点の間違いも見逃さないお方です。
ですから、聖書の信仰を持つ人は、神への畏れというのがあります。
人の目には分からなくても、神の目はごまかせない、という恐れです。
その点、日本人には神への畏れというものに欠けていると思います。
最近も、政界・財界の不祥事が取り沙汰されています。
「またか」と少々あきれた思いがします。
日本には神への畏れがないので、とにかく人に見つからなければ少々悪いこと
をしてもいい、という風潮があります。
ところが、聖書の信仰の伝統が生きている所においては、やはり悪いことをす
れば神はそれを決して見過ごしにはされない、という恐れがあります。
「神の怒り」というのは、神が正しいお方だ、ということからの帰結です。
 しかし、その神の怒りは、私達に向けられたのでなく、御子に向けられたの
です。
すなわち、神の怒りによってキリストが十字架にかけられたのです。
私達に下されるべき裁きを、キリストが代わりに担って下さったのです。
10節。

  もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を
  受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって
  救われるであろう。

ここでパウロは、「和解」という言葉を使っています。
これは、元々法律用語です。
これは、争っている者同志が互いに譲歩して、問題の解決に至ることです。
長い間争っていた裁判で和解が成立した、などというニュースも時々報道され
ます。
このような時、お互いホッとし、喜ぶのではないでしょうか。
このような裁判での和解の場合、お互いに譲歩し合うのです。
 ここでパウロが言っている和解というのは、だれとだれとの和解なのでしょ
うか。
またどのような譲歩をした和解なのでしょうか。
だれとだれというのは、人間と神でしょう。
和解をしたという限りには、お互い争っていたということになります。
これは先程も言いましたように、人間が創造者なる神の意志に逆らって歩んだ
というところに原因があります。
ですから、人間の側の一方的な過失なのです。
従って、譲歩をするとすれば、人間がすべきなのです。
ところが、10節を見れば、「御子の死によって神との和解を受けた」とあり
ます。
すなわち、譲歩をしたのは、人間ではなく、何ら過失のない神の側でした。
従って、これは譲歩というよりは、8節に、

  神はわたしたちに対する愛を示された

とあるように、神の側の一方的な愛です。
神と人間との和解を成り立たせるものは、神の側の一方的な愛なのです。
ヨハネの第一の手紙の著者は、ここに愛というものの本質がある、と言いま
す。
ヨハネの第一の手紙4章10節。(P.380)

  わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
  わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしにな
  った。ここに愛がある。

ヨハネの第一の手紙の著者は、「ここに愛がある」と言います。
確かにこの世の中にも「愛」と呼ばれるものがあります。
特に親は、我が子のために犠牲的な愛を示すことがあります。
また、塩狩峠の主人公のような自分の体を犠牲にして多くの乗客を助けたとい
うような愛の行為もあります。
また、コルベ神父のように、死刑に選ばれた者の身代わりになって死んだ人も
います。
このような人たちにおいても「ここに愛がある」という風に言えるようにも思
えます。
これは、7節にある「善人のために進んで死ぬ者」と言えるかもしれません。
しかし、ヨハネの第一の手紙の著者が「ここに愛がある」と言っているキリス
トの愛は、それらとは比べものにならないものであります。
それは、8節にあるように「罪人のために」死んだ愛であり、10節にあるよ
うに争っている敵のために死ぬ愛であります。
 そして、私達は、このような神の側の一方的な愛の行為によって、既に神と
の和解を得たのです。
11節。

  そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたし
  たちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

和解というのは、喜ばしい事柄なのです。
長い間裁判で争っていた者が、何かの譲歩が見つかって和解することができれ
ば、それは喜ばしい事柄でしょう。
だれも、いたずらに争いたくはありません。
今の中東問題でも、もしイスラエルとアラブとの間に譲歩があって、和解する
ことができるならば、世界中の喜びでしょう。
悲しいかな、人間の世界では、自己の主張が強いので、中々和解ということに
なりません。
しかし、神と人間との間は、キリストの大きな犠牲の代償によって、和解が成
立したのです。
これは何にもまして喜ばしいことです。
私達は、この喜ばしい和解に招かれているのです。
ただ私達は、このキリストの贖いを信じるだけで、この和解の福音に入れられ
るのです。
私達は、キリストによって神との和解が既に与えられていることを信じ、これ
を常に喜ぶことができるようになりたいと思います。

(1992年2月16日)