ローマ人への手紙7章16〜25節
「罪の問題」
聖書では、「罪」ということがよく言われます。 これは、初心者にはよく分からないこと、あるいは時には反発を感じること かも知れません。 それは、別段自分は罪を犯しているという自覚はないのに、教会では「私達 は罪人である」ということをよく言うからです。 しかし、聖書においては、やはりこの罪というのが最大の問題だ、と言って もいいと思います。 尤も、この罪は、この世の何かの法を犯したという犯罪というものではあり ません。 しかし私達人間は、神の前に罪人であるし、生まれながらに罪を負って生ま れてきているのです。 偉大な信仰者と言われている人々も、この罪の問題にしばしば悩まされまし た。 偉大な宗教改革者であるM・ルターも、この罪の問題に相当長く悩みまし た。 そして、キリスト教の信仰は、この罪の問題と密接な関連があります。 キリスト教の信仰は、罪の自覚から始まると言ってもいいと思います。 そしてそれは、真の救いへと導くものです。 ですから、己の罪の自覚がなければ、真の救いもない、と言えます。 従って、キリスト教の信仰は、罪の自覚というものが不可欠のものだと言え ます。 このローマ人への手紙を書いたパウロも、罪の問題には相当悩んだようで す。 24節で彼は、 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のから だから、わたしを救ってくれるだろうか。 と言っています。 非常に悲観的な、あるいは絶望のどん底のような発言です。 また、19節には、 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これ を行っている。 とも言っています。 また、もう少し前の15節では、 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分 の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 と言っています。 自分で自分が分からない、あるいは自分に嫌気がさしている、あるいは自己 嫌悪に陥っているといった心境です。 出口がない、といった状態のような気もします。 人は、このような時、自殺を考えたりするのでしょうか。 しかし、パウロは、自殺などということは、決して考えはしませんでした。 私達は、パウロと言えば、模範的な信仰者であって、私達に生き方の手本 を示してくれる人だ、と思っているのではないでしょうか。 しかし、当のパウロ自身は、正直な所はやはり私達と同じように、そのよう な罪の問題に悩んでいたのです。 ここでパウロが、「自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をして いる」と言っていますが、それが具体的にどういうことかは分かりません。 私達も、頭では分かっていても、その通りにすることが出来ない、あるいは それとは逆のことをしてしまう、ということがないでしょうか。 「人を憎んではいけない」「人の悪口を言ってはいけない」「人を嫉妬して はいけない」というようなことを頭では思います。 しかし、実際の生活においては、人を憎んだり、人の悪口を言ったり、人を 嫉妬したりしてしまいます。 日曜日には、礼拝に出て、み言葉に聞いて自らを反省し、神の言葉に従って 生活しよう、と決心しますが、しかしその思いとは裏腹に、次の日からはま た罪を重ねてしまいます。 そういうことの繰り返しです。 時々そういう自分が厭になったりします。 パウロは、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう」と嘆息していま すが、私達もこのようなため息をつくことがあります。 パウロは、20節で次のように言っています。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや わたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 さらに21節では、 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるとい う法則があるのを見る。 と言っています。 自分で自分が分からないことがありますが、それは私達の内に悪が入り込む からなのです。 悪とか罪(サタンと言ってもいい)が、私達の内に入り込むところにやっか いな問題があるのです。 それでは、悪とか罪が私達の内に入り込むのは、避けられないのでしょう か。 実は、これが大問題なのです。 結論から言えば、私達の力によって、この悪を防ぐのは、はなはだ困難だ、 否殆ど不可能だ、と言っていいでしょう。 それが出来るとして自ら誇っていたのが、律法主義者です。 イエスの時代の、パリサイ人や律法学者たちはそうでした。 パウロも、キリストに出会う前は、非常に厳格な律法主義者でした。 しかし、その時の経験からも、律法によっては、悪を防ぐことは出来ない、 ということを知ったのです。 それは、律法というのは、結局は、自分の力に過信することだからです。 しかしここで注意したいのは、律法そのものが悪というのではありませ ん。 パウロ自身も、律法を否定したり、律法はいらないのだ、などとは言ってい ません。 それどころか、律法は神がイスラエルの民に与えたものであり、本来神の前 における人間の正しい在り方を示したものなのです。 12節には、 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であっ て、正しく、かつ善なるものである。 と言っています。 ですから、律法そのものが無意味なもの、無価値のものでは決してありませ ん。 むしろ律法は、本来「聖なるもの」であり、私達を本当の命に導くものなの です。 詩篇の1篇や19篇は、そのようなものとして律法が讃美されています。 私達も現に、神の与えた十戒というものを非常に大切にしています。 パウロも決して律法そのものを否定しているのではありません。 7節に次のようにあります。 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそ うではない。しかし、律法によらなければ、私は罪を知らなかったであ ろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたし はむさぼりなるものを知らなかったであろう。 「むさぼるなかれ」という戒めは、十戒の第10番目の戒めです。 出エジプト記20章には、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」と あります。 このむさぼるというのは、ほしがるということですが、それ以上に強い求め を表しています。 そして家というのは、財産を指します。 そこでこの10番目のの戒めは、人の財産を強くほしがることを禁じたも の、ということになります。 パウロが、十戒のうちで、この10番目の戒めだけを挙げているのは、ある いは彼にかつてそのような人の物を強くほしがって過ちを犯した経験がある のかも知れません。 そしてもし律法がなければ、それが罪だということは分からなかった、とい うのです。 十戒の第5番目の戒めは、「父と母とを敬え」というものです。 今日は、「母の日」です。 母の愛に感謝をしながら礼拝を守りたいと思います。 この母の日の由来は、この十戒の5番目の戒めにあります。 従って、もし十戒がなければ、「母の日」も生まれなかったかも知れませ ん。 すなわち、アメリカのウェブスターという町のアンナという女性が、自分の 母が生前十戒のこの「父と母を敬え」ということに関する話をしたことに感 銘を覚え、母親の死後、記念会の席でカーネーションを飾ったことに始まっ た、と言われています。 父と母を敬う、ということも、もし十戒がなければ、知らなかったかも知れ ません。 しかし、この律法を行うことによって、悪を遠ざけることは出来ないので す。 パウロは、24節で、 だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 と言って、その次の25節で、 私達の主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。 と言っています。 すなわち、私達自身の力によっては、悪を追い出すことは出来ず、罪を避け ることが出来ませんが、イエス・キリストを信じる信仰によって、それが出来 る、というのです。 すなわち、罪の問題を解決出来るのは、私達自身の力によってではなく、イ エス・キリストによってである、ということです。 パウロはガラテヤ人への手紙2章20節で次のように言っています。 (P.295) 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうち に生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きてい るのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子 を信じる信仰によって、生きているのである。 罪の問題を解決することが出来るのは、ただひとつ、私達の罪の贖いのため に十字架にかかられたキリストを信じる信仰による以外にはありません。 私達は、このことを覚え、常にキリストを信じる信仰によって生かされる者 でありたいと思います。 (1992年5月10日)