ローマ人への手紙8章1−11節
「霊によるいのち」
前の7章の所で、パウロは罪の問題に悩まされた、ということを話しまし た。 24節を見ますと、 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のから だから、わたしを救ってくれるだろうか。 と非常に絶望的とも思える発言でした。 また19節を見ますと、 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これ を行っている。 とありました。 まさに、自分自身が分からない、自己嫌悪に陥っているといった状況でし た。 いわば、出口がないといった状況でした。 しかしこの8章においてパウロは、突然暗闇から明るい光りに出たような状 況です。 1−2節。 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められること がない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪 と死との法則からあなたを解放したからである。 ここでパウロは、キリスト者は罪に定められることがない、と言っていま す。 罪の問題に苦しみ、自己嫌悪に陥っていたというのが嘘のようです。 しかしこれは、パウロ自らの力や知恵や努力によって問題が解決したという のではありません。 イエス・キリストのいのちの御霊によって罪から解放された、と言っていま す。 「いのちの御霊」とありますが、イエス・キリストがこの世に来られたの は、私達に命を与えるためでした。 これは真の命、あるいは永遠の命と言っていいでしょう。 ヨハネによる福音書3章16節では、そのことが端的に言われています。 (p.139) 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御 子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神は本来、私達人間を創造された時、真の命のある者として創造されたので した。 創世記の創造物語ではそのことが言われています。 創世記2章7節。 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そ こで人は生きた者となった。 これは非常に素朴な話しですが、ここには、聖書の記者の人間についての非 常に深い洞察があると思います。 まず第一は、私達人間は、土のちりで造られた、ということです。 これは、非常にちっぽけな、何の値打もない存在だ、ということです。 しかしそのようなちっぽけな存在である人間に神は命の息を吹きいれられた ので、生きた者となった、というのです。 すなわち、神の息が吹き入れられたことによって、人間は真に生きる存在と なった、ということです。 これは何を意味しているのでしょうか。 息は聖書では、旧約においても新約においても、霊と関係があります。 すなわち、私達人間が本当の意味で生きることが出来るとするならば、それ は神の霊によってである、ということです。 いくら頑強な肉体を備えていても、いくら優秀な頭脳をもっていても、もし 神の霊によって生かされていなければ、その人は真の意味で生きた者ではな い、というのが聖書の人間理解です。 創世記の3章は、そのせっかく神の霊によって生かされた人間が、神の戒め にそむいて、禁断の木の実を食べてしまいました。 これは、神の命の息を拒絶した行為です。 ここに、罪が入り、人間は死すべき存在となった、というのです。 すなわち、この創世記の創造物語りで言われているのは、人間は神との関係 に生きてこそ真の命が与えられるが、その神との関係を無視して自分勝手に 生きるならば、真の命に与ることが出来ない、ということです。 パウロが先程の所で、「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪 は、これを行っている」「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」 と嘆きましたが、これはアダムが神との関係を無視して自分の力で生きよう とした所に起因しているのです。 しかし、神は自らこの破れた関係を修復するために、イエス・キリストによ って再び私達を命へと招いて下さったのです。 パウロは、キリストとの出会いを通して、このことを知らされ、みじめな状 況からの救いを体験したのでした。 6節。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 ここで肉と霊が対比されています。 これはしかし、ギリシア的な霊肉二元論といったことが言われているのでは ありません。 肉というのは、人間中心的なこと、あるいは欲望と言ってもいいでしょう。 あるいは、自己愛といってもいいでしょう。 8節に、 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 とありますが、自己愛は神から離れることになります。 アダムとエバが禁断の木の実を食べたのは、蛇の非常に魅力的な誘惑に負け たからでした。 その誘惑とは、その木の実を食べると「神のように善悪を知るようになる」 というものでした。 この場合の善悪というのは、善いことと悪いことというのではなく、ヘブル 語のこの用法は、端から端まで、すなわち、すべて、ということです。 人間は、欠けあるものであり、絶対者ではありません。 そしてすべてを知るということは許されていないのです。 しかし人間はしばしば神のようになりたい、という欲望をもちます。 しかしそれは許されていないのです。 禁断の木の実を食べれば神のようになるという誘惑に負けて、アダムとエバ はついにその実を食べてしましました。 この罪のため彼らは楽園から追放され、死すべき存在となったというので す。 パウロがここで、肉の思いは死である、と言っていますが、これはまさに創 世記の記者が訴えていることです。 創世記の11章までの所には、まだいろいろな肉の思いのことが記されてい ます。 楽園追放の後に「カインとアベルの話し」があります。 ここでは、カインは自分の兄弟であるアベルを殺す訳ですが、肉の思いであ る嫉妬心から来ています。 弟の捧げ物の方が、自分のより喜ばれたことに嫉妬し、弟を憎み、ついに殺 してしまったのです。 このような嫉妬心も肉の思いということができるでしょう。 また11章には、「バベルの塔の物語り」があります。 ここでは、人間は、天にまで届く塔を建てようと計画しますが、これは人間 の高慢の現れです。 このような高慢な心というのも、肉の思いと言うことが出来るでしょう。 このような高慢を神は裁かれ、人々が互いに言葉が通じなくなった、という 話しです。 創世記の最初の方に出てくるこのような人間の罪は、すべて人間の欲の結果 です。 そしてこれは、パウロのここで言う「肉の思い」というものです。 そしてこのような肉の思いからは、私達は本当の命に与ることはできませ ん。 「肉の思い」と対立的に言われているのが、「霊の思い」です。 「霊の思いは、いのちと平安だ」とパウロは言うのです。 霊の思いというのは、おのれの欲に従うのではなく、神との関係に生きると いうことです。 創世記の記者は、最初のエデンの園の状態を、いのちと平安の状態だと思い 描いているようです。 すなわち、そこでの人間は、神の意志に従い、真のいのちに生かされ、何の 不安もない平安な状態であった、と。 鼻からいのちの息が吹き入れられた、というのは、そのような神との正しい 関係に生きていたことを表すものです。 10節。 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに 死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 これは、新しく生きる、すなわち「新生」ということを言っています。 パウロは、キリストに出会って、古い自分に死んで、新しいいのちに生かさ れたという経験をしました。 それは、彼の生涯においても、最も大きな、また最も価値ある経験であった ようで、彼の手紙の中に時々そのことが述べられます。 例えば、ガラテヤ人への手紙2章20節(p.295)、 生きているのは、もやは、わたしではない。キリストが、わたしのうち に生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きてい るのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子 を信じる信仰によって生きているのである。 これが、パウロの新生の体験でした。 本当のいのちというのは、キリストを信じる信仰によって与えられるもの だ、というのです。 キリストは天に上げられたお方です。 ですから、私達は直接キリストに出会うということはありません。 しかし、キリストは、この地上に聖霊を残されました。 そしてこの聖霊は常に私達に働きかけているのです。 そして、この聖霊によって、私達は真の命へと与ることが出来るのです。 11節。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがた の内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせ たかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたの死ぬべ きからだをも、生かしてくださるであろう。 私達は、やがては死ぬべき存在です。 しかし、キリストの残したまいし聖霊によって、永遠の命に与る者とされた のです。 私達は、この大いなる恵みに入れられていることを感謝し、キリストに従っ て生きるものとなりたいと思います。 (1992年5月24日)