ローマ人への手紙8章12−17節

「神の相続人」



 前の所でパウロは、私達はイエス・キリストによって、霊に生かされた者
であり、いのちと平安が与えられているのだ、ということを力強く述べまし
た。
そして、今日の所でパウロは、そのような霊に生かされた者は、神の子であ
る、と言います。
14節。

  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

神の子というのは、本来イエスにのみ用いられる言葉です。
罪に汚れた私達人間は、とても「神の子」と呼ばれる資格はありません。
私達は、自分自身を振り返っても、とても「神の子」と呼ばれるにふさわし
いとは思わないでしょう。
しかし、聖書において、しばしば、私達は「神の子」だと言われています。
しかもこれは、これこれの条件を満たしたら将来「神の子」と呼ばれる、と
言っているのではありません。
今現在既に「神の子」である、と現在形で言われているのです。
これは全く信じられないことであるし、もしそうだとすると、この上ない光
栄です。
パウロは、ガラテヤ人への手紙でも次のように言っています。
ガラテヤ人への手紙3章26節。(P.296)

  あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なの
  である。

ここではパウロは、イエス・キリストを信ずる信仰によって、と言っていま
す。
また、ヨハネは次のように言っています。
ヨハネによる福音書1章12節。(P.135)

  しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は
  神の子となる力を与えたのである。

ここでも、その名(すなわちキリストの名)を信じた人々、と言われていま
す。
すなわち、パウロにしろヨハネにしろ、キリストを信じる信仰によって、私
達は神の子とされる、と言います。
本来神の子と呼ばれるべき方は、キリストのみです。
このキリストの贖いによって、罪に汚れた私達も、キリストと同じように「
神の子」と呼ばれる恵みに与ったのです。
これは、全く神の側からの一方的な恵みなのです。
 15節。

  あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子た
  る身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「
  アバ、父よ」と呼ぶのである。

ここでパウロは、キリストによって与えられる霊と対立するものとして「奴
隷の霊」ということを言っています。
そしてこれは、「恐れをいだかせる」という説明がついています。
これは、直接には律法を言っています。
律法というのは、元々は、神の恵みに応えて喜びをもってなす務めだったの
です。
しかしそれは、いつしか、この律法を守らなければ恐ろしい罰が与えられる
、というように、喜んでなすというよりは、恐ろしさからなす、というよう
になり、また律法学者たちも、そう教えるようになりました。
パリサイ人や律法学者たちは、確かに、人々の模範になる行いもしていたよ
うですが、これは表面的なことであって、裏を返せば、心から喜んで行ってい
たというよりは、恐怖心から行っていたのです。
 宗教によっては、人間の恐怖心に訴えて、人間を束縛するものもありま
す。
最近、新興宗教が数多く起こっていますし、その中にはキリスト教だと名乗
っているのもあって、私達にとってはとても迷惑な話しです。
このような信仰宗教の多くは、人間の恐怖心をうまく利用して、その人を束
縛するのです。
最近マスコミを賑わしている「愛の家族」というのも究極的にそうでしょう
し、また私は時々、統一協会に入った人の家族から相談を受けます。
この統一協会も、人間の恐怖心というものを巧みに利用している、と思いま
す。
先日も息子が統一協会に入ったという両親が相談に来られました。
その息子は、ある列記とした所に務めているのですが、この8月に韓国ソウ
ルで行われる合同結婚式に参加すると両親に通知してきた、というのです。
そこで、両親は突然のことにびっくりして、どうしたらいいだろうか、とい
う相談でした。
最近もかつて新体操の選手であった女性がこの合同結婚式に参加するという
ので、マスコミを騒がせていますが、統一協会においては、この合同結婚式
が最も重要なこととされています。
これは、教祖の文鮮明なる男が各地から送られて来る写真によって、適当に
組み合わせを作っているだけなのです。
この8月に行われる合同結婚式は、かなり大掛かりなもので、1万組くらい
になるそうです。
どうしてこんな合同結婚式に純粋で真面目な青年が大勢参加するのか不思議
ですが、やはりこの宗教自体、人間の恐怖心というものを巧みに利用してい
るのです。
それは、霊界というものを信じさせ、もし教祖の教えに逆らうなら、霊界に
おいて恐ろしい呪いが待っている、というのです。
他の最近の信仰宗教においても、似たりよったりの、このような人間の恐怖
心に付け込むようなものが多くあります。
 パウロは、ここで、そのような恐れを抱かせるものを「奴隷の霊」と言っ
ています。
奴隷というのは、自由がなく、束縛されたものです。
そうではなく、私達は、キリストによって自由を与えられているのです。
ガラテヤ人への手紙5章1節。(P.298)

  自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったので
  ある。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならな
  い。

私達は、神のみによって束縛されているのであって、それ以外のものからは
すべて解放されているのです。
この世の権力からも、物質からも、肉の欲からも、あるいは霊界からも解放
されているのです。
唯一束縛されている神は、しかし、私達に恐怖を与えるお方ではなく、本当
に信頼するに足るお方です。
子供は、特に幼児は、親に絶対的な信頼をしています。
信頼しているからこそ、甘えたり、わがままを言ったり、ということをしま
す。
ここで「アバ、父よ」ということが言われています。
このアバというのは、幼児語です。
いわば、「おとうちゃん」というような言葉です。
幼い子供が、父親に信頼して、また甘えて言う言葉です。
イエスは、神にこう呼びかけました。
これは当時の社会においては、異例のことでした。
当時のパリサイ人や律法学者たちは、決して神にこんな呼びかけはしません
でした。
ここに、イエスが、全く神に信頼していることが表されています。
そして、パウロは、私達も神にこう呼びかけることができるのだ、と言って
いるのです。
神はどこか遠くにいます恐るべき存在というのでなく、私達のごく身近にお
られるお方なのです。
幼い子供が親に全くの信頼をしているように、私達にとって神は全く信頼に
足るお方なのです。
 17節。

  もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄
  光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続
  人なのである。

ここでパウロは、「もし子であれば、相続人でもある」と言っていますが、
これは普通の社会においては、当たり前のことです。
本当の子供であれば、親の遺産を相続する権利が保証されています。
もし私達が神の子とされたのなら、また神の相続人ということになります。
 それでは、一体私達はどのような遺産を相続するのでしょうか。
「キリストと栄光を共にする」と言われています。
これは、真の救い、永遠の命、ということができるでしょう。
しかし、この栄光はまだ完全には受けていないのです。
栄光に与るという保証と約束を受けているだけです。
ちょうどアブラハムが、神によってカナンの地が与えられると約束されてい
たように。
ヘブル人への手紙の著者は、このアブラハムの事態を次のように言い表して
います。

  まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、
  そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわし
  た。

アブラハムは、約束のものは受けていなかったが、その希望を疑わず、喜び
の日々の生活を送ったのです。
確実な約束というのは、実際にそのものをまだ得ていなくても嬉しいもので
す。
当たるか当たらないか分からない宝くじの券をもっていても、本当の喜びに
はなりません。
それが喜びとなるのは、実際に当たった時です。
しかし、何日後に満期になる通帳をもっているならば、まだそのものをもら
っていなくても、喜びではないでしょうか。
なぜなら、それは、満期日が来るとその金額が入って来るのは確実だからで
す。
アブラハムは、神の約束というものを、そのような確実なものと確信してい
たのです。
ですから、現在それを実際に手に入れていなくても、喜びだったのです。
パウロもここで、「キリストと栄光を共にする」というのは、神の約束とし
て確実なものと確信しているのです。
もし実際の子であるなら、親の遺産を相続するのは、これまた確実でしょ
う。
しかし、私達は、その途上を歩いているのです。
そこには「苦難」があります。
パウロはここで「苦難をも共にしている」と言っています。
キリストの栄光に与るには、キリストと共に苦難に与ることも必要なので
す。
12節に

  わたしたちは、果たすべき責任を負っている者である

とあります。
キリストの栄光に共に与るためには、やはり私達には果たすべき責任がある
と思います。
その責任は、それぞれにそれぞれのものが与えられているでしょう。
そしてそれは、やはりみ言葉に聴くことにおいて、与えられるでしょう。
ですから、私達は、神の相続人として、神が何を私達に語りかけているか
を、神が何を私達に求めておられるのか、神が何を私達に欲しておられるの
か、ということを、み言葉を通して絶えず聴いていかなければならないと思
います。
それが、相続人としての務めだと思います。
私達は、神の子として、神の相続人とされていることを確信し、それを喜び
とすると共に、私達に与えられている責任をも果たしていくことができるよ
うになりたいと思います。

(1992年6月28日)