ローマ人への手紙8章18−25節
「見えないことを望む」
24節。 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に 見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、 なお望む人があろうか。 聖書には、(望み)希望ということがよく言われています。 旧約聖書では、アブラハムの生涯は、希望を持ち続けた生涯でした。 もう30年も前になりますが、ドイツのモルトマンという人が『希望の神学 』という本を書いて、話題になりましたが、彼の主張は、聖書の信仰の最も 中心は、希望ということである、ということでした。 キリスト教は、希望の宗教ということができるかも知れません。 パウロは、コリント人への第一の手紙13章の所で、 いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛である。 と言っています。 そして、今日の箇所でも「望み」ということが主張されています。 この箇所に、「望み、望む」という言葉が9回も出てきます。 さて、望みというのは、明るい状況の時に持つものではありません。 そうではなく、どちらかと言うと、暗い状況の時です。 パウロは、18節において、 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されよう とする栄光に比べると、言うに足りない。 と言っています。 ここでパウロは、「今の苦しみ」と「将来の栄光」とを対比し、しかもそ れは比べものにならない、と言っています。 苦しみと栄光を比べれば、遥かに栄光の方が大きいのに、私達はややもする と、その小さい方の苦しみしか見ることが出来ません。 また、22節では、 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続 けていることを、わたしたちは知っている。 と言っています。 ここで言われている「苦しみ」が具体的にどういうものであったかは分かり ません。 パウロの個人的な苦しみであったのでしょうか。 あるいは、この手紙はローマの教会にあてられたものですが、そのローマの 教会の苦しみを言っているのでしょうか。 この時代、教会は、ローマ帝国の支配の中にあって、しばしば迫害を経験し ています。 あるいは、当時の世界全体の苦しみなのでしょうか。 恐らく、それらすべてが含まれていると思われます。 22節では、「被造物全体」と言われており、人間だけではなく、自然界す べてが、うめき苦しんでいる、と言われています。 これは特に最近の自然破壊を思わせます。 現在の地球の状況は、正に、自然界全体がうめいている、という状態ではな いでしょうか。 これはしかし、人間の異常な自然開発や、有害な物質を海や大気に放出した 結果です。 また、食品公害などによって、人間の命を縮めているのではないでしょう か。 また、この苦しみには、パウロ自身の苦しみも意味されていると思われま す。 彼は、生涯に3度伝道旅行をしていますが、その旅路で数々の苦しみにあっ ています。 ある時は、町の権力者に捕らえられて、「むち打ちの刑」に処せられたり、 獄に入れられたりしています。 そしてピリピ人への手紙などは、その獄において書かれたものです。 また、エペソで伝道した時、町中の人々がパウロの教えに反対して騒ぎ出 し、町中が大混乱になり、危うく殺されかけました。 また、ある時は、夜寝ることも出来なかったり、また食糧がなく、飢餓に陥 ったこともあります。 しかし、彼はいかなる時にも、望みを捨てませんでした。 この世的には、もう絶望しかない、と思われる時でも、なお望みを持ってい ました。 望みに生きるということが信仰者の特徴かも知れません。 18節。 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されよう とする栄光に比べると、言うに足りない。 ここでパウロは、現在の苦しみと、将来の栄光を比べています。 そして、現在の苦しみは、将来与えられる栄光に比べると、比べものになら ない、と言っています。 「言うに足りない」とあります。 これを新共同訳聖書では「取るに足りない」と訳されています。 私達は、この世の生活において、いろいろな苦しみを経験します。 そして、ある時は、もう全く望みはない、と思うような時もあります。 そのような時、ある人は生きる希望を失ったりします。 しかし、それは、目の前にある現実しか見ないからです。 私達、現実に当面していることしか中々見ることが出来ないものです。 そしてそこに、葛藤があり、苦しみがあります。 しかしパウロは、そのような現実の苦しみのただ中で、将来に与えられる栄 光というものを見ることが出来た人です。 そしてそのことによって、常に希望を持ち続けることができました。 そして、その将来に与えられる栄光を見るのは、私達の目や頭ではなく、信 仰以外にありません。 そこで、信仰と希望は切っても切り離せません。 パウロは、どんな苦しい状況にあっても、信仰の目をもって、将来与えられ る栄光というものを見ることができたのでした。 ですから、どのような時にも落胆しませんでした。 コリント人への第二の手紙4章16−18節(P.282)。 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅び ても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらく の軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたち に得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えな いものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に つづくのである。 ここでパウロは、当面している苦しみは、「軽い患難」と言っており、将来 与えられるものは「永遠の重い栄光」と言っています。 私達も、現実をこのように捉えることが出来るとしたら、どれだけ悩みから 解放されることでしょうか。 しかし私達は、しばしば逆に、重い栄光を忘れ、軽い患難ばかりに目を奪わ れます。 私達は、将来与えられる栄光を確信するか、しないかで、私達の人生は大 きく違ってくるでしょう。 そして、この将来与えられる栄光がいかに大きいものであるか、ということ は、私達にはそれほど分かりません。 私達のそれを見る目が乏しいからです。 しかし、目に見えないものを望むのが、真の望みでしょう。 24節。 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし目に見 える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、な お望む人があろうか。 私達の心を捕らえ、欲を満たすのは、「見えるもの」でしょう。 これの最も代表的なのは、物質です。 しかし、どんな立派なもの、どんな豪華な物でも、それは永遠のものではあ りません。 やがては朽ち果ててしまいます。 それゆえ、一時的です。 仏教的に言えば、諸行無常です。 そしてここで「見えないもの」と言われているのは、神であり、神に属する ものです。 霊的なものです。 神は、歴史の始まる前より存在し、また歴史の終末の後までも永遠に存在し ます。 キリストは、ヨハネの黙示録において、アルファであり、オメガである、と 言われています。 私達は、いくら健康であっても、やがては体は衰え、死んで朽ち果ててしま います。 しかし、永遠でいます神は、この朽ち果ててしまう私達をも永遠へと引き入 れて下さいます。 すなわち、復活によって、新しい体と新しい霊が与えられ、永遠の命が与え られるのです。 25節。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、そ れを待ち望むのである。 もし、私達が見えない事を望むことが出来るなら、わたしたちに忍耐が与え られます。 そして、その忍耐によって、さらに希望が与えられます。 パウロは、ローマ人への手紙5章3−5節で次のように言っています。 (P.238)。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み 出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っている からである。そして希望は失望に終わることはない。 私達は、見えないものを望む信仰を持ち、この世の生を希望を持って歩みた い。 私達は、この世の苦しみに倍する、やがて与えられる栄光を待ち望むもので ありたい。 この栄光は見えないけれども、聖書の信仰によるとこれは確実に来るので す。 22節に「産みの苦しみ」ということが言われています。 妊婦に産みの苦しみがやってきます。 そしてこれが産みの苦しみだけだったら、その苦しみに耐えることが出来な いでしょう。 しかし、妊婦は、その苦しみの後に、かわいい我が子が与えられると信じて 疑わないから、その苦しみを耐えることが出来る訳です。 やがて我が子が与えられるということは、確実なことです。 それと同じように、私達にも将来栄光が与えられるのです。 そしてそれは、聖書の信仰によれば、確実なことなのです。 私達に与えられる栄光とは、私達が罪の汚れから清められた、神の子とされ ることです。この栄光を与えられていることを確信し、今のこの時に苦しみ を乗り越えていきたいと思います。 (1992年7月19日)