ローマ人への手紙8章26−30節

「万事を益とされる神」



 26節。

  御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わ
  たしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあ
  らわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さ
  るからである。

パウロは、前の所の22節の所で、「被造物全体」が共にうめき、共に産み
の苦しみを続けている、と言いました。
まことに、私達一人ひとりだけでなく、この世界全体が苦しみを続けている
、というのです。
それだけではありません。
ここでは、「御霊みずから切なるうめきともって」とあり、神様もうめいて
いる、というのです。
私達は、超越者であり、全能者である神がうめいたり苦しんだりするなどと
いうことがあるのか、と思うかも知れません。
しかし、聖書の神は、苦しむのです。
北森嘉三という神学者が、もう45年も前に『神の痛みの神学』という本を
書いて話題になりました。
北森氏によりますと、まさに聖書の神は、私達のために痛み苦しむ、という
のです。
そしてそれは、26節にありますように、うめき苦しむ弱い私達を助けるた
めなのです。
神は、私達のうめく苦しむ声を必ず聞き給うのです。
モーセがシナイ山で、神に出会った時、神は

  わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い
  使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知って
  いる。

と言っています。
そして、神はただ彼らの苦しむ叫びを聞いただけでなく、彼らを助けるため
にモーセをエジプトに遣わしたのです。
聖書において神はしばしば、「生ける神」と告白されています。
神は、生ける者であるがゆえに、弱い私達を助けて下さるのです。
「助けて下さる」というのは又、「執り成して下さる」とも言われていま
す。
この執り成しということにおいても、モーセのことを思い起こします。
モーセは、エジプトに行き、パロと交渉して、最後にイスラエルの民をエジ
プトから救い出しました。
そして、シナイ山で、イスラエルの民は、神から十戒を授かりました。
しかしその後、モーセがいなくなった時、民はその不安から、金の子牛を造
って神に罪を犯しました。
その時モーセは、イスラエルの民のために執り成しをしたのです。
これは、出エジプト記の32章に記されていますが、モーセは、神に祈り、
彼らの罪をお許し下さい、と祈りました。
そして、それがかなわなければ、自分の天に記されている名を消し去って下
さい、と祈っているのです。
これはまさに、自分の命と引き換えに、罪を犯したイスラエルの民を赦して
下さい、ということです。
執り成しというのには、このように命がけのことです。
今日のテキストにおいても、御霊が私達のために執り成して下さる、という
のは、そのような非常に重い事態なのです。
そしてこれは、主イエスの十字架において、私達に実現されているのです。
28節。

  神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと
  共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知
  っている。

パウロはここで、自分の色々な体験から、神は万事を益とされる、というこ
とを確信しています。
私達にとっても、この「万事を益とされる神」への信仰というものが大切で
はないでしょうか。
「万事を益とされる」と言っても、毎日がいいことづくめという訳ではあり
ません。
否、私達には、つらいことや試練も多くあります。
しかし、長い目で見れば、それらもすべて益であった、と思われるのです。
パウロ自身がそのような体験を多くしています。
彼は、生涯に大きな伝道旅行を3度していますが、それは苦難の連続でした
が、また喜びの連続でもありました。
第2伝道旅行の時に、初めてアジアからヨーロッパに渡り、ピリピやテサロ
ニケでは教会が出来ました。
しかし、その勢いで次に伝道したアテネでは、彼の説教を人々は受け入れず
、むしろあざ笑われて、伝道に失敗しました。
そこで、意気消沈して次の町、コリントに行ったのですが、ここではパウロ
の予想に反して、多くの人がキリストの福音を受け入れ、教会が出来たので
した。
伝道に失敗したことも、万事が相働きて益となったのです。
また、彼には肉体のとげというのが与えられていました。
これは、何かということははっきりとは分かりませんが、何かの病気であっ
たろう、と言われています。
そしてこれは、日常の活動にも支障をきたすことがあり、彼はそれを取りの
けて下さい、と3度神に祈った、と言われています。
しかしその時の神の答えは、

  わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに
  完全にあらわれる。

というものでした。
 このように、神は万事を益とされるのですが、それはいわば神の一人芝居
といったものではありません。
「神を愛する者たちと共に働いて」とあります。
すなわち、それには、神を愛する愛というものが必要なのです。
旧約聖書の民は、このことを一番大切なこととしてきました。
申命記6章4節。(P.255)

  イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心を
  つくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければ
  ならない。

これは、一番最初の言葉の「聞け」というのがヘブル語ではシェマーと言う
ので、シェマーと言われ、ユダヤ人には非常に大切にされたものです。
彼らにとって、最も大切なのは、心を尽くして主を愛する、ということで
す。
神は、私達の神を愛する心と共に働いて、万事を益とされる、というので
す。
この愛は、信仰と置き換えてもいいと思います。
すなわち、神は私達の神を信じる信仰と共に働いて、すべてを益とされる、
というのです。
言い換えれば、信仰の目をもって見るならば、すべては素晴らしいというこ
とではないでしょうか。
伝道の書には、

  神のなされることは皆その時にかなって美しい。

と言われていますが、これはこのパウロの「万事を益とされる」というのと
同じ信仰だと思います。
そして神が私達に対して万事を益とされるのは、私達が神から愛されている
からに他なりません。
神が人間を創造した時、神はそれを見て「良し」とされたとあります。
そして大いに祝福されたとあります。
すなわち、神は創造の冠として造られた私達人間をこよなく愛し、祝福し給
うのです。
 29節。

  神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たもの
  としようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄
  弟の中で長子とならせるためであった。

ここでパウロは、私達はキリストのかたちに似たものとされる、ということ
を言っています。
「キリストのかたちに似たもの」とは一体何でしょうか。
創世記1章の人間の創造の所においても、人間は「神の形に創造された」と
言われています。
昔から、この「神の形」とは一体何か、ということが論じられてきましたし
、未だに決着がついてはいません。
神の形というのをラテン語でImago Deiと言うので、これをイマゴ
・デイ論争などと言います。
これは文字通り形であって、人間は神のような容姿をしているのだ、という
意見もあります。
また、それは知恵のことだ、という意見もあります。
しかし、根本的には、人間は神との関係にあるものとして造られた、という
のがこの神の形の意味ではないかと思われます。
従って、神との関係において、神の戒めに従って生きる、というのが本来の
人間の姿だ、というのです。
それでは、ここの「御子のかたちに似たもの」というのは、一体何でしょう
か。
キリストの第一の特徴は、神に忠実に従った、ということです。
従って、「御子のかたちに似たもの」というのは、神への忠実な信仰という
ことでしょう。
キリストの第二の特徴は、神に愛された存在だ、ということです。
従って、「御子のかたちに似たもの」としての私達も、神にこよなく愛され
た存在だ、ということです。
私達は、「神の子」とされたのです。
ヨハネの第一の手紙3章1節には、(P.378)

  わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜
  ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なので
  ある。

とあります。
何のいさおしもない私達が、もし神の子とされたのなら、それは神の愛以外
の何物でもありません。
 キリストの第3の特徴は、栄光を与えられたということです。
そして、私達も「御子の形に似たもの」とされるのなら、キリストの栄光に
与るということでしょう。
今日のテキストの最後にも「更に栄光を与えて下さったのである」と言われ
ています。
 このように、神は私達をこよなく愛される故に、「万事を益」として下さ
るのです。
私達は、ややもすると、この大いなる恵みに気がづかずに、ささいなことに
不満を抱いたり、一喜一憂したり、あくせくしたり、思い煩ったりしていま
すが、この「万事を益として下さる神」への信仰を堅くもって、喜びに満た
された歩みが出来るように祈りたい。

(1992年8月9日)