ローマ人への手紙9章6−13節

「神の選びの計画」



 私達は、昨年春よりローマ人への手紙を学んでいますが、これは手紙とい
うよりは、パウロの神学論文のようなものです。
既に8章までを学びましたが、1−8章では、私達の救いということが論じ
られていました。
すなわち、私達は、行いによって救われるのではなく、キリストを信じる信
仰によって救われる、という主張でした。
そして9−11章では、イスラエル人の問題が扱われています。
そして12章以下では、キリスト者の生活について、すなわち倫理の問題が
論じられています。
 さて、今日のテキストは、ローマ人への手紙の第二部のイスラエル人の問
題を扱う冒頭の部分です。
パウロ自身もイスラエル人に属した訳ですから、この問題はパウロにとって
も深刻な問題でした。
そしてパウロは、これを論じるに当たって、まず1節のところで、

  わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。

という言葉で始めています。
パウロが手紙を通して私達に語りかけるのは、真実であって、偽りではな
い、ということです。
ですから、私達は、このパウロの手紙には、絶対的な信頼を置く価値があり
ます。
 そしてパウロは、3節で

  実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろ
  われて、キリストから離されてもいとわない。

と言っています。
この肉による同族というのは、イスラエル人のことです。
この当時はユダヤ人と言われていました。
パウロはここで、自分の同胞であるユダヤ人の救いのことを一生懸命願って
いるのです。
そのためなら、「自分の身が呪われてもいい」とまで言っています。
私達は、パウロと言えば、異邦人伝道を熱心になし、ユダヤ人とはしばしば
衝突したので、ユダヤ人に対しては余りいい感情をもっていなかったのでは
ないか、と思うかも知れません。
しかしそれは、誤った理解です。
むしろ逆です。
彼ほどユダヤ人のことを思い、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人のことを心配した
人はいないでしょう。
パウロは、自分自身がユダヤ人であり、ユダヤ人が滅ぼされるということ
は、自分が滅ぼされるというふうに理解していたのです。
従って、2節にあるように、ユダヤ人がイエスの福音を受け入れないこと
を、とても憂いたのです。

  すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みが
  ある。

彼は、ユダヤ人の救いということを、心から願っていたのです。
イエスもそうでした。
「イエスを十字架にかけよ」と叫んで、実質的に彼を最終的に十字架にかけ
たのは、ユダヤ人だ、ということで、キリスト教の歴史においては、しばし
ばユダヤ人が憎まれ、反ユダヤ主義ということが起こり、しばしば非常に残
酷な仕打ちをユダヤ人に対してしてきました。
日本には、ユダヤ人というのは、殆どと言っていい程いませんので、ユダヤ
人問題の深刻さは分かりませんが、ヨーロッパやアメリカでは、非常に大き
な問題なのです。
先のドイツにおいては、ヒットラーが反ユダヤ主義の急先鋒であって、六百
万人のユダヤ人を虐殺したことは記憶に新しいことです。
私達は、先日のイスラエル旅行で、本当はエルサレムにあるユダヤ人虐殺記
念館も見る予定でしたが、その日大雪が降って、ホテルに缶詰になったので
残念ながら見ることができませんでした。
ヒットラーだけでなく、歴史においては、同じようなユダヤ人虐殺は何度と
なく繰り返されてきました。
ユダヤ人を敵視するのは、聖書を誤って理解した結果に過ぎません。
イエスやパウロは、決してユダヤ人を敵視していたのではありません。
むしろ、自分の同胞としてこよなく愛し、彼らが真に救われることを最も望
んだのです。
 どんな人でも、同じ民族の人を憎んだり敵視したりということはありませ
ん。
内村鑑三は、天皇に対する不敬事件を起こし、非国民と言われました。
そして第一高等学校を追われたのでした。
しかし彼は、祖国日本を決して大事に思っていなかった訳ではありません。
否むしろ逆に、彼は日本を本当に愛していたのです。
彼は真の意味で愛国者であった、と言えます。
彼のモッーは二つのJということでした。
これは、JesusとJapan、すなわちイエスと日本ということで、彼の最も大事
にしたのは、イエス・キリストと祖国日本ということでした。
彼は日夜、祖国日本が救われるようにと祈りました。
 自分の民族や、祖国を愛するというのは、自分の民族の優秀さを誇ると
か、他の民族を侮るということとは違います。
これは民族主義であって、決して本当の愛国心ではありません。
内村鑑三は、真の意味での愛国者であったと思います。
日露戦争の時、多くの自称愛国者は、この戦争を積極的に推し進めました。
しかし、内村鑑三は、これに反対し、「非戦論」を唱えましたが、戦争する
ことが本当の意味で決して日本のためにはならない、という信念からでし
た。
 さて、自分の国を愛するとか、自分の民族を愛するというのは、非常に大
切なことですが、へたをすれば、非常に利己的な民族主義になってしまいま
す。
現在、旧ユーゴスラビアでは、民族と民族の醜い戦いが行われていますが、
これはとりもなおさず、非常に利己的な民族主義からではないでしょうか。
私達は、日々の新聞を見て、毎日のように多くの犠牲者が出ているこの争い
が何とかして解決しないかと思いますが、現実は中々うまくいかないようで
す。
そして、このような民族と民族との醜い争いは、何も旧ユーゴスラビアだけ
でなく、世界の至る所で行われています。
このような現実を見る時、私達人間の罪というものを思わしめられます。
我国もかつて、日本民族は優秀なのだとして、従軍慰安婦などに見られるよ
うに、朝鮮人や中国人をしえたげて来た歴史があります。
 さて、イエスやパウロの時代のユダヤ人も、自分達は神に選ばれた特別に
優秀な民族なのだ、という誇りがありました。
そしてそのような誤った選民主義のために、自分達の優越感に陥ったり、他
を見下げたりということが行われていました。
これに対してパウロは、今日の6−7節で次のように言っています。

  しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラ
  エルから出た者が全部イスラエルなのではなく、また、アブラハムの子
  孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえっ
  て「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。

当時のユダヤ人は、自分達はアブラハムの子孫であるという優越的な意識を
もっていました。
しかしパウロは、アブラハムの子孫だからといって、すなわちユダヤ人だと
いうことでもって、神の救いに入れられる訳ではない、と言っています。
8節。

  すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子
  孫として認められるのである。

肉の子というのは、もって生まれた状態を言います。
すなわち、私達だったら、日本人であるということであるでしょうし、ま
た、身分とか、家柄とか、男女の性などでしょう。
しかし神は、このようなことで私達を別け隔てをしないのです。
私達に重要なのは、そのような肉的なものではなく、神の約束であり、それ
を信じる信仰なのです。
パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28−29節で、次のように言っていま
す。(P.297)

  もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女も
  ない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
  もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であ
  り、約束による相続人なのである。

ユダヤ人とかギリシア人というのは、言うまでもなく、民族です。
どこの国の人であれ、どの民族であれ、私達人間は神からみれば皆同じで
す。
優劣というのはありません。
奴隷とか自由人というのは、身分や家柄のことでしょう。
身分や家柄で人はしばしば等級づけをします。
しかし福沢諭吉が言ったように、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を
作らず」です。
「男も女もない」というのは、男も女も等しく何の差別もないということで
すが、当時の家父長的な時代にあって、これは革命的な言葉であったでしょ
う。
そのような肉的なことによるのでなく、パウロは「約束の相続人」というこ
とを言っています。
そしてパウロは、今日のテキストにおいて、それはイサクやヤコブがそうで
ある、と言います。
11節。

  まだ子供らが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
  わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕える
  であろう」と、彼女に仰せられたのである。

ここでは、私達は生まれる前から神の選びの計画に入れられている、という
ことが言われています。
パウロ自身ガラテヤ人への手紙1章15節において、

  ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわた
  しをお召しになったかた

と言っており、パウロ自身生まれる前に神から選ばれていた、ということを
告白しています。
私達も、キリスト者となり、救いに入れられているのは、私達自身にその根
拠があるのではなく、キリストの哀れみによって、神の選びの計画に入れら
れていることを覚え、感謝をもって日々を送りたいと思います。

(1992年9月6日)