ローマ人への手紙9章14−24節

「神のあわれみ」



 聖書においては、選びの信仰というのがあります。
神は神の意志を伝えるためにある特定の人を選ばれた、というのです。
旧約聖書の預言者たちもそうですし、イスラエルの民自体がそうです。
またイエスも弟子たちを選ばれました。
私達キリスト者も、神によって選ばれた者である、ということができます。
 しかし、このような人たちは、どのような理由から、あるいはどのような基準で
選ばれたのでしょうか。
その理由というのは、私達にははっきりは分かりません。
なぜ私達がキリスト者に選ばれたのかという理由は、私達の側にはありません。
神の側にはあるのでしょうが、それは私達にははっきりは分からないのです。
少なくとも、私達が選ばれるにふさわしい何かを備えていたとか、何か素晴らしい
行いをしたから、というのではありません。
これは、神の自由に属することであって、私達の考えや判断を神に押し付ける訳に
はいきません。
15節。

  神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、い
  つくしもうとする者を、いつくしむ」。

これは大変わがままな、また非常に勝手な考えのように思えるかも知れません。
しかしここでは、神の自由ということが言われています。
すなわち、選びというのは、神の自由の権能に属することであって、私達人間の側
には何の根拠もないのです。
これは時々、運命とか宿命といったものと誤解されます。
20節に、

  「なぜ、わたしをこのように造ったのか」

とありますが、このような考えは、自分の人生を運命的に捉えているのです。
聖書の選びの信仰は、このようなものとは違います。
運命と言うと、偶然であり、宿命であって、自分の事態というものを、ただあきら
めるしかありません。
選びというのは、そこに創造者なる神の意志と愛が働いているのです。
宗教改革者のカルヴァンは、ここから、「二重予定説」というのを唱えました。
すなわち、人間は生まれながらに救いに定められている人と、滅びに定められてい
る人がいる、ということです。
しかしこれは、へたをすれば、一種の運命論になってしまいます。
パウロは、この箇所でそんな単純なことを言っているのではありません。
確かに神の選びの自由ということは言っています。
しかし、どの人が救いに定められているとか、どの人が滅びに定められている、と
いうのではありません。
神の選びというのは、そんな機械的なものではありません。
カルヴァン主義の教会で、この「二重予定説」の影響で、かなり宿命論的になる風
潮もありました。
どうせ滅びに定められているのだから、と言って、自暴自棄になったり、無気力に
なったりするということもありました。
また、権威のある者が、人を救いに定められているとか、滅びに定められていると
判断するということもありました。
これは非常に間違ったことです。
私達の教会は、伝統から言うと、カルヴァンの流れを汲むものですが、この「二重
予定説」だけは、受け入れがたいものです。
そもそも、神の予定などというのは、私達には分かりません。
それを分かるかのように言うのは、神の権限、神の自由を侵すことになります。
 今韓国のキリスト教の一派で、この10月に世界の終わりが来る、と信じて熱狂
的になっているグループがある、ということです。
世紀末には、このような運動がよく起こります。
紀元千年になる頃もヨーロッパにおいて、もうすぐ世の終わりが来ると言って、こ
の世のことを何もせず、無秩序に陥ったことがあります。
それは恐らく、ヨハネの黙示録のどこかの記事あたりから、そういうことを唱えた
のだと思いますが、それはでたらめでしょう。
世の終わりが来る、ということは、聖書に言われていますが、それがいつかは神が
決めることであって、たとえどんな霊能者であっても、人間が決めるのではありま
せん。
人間には、それは分からないのです。
それは人間の考えや価値観と神の考えとは違うからです。
 選びということに関しても、私達人間の価値観と神のとは全く異なります。
イスラエルも神に選ばれた民と言われています。
しかし、神は何故イスラエルを選ばれたのでしょうか。
イスラエルが非常に優秀であったからでしょうか。
あるいは非常に強い国だったからでしょうか。
そうではないのです。
申命記7章6−8節には、次のようにあります。(P.256)

  あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのす
  べての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがた
  を愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かっ
  たからではない。あなたがたはよろずの民のうち、最も数の少ないものであった
  。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろう
  として、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプ
  トの王パロの手から、あがない出されたのである。

ここでは、イスラエルは、神の民として選ばれたが、それは決してイスラエルの側
に何らかの理由があったからではない、と言われています。
何の理由もないのに、ただ主がイスラエルを愛したからだ、と言われています。
人間的な価値観からすると、むしろイスラエルは選びにはふさわしくなかったので
す。
ここでイスラエルは最も数の少ない民であった、とあります。
古代社会においては、人口の大小がその国の国力を表しました。
ですから、人口の最も少ない民というのは、最も弱い民ということになります。
イスラエルの民は、本来そのように弱い取るに足りない民であった、というので
す。
 また、イエスが弟子たちを選んだのも、どのような考えで選んだのかは、私達に
ははっきりとは分かりません。
少なくとも、私達が自分の弟子なり後継者なりを選ぶ基準とは随分違います。
筆頭弟子であったペテロは、ガリラヤの一介の漁師でした。
この世的に見て、それほど優秀な人ではありませんでした。
しばしばイエスの足手まといにもなりました。
ペテロの側にはイエスの弟子にふさわしい何物もなかったにもかかわらず、しかし
イエスは、そのような者をあえて選ばれたのです。
また、パウロは、コリントの教会のメンバーについても同じようなことを言ってい
ます。
コリント人への第一の手紙1章26−28節。(P.257)

  兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には
  、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多
  くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者
  を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無
  力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち
  、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
 
ここでも人間社会一般の価値観とはかなり違う者が、キリスト者に選ばれた、と言
われています。
パウロは、今日の所で、神が私達を選んだのは、ただ神のあわれみによる、と言っ
ています。
神の選びに与るというのは、私達の側に理由なり資格なりがあるから、というので
はなく、ただ神のあわれみによるのです。
16節。

  ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによる
  のである。

私達も、キリスト者になったのは、私達に何らかの理由があるのではなく、ただ神
のあわれみによったのです。
本来は、私達人間は、その罪の故に、滅びに定められていた者です。
しかし、どういう理由かは分かりませんが、神のあわれみの対象にされたのです。
22−23節に次のようにあります。

  もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、
  滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば
  、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご
  自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。

ここに、「滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたと
すれば」とありますが、私達の事態はまさにそうなのです。
もし、神の寛容というのがなかったならば、私達はとっくに滅ぼされていたでしょ
う。
イエスは、ルカによる福音書13章の所で、次のような譬話をされました。
ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実をさがしに行った
が、見つかりませんでした。
そこで園丁に、「いちじくの木を切り倒してしまえ」と言いました。
その時、園丁は、主人に、「今年もそのままにして置いて下さい。私がその周りを
掘って肥料をやって見ますから」と言って、切り倒すのをやめにしてもらった、と
いうことです。
実をつけない木は、切り倒してしまう方がいい、というのが、普通の考えです。
しかしここのぶどう園の園丁は非常に辛抱つよい方です。
私達も余り実を結ばない木かも知れません。
ここの園丁のようにキリストの執り成しがなければ、滅ぼされているかも知れませ
ん。
ここには、神の寛容ということが言われています。
また、神のあわれみ、ということが言われています。
この寛容に比べれば、私達は非常に気が短いのではないでしょうか。
また、あまりあわれみの気持ちをもたないのではないでしょうか。
24節。

  神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけ
  ではなく、異邦人の中からも召されたのである。

私達は、神のよってあわれみの器として召されたというのです。
このことを私達は感謝して、受け入れることが大切です。
私達は、神のあわれみに入れられているということを常に思い、感謝をもって日々
の歩みをなしたいと思います。

(1992年9月20日)