ローマ人への手紙10章1−13節

「信じて告白す」



 1節。

  兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼
  らが救われることである。

 ここで「彼ら」と言われているのは、パウロの同胞であるユダヤ人のこと
です。
パウロは、同胞であるユダヤ人、特にその宗教指導者たちに、しばしば迫害
を受けましたし、パウロもまたしばしば彼らを非難しましたが、彼は決して
ユダヤ人を憎んでいたのではなく、逆に非常に愛していたのです。
そして彼の願いは、何とかしてユダヤ人たちが救われるように、ということ
でした。
この「彼らが救われるように」という願いは、また神の願いでもあります。
その場合、「彼ら」というのは、すべての人間です。
神はご自分の被造物である人間すべてが救われることを願われるのです。
心で願われるだけでなく、神はそのために尊い一人子イエス・キリストを私
達の所に遣わされたのです。
そして聖書は、この神の「すべての人が救われるように」という願いの書で
ある、と言ってもいいと思います。
ヨハネによる福音書3章16節には、次のようにあります。(P.139)

  神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御
  子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

旧約聖書は、イスラエルの民の歴史が記されていますが、しかし旧約聖書に
おいても、すべての人類が救われる、ということが目標となっています。
創世記12章の所で、神はアブラハムに、「あなたを通してすべての民が救
われる」といっています。
すなわち、神がアブラハムを選んだのは、すべての民を救おうとしてだとい
うことです。
そして、イスラエルの民も神に選ばれたのですが、それはまさにその使命を
おびていた訳です。
すなわち、彼らは、すべての民が救われるために奉仕する使命があった訳で
す。
しかし、彼らは自分たちだけが選ばれた民であるという選民意識のゆえに、
すべての民が救われるという神の願いに答えることが出来なかったのです。
3節でパウロは、

  なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神
  の義に従わなかった、

と言っています。
人間は、常に自己中心的です。
自分さえよければ、自分が優位にいたい、という思いがあります。
そしてそれと共に他者は、自分より低い所にいてほしい、という思いがあり
ます。
イスラエルの民も、自分たちは神に特別に選ばれた民であって、他の人々よ
りも優位にある、と思っていたのです。
現在の私達を取り巻く社会も競争社会であって、常にこういう風潮があるの
ではないでしょうか。
しかし神の思いは決してそうではありません。
マタイによる福音書20章の「ぶどう園のたとえ」にあるように、神は朝早
くからせっせと働いた人だけでなく、例え夕方1時間しか働くことの出来な
かった人をも救いに入れたいのです。
私達も、自分だけが救われているということに満足すべきではないでしょ
う。
いまだキリストの救いに与かっていない人の救いを祈り求めねばならないの
ではないでしょうか。
そういう意味でも、来週の特伝には、私達の知っている多くの人が招かれる
ことを祈らずにおれません。
 さてパウロはここで、ユダヤ人を第三者として非難しているのではありま
せん。
パウロ自身が、この同じユダヤの一員だとして非常に苦しんでいるのです。
9章2節に、

  すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みが
  ある。

と言っています。
ここには、パウロの同胞ユダヤ人に対する深い愛が表されています。
 ユダヤ人は、自分たちには、神から与えられた律法がある、ということを
非常に誇りに思っていました。
しかしパウロはここで、その律法は、キリストによって終わりとされたの
だ、と言います。
4節。

  キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとな
  られたのである。

律法というのは、神の戒め、神の意志に従うということです。
イスラエルの民が、「自分の義を立てようと努めた」というのは、神の意志
ではなく、自分たちの意志、自分達の思い、自分たちの欲に従った、という
ことです。
従って、私達人間には、律法に完全に従うことは出来ないのです。
もし、出来ると言うならば、それは偽りです。
当時のユダヤ人は、出来もしない律法を完全に守っていたという自負心があ
りました。
しかしそれは、表面を繕う偽りだったのです。
しかしこれは、何もイスラエルの民、ユダヤ人だけでなく、人間はすべてそ
のような傾向があります。
しかしここで、イエスが「律法の終わりとなられた」というのは、イエスが
徹底的に神の戒めに従った、ということです。
従って、私達は、もはや守れもしない律法を守る必要はないのです。
そうではなく、律法の終わりとなられたキリストを信じ、キリストにより頼
むことが重要なのです。
ローマ人への手紙では、一貫してこのことが主張されています。
3章28節。

  わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるので
  はなく、信仰によるのである。

このキリストを信じることによって私達は、救いへの道が開かれているので
す。
 そしてパウロは、ここでキリストを信じて告白することが重要だ、という
ことを言っています。
9節。

  すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が
  死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われ
  る。

ここでは、心の中で信じることと、それと共に口で告白することが大切であ
る、と言われています。
これは特にキリスト教信仰にとっては大切なことです。
教会における洗礼式には、必ず信仰告白があります。
ただし、この信仰告白は、自分の頭で考えるというのではなく、昔から教会
において告白されてきた信仰告白を受け入れ、それを告白するということで
す。
この昔から教会において告白されてきたものは、いろいろな形のものがあり
ます。
この信仰告白は、英語では、confessionと言いますが、これはまた教派をも
意味します。
ですから、教派によって信仰告白が違う、ということです。
そしてしばしば、信仰告白を巡って争いが起こったり、教派の分裂が起こっ
たり、不幸なこともありました。
しかし、信仰告白は、元々非常に簡単なものでした。
パウロがここで挙げているのは、「イエスは主である」という告白です。
これは教会において最も早く告白されていたもののようです。
恐らく、洗礼を受けてクリスチャンになる時に、この告白だけがなされてい
たようです。
そして、キリスト教の信仰は、これで十分なのです。
しかし、当時のローマにおいて、この告白は非常に危険な場合もあったので
す。
ある時は、命がけのこともありました。
当時ローマにおいては、皇帝が主と呼ばれていました。
そして皇帝によっては、皇帝礼拝を強要した時もありました。
そういう時は、主というのは、皇帝だけに言われる語でした。
そこで、「イエスは主である」と告白することは、大逆罪とされたのです。
昔日本でも、「天皇よりもキリストの方が偉い」と言うのは、命懸けでした
が、そのようなことはこの時代のローマにおいてもあったのです。
そういう中で、しかし「イエスは主である」という告白は、非常に大切なこ
ととされたのです。
これは周りの人に知らせるという意味もありますが、イエスに対する告白な
のです。
イエスは、私達の心の中までよくご存じだから、本当は告白などしなくても
いいかも知れませんが、心の中で信じるだけでなく、口でそれを告白するこ
とが重要なのです。
それがキリストに対する忠誠なのです。
結婚のプロポーズをする場合も、何となく心のうちが分かっていても、口で
はっきり告白するのが相手に対する礼であり、愛情ですが、それと同じこと
が信仰の告白についても言えるのです。
これは、キリストへの信頼の表明なのです。
13節。

  なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるから
  である。

これは、旧約聖書のヨエル書の引用です。
ここの「呼び求める」というのも、声を出して言う、祈るということです。
祈りも心の中でする祈りもありますが、声を出して祈るということも大切な
のです。
すると主は、必ずこれに答えて下さるのです。
私達も、信じることと同時に、告白することも大切にしたいと思います。

(1992年10月11日)