ローマ人への手紙10章14−21節
「信仰は聞くことによる」
14節。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。 聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者 がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 ここでパウロは、イスラエルの民が神の言葉に聞き従わなかったことを問題 にしています。 彼らは果たして、神の言葉を聞かなかったのでしょうか。 決してそうではありません。 否、彼らは最もよく神の言葉を聞いていた民だったのです。 しかし、聞くということと、それを信じて従うということは、別なのです。 イスラエルの民は、神の言葉については、常に聞いていたのです。 彼らの最も大切にしていたものに、シェマーというものがあります。 それは申命記6章4−7節にあります。(P.255) イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心を つくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければ ならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心 に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時 も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければ ならない。 しかし彼らは、毎日この神の言葉を聞いてはいましたが、それに中々従わな かったのです。 今、夕の礼拝では、出エジプト記を学んでいますが、モーセに導かれてエジ プトを脱出した民は、シナイ山で神と契約を結び、十戒を授かりました。 この十戒は、イスラエルが神の民として出発するに当たって、非常に重要な ものであり、イスラエルの民も、これに従うと誓いました。 しかし、モーセがちょっとの間シナイ山に登っている間に、彼らは不安にな り、アロンに訴えて金の子牛を造ったのです。 たった今与えられた十戒をもう忘れてしまったのです。 十戒の第2の戒めは、「あなたは何の像をも造ってはならない」、というも のでした。 馬耳東風という言葉がありますが、イスラエルの民もしばしば神の言葉に対 してこのような状態でした。 イスラエルの民は、歴史において、このような罪を絶えず繰り返してきまし た。 そのようなことから、イスラエルには、神の言葉を伝える人がいなかったの だ、という声も聞かれました。 確かに、アモスが預言しているように、み言葉の飢饉と言って、神の言葉が 全く聞かれない時代もありましたが、普通の時は、預言者などによって、神 の言葉はよく語られたのです。 15節。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗 しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりであ る。 聖書の神は、生ける人格的な神であり、私達に語りかけ給う神です。 それは、創造者なる神は、被造物である私達を愛し、私達と交わりをもとう とされるからです。 そして神は、直接私達に語りかけるのでなく、多くの場合、その使者を通し て語られるのであります。 すなわち、使者をわたしたちに遣わされたのです。 それが、預言者であったり、伝道者であったりします。 旧約の預言者は、神の厳しい裁きも伝えましたが、基本的には「良きおとず れ」なのです。 これは、福音であります。 神の私達に伝えるのは、この福音であります。 16節。 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ 、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 ここで預言者イザヤは、「だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか 」と言っていますが、これは決してオーバーなことではありません。 「わたしたち」というのは、イザヤなどの預言者のことです。 預言者は、神から遣わされて、イスラエルの民に神のみ言葉を伝えたので す。 しかし多くの場合、人々は預言者の声に従わなかったのです。 それどころか、預言者を憎み、迫害を加えたりもしました。 勿論預言者の言葉に聞き従った人もいましたが、それはごく少数でした。 そこで、イザヤなどは、「残りの者」について預言しました。 すなわち、ごく一部の人によって、神の言葉が守られ、細々と信仰の火が灯 され続けたのです。 現在においても、神の言葉はそう多くの人に受け入れられているとは言え ないでしょう。 特に、私達の日本の社会では、神の言葉を受け入れている人は、ほんの少数 でしょう。 それでは、神の言葉が伝えられていないのか、というと必ずしもそうではあ りません。 18節。 しかしわたしは言う、彼らには聞こえなかったのであろうか。否、むし ろ 「その声は全地にひびきわたり、 その言葉は世界のはてにまで及んだ」。 これは、詩篇19篇からの引用ですが、神の言葉は全世界に伝えられてい る、というのです。 問題は、それに心から耳を傾けるか、あるいは馬耳東風のように聞き流して しまうか、なのです。 私達の教会にも結構大勢の人が来ています。 しかし中々定着しません。 私がこの教会に来てから、もう10年近くになります。 その間「新来会者カード」に名前を記してもらった人が200人以上300 人近くいます。 その中から、特伝やクリスマスの案内などを150通ほどの人に出します が、ほとんど来ません。 ですから、そのような人は、ただ1回礼拝に出て、それっきりということな のでしょう。 神のみ言葉を聞くには、聞いても中々定着しないのです。 日本の社会における伝道の難しさということを覚えます。 しかしこれは、決して失望や落胆ではないのです。 17節。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言 葉から来るのである。 聞くということが、実は信仰に通じるのです。 そして、その信仰を育てて下さるのがキリストなのです。 私達は、しばしばせっかちであり、すぐ結果の出ることを期待するのです。 そして、すぐ結果が出なければ失望したりする短気な者です。 しかし信仰というものは、長い目で見る必要があります。 そしていったん福音の種が蒔かれると、それは成長するのです。 そしてそれは、神の業なのです。 小さな子供の時に種が蒔かれ、もう死ぬ寸前で実が結ぶという場合もありま す。 私達は、往々にして、人間の業に期待します。 しかし、パウロは、コリントの教会の現実について次のように言っていま す。 コリント人への第一の手紙3章6−7節。(P.258) わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、 神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りな い。大事なのは、成長させて下さる神のみである。 信仰は、私達が聞いて信じる事のですが、根本的には、それは神の業なので す。 しかし、神の言葉を聞かなければ、成長もしません。 ですから、神の言葉を聞く機会というのは、とても重要だと思います。 そういう意味では、伝道礼拝だけでなく、教会学校やミッションスクール、 クリスマスの行事、あるいは結婚式などにおいて、聖書のみ言葉に触れるこ とは、直ちに信仰に結びつかなくても大切なことではないでしょうか。 そういう意味では、明後日行われるバザーも、全然聖書のみ言葉に触れたこ とのない人が、とにかく教会に足を踏み入れ、親しんでもらえることも、あ るいは福音の種が蒔かれることかも知れません。 礼拝にコンスタントに出る人は少ないですが、1年に30人も新来会者が 見えるということは、喜ばしいことではないでしょうか。 そういうようにして、聖書のみ言葉に触れた人は、例え馬耳東風のようであ っても、キリストがその人の信仰を育てて下さる、ということに期待するの です。 パウロは、「信仰は聞くことにある」と言いますが、私達も、一人でも多く の人がとにかく聖書のみ言葉に聞く機会が与えられるように祈りたいと思い ます。 (1992年11月1日)