ローマ人への手紙11章1−10節
「恵みの選び」
1節。 そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じて そうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニ ヤミン族の者である。 ここでパウロは、イスラエルの民が神から捨てられたのか、という問題を扱 っています。 そしてパウロの答えは、「断じてそうではない」というものです。 この答えは非常に重要だと思います。 もしイスラエルの民が神から捨てられたと理解するならば、私達は旧約聖書 を必要としないのです。 しかし、キリスト教の聖典が決められる時、決して新約聖書だけを聖典とし たのでなく、旧約聖書をも聖典としたのです。 従って、キリスト教の伝統では、キリストの御業を記した新約聖書だけでな く、イスラエルの民の歴史を扱った旧約聖書も聖典なのです。 この聖典を決められる前に、すなわち紀元2世紀に、マルキオンという学者 は、旧約聖書はキリスト教にとっては、無駄な書だとして、排斥したので す。 確かに、イスラエルの民は、神の戒めを破り、神の民としてはふさわしくな い歩みをなしました。 しかし、神がイスラエルの民を選んだという事実は変わりません。 また、イスラエルの与えた約束も取り消された訳ではありません。 そこでここでパウロは、神は断じてイスラエルの民を捨てたのではない、と 言っているのです。 そして、神はこのイスラエルの民の中でさらに特定の人を選んで神の意志 をあらわしたのです。 その選ばれた人の一人が、2節以下に出て来るエリヤです。 2−3節。 神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかっ た。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らない のか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。「主よ、彼 らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わた しひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めていま す」。 この物語りは、旧約聖書の列王紀上17章以下の所に記されています。 時は、紀元前9世紀です。 時のイスラエルの王アハブは、国を繁栄させようとして、多くの国と外交関 係を結びました。 そしてそのために近隣の諸国の王の娘と政略結婚をしたのです。 そのうちの一人に、フェニキアの王の娘イゼベルがいました。 彼女は、フェニキアの神であるバアルをイスラエルに持ち込んだのです。 ただ持ち込んだだけでなく、イスラエルにおいて昔から礼拝されている神ヤ ハウエを礼拝することを禁じたのです。 そして、ヤハウエの預言者は、エリヤを除いてことごとく殺されたのです。 ここで「わたしひとりが取り残された」と言われている通りです。 イスラエルの信仰は絶体絶命の危機に見舞われたのです。 その時、イスラエルの信仰の危機を救うために預言者に選ばれたのがエリヤ です。 彼は、イゼベルの迫害から逃れて、山の奥で暮らしていましたが、その時カ ラスが食糧を運んで来て、命を守られました。 そしてその後、有名なカルメル山でのバアルの預言者との対決があります。 このカルメル山は、地理的にちょうどイスラエルとフェニキアの国境にあ り、その時々の勢力によってイスラエルの領土になったり、フェニキアの領 土になったりしました。 当時はアハブ王がイスラエルの領土にしていたようですが、イゼベルの政策 によって、イスラエルの神ヤハウエの祭壇は破壊され、バアルの祭壇が建てら れていました。 先日のイスラエル旅行において、私達も、この山に登る予定でしたが、時間 の関係で登ることができず、ただバスの中から眺めただけでした。 地中海に突き出た岬にある五百メートル位の平凡な山でした。 さてここでエリヤは、450人のバアルの預言者を相手に一人で戦ったの ですが、神の助けにより、大勝利を収めました。 そこで、イスラエルにおいて、真の神に対する信仰の火は消えずに済んだの です。 他の時代においても、イスラエルには、しばしば信仰の危機が訪れました。 そして、信仰の火が消えそうになると、神は一人の人を選び、その人を通し て、信仰が受け継がれたのです。 このようにして神は、決してイスラエルに対してなした約束を捨てなかった のです。 信仰の火を守るために、その時々に選ばれる人を、「残された者」と言われ ています。 そしてイスラエルの歴史においては常に、この残された者によって新たな歩 みがなされてきました。 5節。 それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がい る。 パウロは、パウロの時代にも神の恵みによって選ばれた者がいる、というこ とを言っています。 そしてこれは、旧約の時代やパウロの時代だけでなく、今も神の恵みによっ て選ばれている者がいます。 K・バルトは、これは教会だ、と言っています。 私達は、教会のメンバーとして選ばれた者ですが、それは「恵みの選び」 とあるように、神の側の一方的な恵みなのです。 決して私達自身に何か選ばれる理由なり資格なりがあったのではありませ ん。 これはイスラエルの民も同じでした。 彼らは決して当時の諸民族と比べて優秀な民でもなく、強い民でもありませ んでした。 むしろ当時の古代オリエントの世界においては、メソポタミアとエジプトの 2大文化国家の陰に隠れた存在でした。 そのような取るに足りない小さな民を、神はあえて選ばれたのです。 従ってイスラエルは、その神の恵みに答えて、神の戒めに忠実に歩むべきで した。 しかし、現実の歴史はそうではなかったのです。 かえって、彼らは自分達は神に特別に選ばれた民であるという自負心と優越 感を持ち、神と他の人々に仕える務めを怠ったのでした。 私達も神の恵みによって選ばれているとしたら、何のためでしょうか。 私達だけが特に救われているという特権を得るためでしょうか。 そうではなく、選ばれるというのは、ある使命を帯びているのです。 私達はどのような使命を帯びているのでしょうか。 それは端的に言って、世の光、地の塩として、この世にキリストを証すると いうことです。 しかし私達は、非常に無力だ、ということを思います。 私達がこの世に対して一体なにができるのか、と思わないでしょうか。 しかしこれは、私達一人ではないのです。 エリヤも、イスラエルにおいて、イゼベルによって主の預言者がことごとく 殺されたので、残っているのは自分一人だけだ、と絶望的なことを神に述べた のですが、この時神は、同じ使命を帯びた仲間を残す、ということを言いま した。 4節。 しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめ なかった七千人を、わたしのために残しておいた」。 この同じ信仰を持つ仲間が与えられているということは、大いなる励ましで はないでしょうか。 自分一人異教の神と戦っていると思っていたエリヤに、神は多くの仲間を与 える、と約束したのです。 この7千という数は、当時のイスラエルの全体の人口がどれくらいであった か分かりませんが、そう多い数ではありません。 しかし失望するほど少ない数でもありません。 適当な数かも知れません。 また、私達にも神は、同じ信仰を持つ仲間を与えて下さっています。 私達は、決して一人ではないのです。 日本のクリスチャン人口は、総人口の1%いくかいかないか位だそうです。 これが、ここに出る7千という数より多いのか少ないのか分かりませんが、 あるいは適当な数かも知れません。 とにかく私達は、同じ主を信じる仲間がいるのです。 そしてこれは何も、室町教会のクリスチャンだけとは限りません。 私達の属している日本基督教団には、約20万人のクリスチャンがいます。 そして仲間は、何も日本基督教団の信者だけでなく、他の教派のクリスチャ ンとも同じ仲間です。 そしてこれは更に、日本のクリスチャンだけでもありません。 一昨日マレーシアから、障害を持ったクリスチャンが京都に来られて、私は 障害者問題委員会の委員でもあるということで、京都の教会関係の障害者の 施設などを案内しました。 車椅子に乗った30歳位の青年でしたが、片言の英語でしたが、やはり同じ クリスチャン(彼はカトリックの信者でしたが)として、仲間だという印象 を強く持ちました。 エリヤと同じように、私達も常に7千人の仲間がいる、ということを思う 時、力と励ましが与えられます。 世の光、地の塩としてキリストを証していくのは、教会の業です。 教会は、正に、世の光、地の塩として、キリストを証する務めがあります。 しかしそれは、何かをしなければならない、という戒めとか律法というので はありません。 6節。 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうで ないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。 私達は何よりもまず、神の恵みによって選ばれているという信仰を持つ必要 があります。 そしてそこから、その神の大いなる恵みに答えて、地の塩としての働きがお のずと出てくるのです。 ですから、大切なのは、私達が、神の恵みに選ばれているという自覚ではな いでしょうか。 (1992年11月15日)