ローマ人への手紙11章13−24節

「神の慈しみと厳しさ」



 13−14節。

  そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒
  なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を
  奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。

ここでパウロは、ローマの教会の人々に「あなたがた異邦人」と言っていま
す。
ローマの教会には、ユダヤ人もいたかも知れませんが、大多数は異邦人であ
ったでしょう。
パウロは、自らの使命を異邦人への伝道と自覚していました。
異邦人の救いのために彼は命を賭けて一生懸命伝道しました。
そのために、彼は3度大きな伝道旅行をしました。
その詳細は、使徒行伝に記されています。
この異邦人伝道は、パウロ以来、キリスト教の伝統になっています。
私達の教会も、アメリカの北長老教会の宣教師であったポーター夫妻が京都
で伝道したことが発端になっています。
そして現在では、日本の教会から、東南アジアやヨーロッパやアメリカにま
で宣教師を送っています。
キリストの福音が地の果てまで伝えられ、すべての人が救われることが、神
の願いです。
それは、旧約聖書において既に言われています。
すなわち、アブラハムが神によって選ばれた時、神はアブラハムを通して全
人類が救われる、と言っています。
これは聖書を貫く思想だと思います。
現在は、民族主義の時代だとも言われています。
特に東欧社会において、共産国家が崩壊した後、その民族的に対立が表面化
しました。
最も激しく争われているのが、旧ユーゴスラビアです。
自分の民族は愛するが、他の民族を憎む、というナショナリズムです。
これは、いつの時代にもあります。
アブラハムには、全人類を救うという使命が与えられましたが、後のユダヤ
人はむしろ偏狭な民族主義に陥り、他の民を偏見したのです。
そのため、ユダヤ教は、未だにユダヤの民族の宗教の域を出ないのです。
しかし、パウロは、ユダヤ人もギリシア人もない、という考えから、すべて
の民族の者にキリストの福音を伝えようとしました。
そしてこれが、キリスト教の伝統になりました。
 さてパウロはここで、ローマの教会の信徒たちに、あなたがたの信仰はイ
スラエルの民から受け継いだものだ、ということを言っています。
17−18節。

  しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれ
  につがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなた
  はその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根
  をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。

信仰というものは、受け継ぐものです。
ここでパウロは、ローマの教会の信徒たちの信仰も、実はユダヤ人から継承
したものだ、と言っています。
だから自分達を誇ってはならない、と言います。
私達の場合でも、キリストの信仰を私達が独自に獲得したのではなく、必ず
だれかから受け継いだものです。
ですから、私達は、私達に信仰を伝えてくれた人を尊重しなければならない
と思います。
室町教会で言うならば、先程のポーター宣教師によって種をまかれ、多くの
諸先輩の信仰を私達は受け継いでいる訳です。
また、私達個人にとりましても、必ず、その信仰を私達に伝えてくれた人が
いると思います。
それが親であったり、友人であったり、いろいろだとは思いますが。
私個人で言いますと、両親がクリスチャンであり、小さい時からクリスチャ
ンホームで育ったということがあると思います。
もし、クリスチャンの家で育たなかったなら、果たしてキリストの信仰を持
つようになったかは分かりません。
そういう意味では、両親は他に何もありませんが、私に最も価値ある遺産を
残してくれたことを感謝しています。
 さてここで、ローマの教会の信徒たちは、ユダヤ人はキリストを信じるこ
とに失敗した、否彼らはキリストを十字架に掛け、またキリスト教徒をも迫
害している、ということで、自分達を誇っていたようです。
しかしパウロはここで、彼らの信仰を支えたのは、根である旧約の民なの
だ、と言っています。
私達もややもすると、その人の評価すべき点を見失って、その人の失敗の
所、マイナスの所を見て、非難してしまいます。
ユダヤ人はそういう意味では、歴史において、常に不当に評価されてきたの
ではないでしょうか。
その最も大きな悲劇は、ナチによるユダヤ人迫害でしょう。
確かに、キリストを受け入れず、十字架にかけたのは、ユダヤ人でした。
そのようなことから、ローマの教会の人達は、自分たちはユダヤ人とは違
って信仰的なのだ、という一種の誇りがあったようです。
そのような彼らに、パウロは高ぶった思いをいだいてはならない、と勧告し
ます。
そもそも、彼らの信仰は旧約の民の信仰を受け継いだのだ、というのです。
20節。

  まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなた
  は信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、む
  しろ恐れなさい。

大切なのは、神に対する固い信仰です。
そして神を恐れることです。
「彼らは不信仰のゆえに切り去られ」とありますが、イスラエルの民がすべ
て不信仰であった訳ではありません。
彼らがすべて神を恐れない者だった訳ではありません。
否、むしろパウロがここで言っているように、キリスト者の信仰は敬虔な旧
約聖書の民の信仰を受け継いだものです。
そして新約聖書においても、そのような信仰の先輩が称賛されています。
その代表的な人物は、アブラハムでしょう。
このローマ人への手紙でもアブラハムのことが引き合いに出されていまし
た。
4章3節。

  なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。そ
  れによって、彼は義と認められた」とある。

これは、アブラハムが高齢になってから、子供が与えられると言われた時、
それを素直に信じた時のことです。
人間の頭では全く考えられないけれども、神の約束ゆえに信じる、その信仰
が称賛されています。
そしてこの信仰を私達も、先達から受けたのです。
このような立派な信仰の持主もイスラエルの民の中には大勢いましたが、し
かし一方では、神の選びを受けながら、不信仰であった人も大勢いました。
そして、神は、そのような不信仰であったイスラエルの民を切り去った、と
言います。
神には一面、そのような非常に厳しい面があります。
22節。

  神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈
  愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられ
  る。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。

「神の慈愛と峻厳」というのを、新共同訳聖書では「神の慈しみと厳しさ」
と訳されています。
そうです。
神には、慈しみと同時に厳しさもあるのです。
しかしこの厳しさは、神が人間をこよなく愛される所から来るのです。
十戒の第2戒に次のようにあります。

  あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むも
  のには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わた
  しの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

この「ねたむ神」というのを、新共同訳聖書では「熱情の神」と訳していま
す。
熱心、ということです。
神はエジプトで苦しむイスラエルの民の声を熱心に聞き、彼らを救い出すた
めに熱心になられました。
神は、私達人間を救うために非常に熱心なのです。
私達はしばしば、この神の熱心に気がつかないのです。
しかし神は、この熱心に私達を愛して下さるその愛に答えることを欲される
のです。
「慈愛にとどまっていなさい」と言われています。
そして、その熱心な愛に答えず、逆に神以外のものを神とすることに対して
「ねたみ」を示されるのです。
神には慈しみと同時に厳しさもあるのです。
 しかし、その慈しみと厳しさを比べたならば、慈しみの方がずっと大きい
のです。
先程の十戒においても、父の罪を子に報いる時は、三、四代とあるのに対し
て、恵みを施す場合は、千代とあります。
すなわち、厳しさよりも慈しみの方が250倍も多いのである。
ここに、聖書の神が慈愛の神だという所以があります。
この慈愛の神に、私達は常に信頼する者でありたいと思います。

(1993年1月10日)