ローマ人への手紙11章25−36節

「万物は神から出る」



 25節−26節前半。

  兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥
  義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなに
  なったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こう
  して、イスラエル人は、すべて救われるであろう。

パウロの一番の関心は、人間の救いということです。
これは何もパウロだけの関心ではなく、聖書全体の主張する所でもありま
す。
讃美歌の493番にも「ひとりだにも滅ぶるは/みむねならじ、助けよ」と
ありますが、これが神のみ心と言うことができます。
神のみ心は、すべての人が救いに入れられる、ということです。
パウロは、異邦人伝道に遣わされたので、専ら異邦人の救いを考えていた、
というのではありません。
彼は、伝道活動の中で、しばしばユダヤ人たちと衝突し、ある時は、彼らに
捕らえられ、殺されそうにもなりました。
しかし彼の本当の願いは、ユダヤ人も一人残らず救いに入れられる、という
ことでした。
また彼自身はユダヤ人であったので、本当はユダヤ人の救いの方を考えてい
た、というのでもありません。
真の神を知らなかった異邦人の救いのことを真剣に願ったのでした。
すなわち彼は、すべての人が救われる、ということが目標でした。
今の25節に「奥義」という言葉がありました。
これは、原語ではμυστηριονと言いますが、これは人間には隠されているこ
と、ということです。
そしてパウロはここで、それはすべての人間を救おうとする神の計画だ、と
言います。
新共同訳聖書では「秘められた計画」と訳されています。
神の計画というのは、根本的には私達には分からないものです。
しかしパウロは、それはすべての人間が救われることだ、と主張します。
それだったら、神に背いたイスラエルはどうなるのか、という疑問が出て
きます。
そもそも神は、ご自分に逆らうようになるイスラエルの民を何故選ばれたの
か、というような疑問も出てきます。
ご自分に逆らうようになる民など、最初から選ばなかったらいいではない
か、と思ったりします。
著名な新約学者は、イスラエルの歴史は、神に逆らった失敗の歴史であった
から、キリスト教信仰にとって余り意味がない、というようなことを言って
います。
この辺は私達にも分からないかも知れませんが、これも「神の秘められた計
画」であったと思います。
そのような神に逆らったイスラエルの民の歴史をも含めて、神の救いの計画
であったのではないでしょうか。
そう捉えるが故に、キリスト教会では、伝統的に旧約聖書をも聖典として重
んじてきているのです。
失敗の歴史をも含めて神の救いの計画であったと捉えるならば、非常に慰め
に満ちていると思います。
それは、何もイスラエルの民だけでなく、私達だって、神に逆らったり、失
敗したりするからです。
32節に、

  すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のな
  かに閉じ込めたのである。

とあります。
私達は不完全で、欠点の多い者です。
完全で欠点のない人はいません。
しかしそれは、神のあわれみを受けるためだ、とパウロは言います。
イエスは、ルカによる福音書5章31−32節で次のように言っています。
(92ページ)

  健康な人に医者はいらない。いるのは、病人である。わたしがきたの
  は、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためであ
  る。

私達に欠けや弱さがあるからこそ、神は私達にあわれみをかけ、また私達を
救おうとされるのです。
弱さや欠けというものを、私達はすぐマイナスで捉えてしまいます。
そのようなことで、不従順の歴史を歩んだイスラエルの民の歴史を意味のな
いものだった、と簡単に言ってしまう傾向にあります。
しかし、このような者を簡単に退けるのでなく、このような者だからこそあ
われむというのが、神のみ旨なのです。
そしてそれを、パウロは奥義と言っているのかもしれません。
とにかく奥義というのは、私達人間の知恵では簡単には測りがたいもので
す。
ただ、神のみ旨は、私達すべてを救いに入れるということにあるのは確かで
あると思います。
33節。

  ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、そ
  の道は測りがたい。

これは、「奥義」を別の表現で言っているのです。
神の知恵と知識は余りにも深くて、私達には十分には分からないのです。
これは人間の知恵とは異なります。
25節でパウロは、「あなたがたが知者だと自負することのないために」と
言っていますが、ローマの教会の人の中には、自分を賢い者とうぬぼれてい
た人もいたようです。
しかし、人間の知恵と神の知恵とは全く違うのであって、自分を賢い者とう
ぬぼれている者は、かえって神の知恵からは遠いのです。
このことを一番体験したのは、ヨブではないでしょうか。
34節と35節は、いずれもヨブ記からの引用です。

  だれが、主の心を知っていたか。
  だれが、主の計画にあずかったか。
  また、だれが、まず主に与えて、
  その報いを受けるであろうか。

神の心を本当に知っている者がいるか、という問いです。
そしてその答えとしては、「いいや、そんな人は一人もいない」ということ
です。
ヨブ記は、ジャンルから言うと、箴言や伝道の書と共に知恵文学に入りま
す。
知恵文学は、真の知恵をもつことの重要さを主張しています。
その真の知恵とは、33節にあるように、「神のみ心は窮めがたく、その道
は測りがたい」ということを素直に認めることです。
認めるだけでなく、その神に素直に従うことです。
ヨブは、非常に信仰深い人であり、行いにおいても正しい人でした。
それゆえに神の知恵をも弁えているという自信があったようです。
そこで自分に不幸が起こった時、納得がいかず、友人たちと激しい論争をし
ます。
そしてその論争は、神にも向けられます。
あたかも神よりも自分の方が神の知恵にたけている、と豪語している箇所も
あります。
しかし最後は、神の創造の世界、実に不思議に満ちている動物の世界を見せ
られて、このローマ人への手紙にある「神のみ心は窮めがたく、その道は測
りがたい」ということを知らされたのでした。
そしてそれと同時に神を恐れるということが最も大きな知恵だ、ということ
を悟らしめられたのです。
ヨブ記28章28節には、

  見よ、主を恐れることは知恵である。

とあります。
また、箴言1章7節には、

  主を恐れることは知識のはじめである。

とあります。
36節。

  万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がと
  こしえに神にあるように、アァメン。

ここでパウロは、ただ神の栄光を讃美しています。
何を讃美しているでしょうか。
それはまず第一に、神はすべてのものの創造者である、ということです。
そして次に、神はすべてのものの救済者である、ということです。
また神は、すべてのものの支配者である、ということです。
このことを覚える時、私達はただ神の栄光をたたえる以外にありません。
そしてこれが、私達のまずなすべきことではないでしょうか。
そのために私達は、週の始めにまず礼拝を行って、すべての生活の出発とな
している訳です。
先日の婦人会では、詩篇92篇を学びましたが、そこでも詩人は、神のみ業
を覚えて、それを称える生活をするか、あるいは神のみ業を認めず自分の思
いでのみ生活するかは、大きな違いだ、ということを述べていました。
本当に祝福に満ちた人生を送ることができるのは、神のみ業をたたえる生活
をすることだ、と言われています。
私達の生活も、すべてが神から出ていることを認め、この神の栄光をたたえ
る歩みを生涯続け、神に祝福された歩みを歩む者でありたいと思います。

(1993年1月24日)