ローマ人への手紙12章1−2節
「霊的な礼拝」
私達は、1991年4月からローマ人への手紙を学んできました。 この書は手紙というよりは、パウロの神学的な考えをまとめたものだ、と言 われています。 構成的にも、整然となっており、1−11章では教理的なこと、神学的なこ とが述べられ、12章以下では実践的なこと、倫理的なことが述べられてい ます。 今日のテキストは、その教理的なことから、実践的なことに移るちょうど最 初の部分です。 1節に「そういうわけで」とあります。 これは、11章までに述べられてきたこと全体を指しています。 11章までは、おもに神の恵みについて述べられていました。 ことに、人が義とされるのは、律法の業によるのでなく、全く神の一方的な 恵みである、と言われました。 パウロの主張の中心は、「人はキリストを信じる信仰によって義とされる」 ということです。 3章28節に、 人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのであ る。 とありました。 そしてそれが展開されつつ、11章まで論じられてきました。 そしてパウロは、今日の12章1節で、「そういうわけで」と言って、勧め をし、実践的な事柄に入っていくのです。 先程のところでパウロは、人が義とされるのは、「行いによるのではなく、 信仰による」と言いましたが、この12章以下では、行いについて述べられ ているのです。 しかしこの12章以下の所では、もう以前の「律法による行い」ではありま せん。 キリストによって自由にされた者としての行いです。 私達キリスト者は、そのキリストの恵みに応えて生きるのです。 キリストの恵みを抜きにして、「クリスチャンはこうしなければならない」 と行いだけが強調されると律法主義になります。 パウロは、このローマ人への手紙において、いきなり「行い」ということを 言いませんでした。 1−11章の所では、神の恵みについて十分に論じられました。 そして、その後に、その神の恵みに応えて、私達のこの世での生活の勧めが なされているのです。 注意したいのは、ここでは律法ではなくて、「勧め」である、ということで す。 しかもその前に、「神の憐れみによって」という言葉があります。 「神のあわれみによってあなたがたに勧める」とパウロは言います。 私達の行いは、神の恵みに感謝して、自然と出てくるものでないと意味がな いと思います。 本当は厭なんだけど、キリスト者なので仕方なしに行う、ということなら意 味がありません。 ですから、私達にとってまず大切なのは、私達が神から多くの恵みを受けて いるということを認識することです。 この認識がなければ、いくら立派な行いをしても、それは意味があります。 また、この認識があれば、おのずと行いへと現れるのです。 旧約聖書というと、すぐ律法の戒めを思いますが、本当はそうではなく、 やはりその基本は神の恵みなのです。 例えば、十戒においても、戒めの前に、神の恵みについて言われています。 出エジプト記20章2節に、次のようにあります。 わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家か ら導き出した者である。 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とか「あな たは盗んではならない」という戒めの前に、神がイスラエルの民を恵み深く 導いた出来事があるのです。 すなわち、神は、イスラエルの民を、エジプトでの奴隷から導き出したお方 なのです。 イスラエルの民は、この大きな恵みに入れられたのです。 そしてその神の恵みに応えて、この神だけを礼拝するということと、隣人を 愛するという戒めが述べられているのです。 神の恵みがまずあって、それに感謝して戒めの律法が出てくるのです。 このパウロのローマ人への手紙もそうであって、神の恵み、すなわちイエ ス・キリストの十字架の贖いという大きな恵みをまず述べて、その恵みに応 えて生きる生活が12章から勧めとして述べられているのです。 パウロの生き方を決定づけたのは、イエスが十字架にかかった事です。 そして、その十字架の死によって、罪赦されたことです。 その尊いイエスの血と肉の贖いによって、私達が罪赦されたのだということ です。 このことがパウロの生き方を決定づけました。 また、十字架の死は、私達キリスト者一人びとりの生を決定します。 十字架の恵みは、言葉では言い尽くせないでしょう。 私達は、この神の恵みに十分感謝しているでしょうか。 この神の恵みに十分応えている生活をしているでしょうか。 相変わらず、自分中心的な、不平・不満の多い生活を続けているのではない でしょうか。 余りにも神の恵みに慣れすぎて、感謝を忘れてはいないでしょうか。 パウロは、まず十字架の贖いに感謝し、そこから彼の生き方がすべて出てき ているように思います。 そのようなことをパウロが告白している箇所があります。 コリント人への第一の手紙15章10節。(P.274) しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そ して、わたしに賜った神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼ら の中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではな く、わたしと共にあった神の恵みである。 パウロの全生活は、神の恵みへの感謝でした。 そしてパウロは、他の人にも、神の恵みに応える生活を勧めます。 主に仕える最大のものは、礼拝を捧げることです。 これはもちろん、主の日の礼拝が基本です。 この礼拝において、私達は最も親しく神との交わりができるのです。 神の恵みをこの礼拝において確認し、そして神の恵みにこの礼拝において感 謝を捧げるのです。 そういう意味では、宗教改革者たちが主張したように、主の日の礼拝という ものを、私達の生活の一番の基本にしたいと思います。 しかしそれだけではありません。 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささ げなさい」という言葉があります。 これは、私達の全生活が礼拝だ、ということです。 「供え物」とあります。 古代ユダヤ教においては、人は祭りの時に犠牲の獣を「供え物」として捧げ ました。 これは、人々の罪が赦されるため、あるいは感謝のためでしたが、神への贈 り物でした。 しかしこれは、旧約聖書の歴史においてしばしば非常に形式化しました。 値段の高い動物を捧げれば、それだけ神の恵みがあると、御利益的に考えら れたこともあります。 そしてそういう捧げ方をする者に対して、預言者たちが鋭い批判を投げかけ ました。 例えば、ホセア書6章6節には、次のようにあります。(P.1249) わたしは慈しみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。 いくら高価な犠牲の動物を捧げても、そこに神への真実がなければ、神に喜 ばれません。 パウロはここで、「神に喜ばれる」供え物を捧げなさい、と言っていま す。 そしてそれが、「霊的な礼拝である」と言います。 「霊的な礼拝」と訳されていますが、文字通りの訳は、「理にかなった」と いうような意味です。 「理にかなった」というのは、神様から見て理にかなった、ということで す。 形式的に犠牲の動物を捧げるのは、神様の目から見て、理にかなったとは言 えません。 それよりも、真心からなす礼拝、神に喜ばれる礼拝が「霊的な礼拝」であ る、と言っていると思います。 しかし、どういう生き方が神の喜ばれるかは難しいものです。 これを知ることは、難しいのです。 2節には、次のようにあります。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにする ことによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であっ て、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきであ る。 ここに「わきまえ知るべきである」とありますが、この言葉は、元々金属を 見分けるという意味です。 本物か偽物かを見分けるということです。 そのためには、修練が必要であろうし、普段の努力も必要でしょう。 ただ素人がぱっと見て判断できるというものではありません。 これは、人に教えられるとか、人に命令されるとか、人に指示されるという のでなく、基本的には自分で知るのです。 ここに一面の厳しさがあります。 何が神のみ旨であるのか、何が善であるのか、何が神に喜ばれるのか、とい うことを私達が自分で知るのです。 一方からすると、「これをしなさい」「これはしてはいけません」と言わ れる方が簡単です。 旧約聖書の律法のように、これはしてはならない、これをしなければならな い、という風にきちんと決められていれば、それを忠実に守っていくという やり方、これは考えようによっては簡単です。 しかしパウロは、そうは言いません。 言われていないからと言って、何をしてもいいのではありません。 あるいは、何もしなくてもいいのでもありません。 「神に喜ばれる生活をしなさい」と言われています。 そしてこれは、「霊的な礼拝」です。 神様の目から見て、理にかなった礼拝である、という風に言われています。 ヨハネは、 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべき である。 と言っています。 礼拝とは、日曜の朝1時間だけではありません。 もちろん、先程言いましたように、この主の日の礼拝が基本になる訳です が。 しかし、キリスト者にとって、全生活が礼拝なのです。 すべての生活が神をあがめ、神に仕えるもの、神の喜ぶ生き方をするのがキ リスト者の生き方であり、そしてそれが礼拝です。 それは、神の前に自分をむなしくして、自分をゆだねるということです。 今までは、自分中心に生きていた者が、その心が砕かれて、神中心に神の喜 ぶのは何か、という問いを常に問いつつ生きていくものです。 2節で、「この世と妥協してはならない」と言われています。 「この世」というのは、世間一般という意味ではありません。 「この世」というのは、自分中心的な生活です。 神の救いを信じないで、サタンに支配されている世です。 それは、自己追求と虚栄と高ぶりに包まれており、結局は偶像礼拝の世界で す。 私達の古い心は、むしろ自己中心的な、この世と妥協するものでした。 しかし今や、キリストの恵みによって、そのような心が新たにされ、造り変 えられたのです。 「心を新たにすることによって、造り変えられ」とありますが、造り変えら れというのは、もちろん受け身で記されています。 私達自身の力で自分を造り変えるというのではなく、神の恵みによって造り 変えられるのです。 私達も、キリストの恵みによって、神に喜ばれる生き方をしたいと思いま す。 (1993年2月14日)