ローマ人への手紙12章9−21節
「恵みに応えて」
ローマ人への手紙を学んでいますが、12章からは、ローマの教会の人達 への勧めになっていました。 8節までは、キリスト者の教会での働きについて述べられました。 そして今日の9節以下は、キリスト者のこの世での働きについて述べられて います。 キリスト者は、教会でどのような奉仕をするかという事は勿論大事です。 しかし、私達の生活の大半はこの世において行われるのであります。 私達は、週の初めの日曜は、教会に来て礼拝をしますが、あとの6日は、専 らこの世でそれぞれの働きをしています。 そして、その仲間は多くの場合、キリスト者ではありません。 職場や学校や家庭、地域の社会などにおいて、私達の周りは、大半はノンク リスチャンです。 ローマの教会も事情は同じでした。 否、もっと厳しかったでしょう。 キリスト者は少数でした。 そして、まだキリスト教は公には認められてはいませんでした。 ある場合には、邪教と見なされていました。 そのような中で、キリスト者は、神のみ旨に従った生活をすることによっ て、この世に良き証しをなす責任がありました。 そのようなことをも考慮して、パウロはここで勧めをなしているのです。 キリスト教は、初めから周りの社会から断絶して自分たちだけの生活をした のでなく、この世の中にどっぷりつかって、生活したのでした。 そして、初期の教会は、周りの世界からも好感を持たれていたようです。 使徒行伝2章47節の所では、 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。 と記されています。 当時のローマ世界は、表面的には非常に平和で繁栄していましたが、人々の 生活は、この世の欲を追い求め、自己中心的で、はなはだ不道徳なものだっ たようです。 そのような中で、キリスト者の生き方は、非常に新鮮味をもって見られ、ま た評価もされたようです。 明治に日本に入ってきたキリスト教も、やはり真面目で敬虔な印象を与えま した。 それは例えば、今日のローマ人への手紙12章9節以下に勧められているよ うなことを忠実に心掛けていたからでありましょう。 9−10節。 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄 弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。 パウロは、まず最初に「愛」を勧めます。 キリスト教は、愛の宗教だとも言われます。 この愛は、聖書においても最も中心のものです。 イエスは、旧約聖書を最も簡潔に要約すれば、神を愛することと、人を愛す ることだ、と言いました。 マタイによる福音書22章37−40節。(P.37) イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、 主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめ である。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り 人を愛せよ』これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かか っている」。 そして、この愛は、私達は神から賜物としていただいているのです。 パウロは、コリント人への第一の手紙12章の所で、「霊の賜物」(カリス マ)について述べています。 12章4節で、(P.270) 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 と言って、それぞれにいろいろな賜物が与えられているということを言って いますが、その12章の最後で、 だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。 そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。 と言っています。 そしてこの最も大いなる賜物は、13章で言われていること、すなわち、愛 です。 13章の一番最後には、次のようにあります。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つ である。このうちで最も大いなるものは、愛である。 さらに13章3節を見ますと、 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のから だを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益であ る。 と言っています。 パウロは、今日の所でも、ローマのキリスト者に、この世で生活するに当た ってのいろいろな勧めをなしますが、その根本に愛がなければ、一切は無益 だ、ということで愛から語り始めていると思います。 さて、9節からは、沢山の勧めがなされています。 それら一つひとつはどれも、すべて大切なものばかりです。 しかし、一つひとつを取り上げて話していけば、とても一回の説教では足り ません。 そこで、今日は2、3のものだけを取り上げることにします。 15節。 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 泣く者と共に泣くということは、比較的優しいかも知れません。 不幸にあった人に同情することはよくあることです。 しかし、喜ぶ者と共に喜ぶ、というのは、そう容易ではありません。 人間は、自己中心的であり、他人の幸福をそう素直に喜べないのです。 これができるのは、本当の愛に生かされた人ではないでしょうか。 10節に「兄弟の愛」とあります。 これは、ギリシア語ではフィラデルフィアと言います。 ギリシア語には、愛を表す語がいくつかあって、9節の愛はアガペーという 語です。 これは主に神の愛を表します。 また、恋愛などの愛は、エロースと言います。 この「兄弟愛」と訳されたフィラデルフィアは、もともと家族の愛を意味し ています。 10節で、「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ」と言われているのは、初 期の教会は一つの家族のような共同体をめざしていることを表しています。 まさに、兄弟姉妹の関係でした。 例え他人の幸福を素直に喜べない人でも、同じ家族の者の幸福は喜ぶのでは ないでしょうか。 18節。 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 人と平和に過ごすということも大切なことです。 人と平和に過ごすには、ある程度自分を押さえなければなりません。 お互いに自我を押し通すところからは、平和は生まれません。 これにはやはり、愛と忍耐が必要でしょう。 19節。 愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさ い。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わた し自身が報復する」と書いてあるからである。 人間は、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ということが中々出来ませんが、それどころ か、人への憎しみを持ちやすい者である。 人の過ちを中々許すことが出来ず、報復をします。 人間の歴史は、報復の歴史だ、といってもいい位、報復が繰り返されていま す。 そしてしばしば、この報復ということが美化され、また美化とまではいかな くても、当然の権利である、と思われています。 日本の昔の話にも、「敵討ち」の話がよくありますが、忠臣蔵などに代表さ れるように、復讐ということが美化されていました。 これは何も日本だけでなく、世界中に似たような話が沢山あります。 ということは、人間とはいかに許せないか、報復せずにおれない存在か、と いうことを示しているように思えます。 歴史において、ユダヤ人が何回となく迫害されてきましたが、それはキリス トを十字架にかけた当然の報いだ、と考えられたこともよくありました。 また現在においても、ボスニアやカンボジアなどで民族や党派間の醜い争い が続いていますが、これもやられたらやり返すという報復の原理が繰り返さ れている結果です。 かつて報復ということで、痛い目にあったユダヤ人も、今度はアラブ人への 報復ということをしょっちゅう行っています。 人間は、中々人を許せないものですが、もし許すことが出来れば、それは神 の愛の働きのような気がします。 今から13年前のことですが、新宿バス放火事件というのがありました。 38歳の男性が、ガソリンの入ったバケツをバスの中にほうり込んで、火を つけ、バスが丸焼けになりました。 その時、バスに乗っていた人のうち、6人が死に、14人が重軽傷をおいま した。 その重症をおった人の一人石井美津子という当時36歳だった女性は、全身 の80%にやけどをおいましたが、奇跡的に命だけは助かりました。 そして1年近く入院し、その間10回も植皮手術を受け、全身の8割にやけ どの跡が残りましたが、退院することが出来ました。 そして彼女は、放火の犯人の男がなぜあんなことをしたのだろう、きっと何 か訳があるに違いない、と思い、その裁判に傍聴するようになりました。 そして、段々その男の境遇を知り、そしてそれが自分の境遇と似ていること を思った、というのです。 その犯人は2歳のとき、事故で母を亡くし、2度目の母も1年余りで離婚 し、極貧の中で母親の愛情を知らずに育ちました。 19歳になると、父も病死し、本人は29歳で結婚しますが、1年足らずに 離婚し、息子を施設に預けるというような生活でした。 そういう矢先にちょっとしたむしゃくしゃした気持ちの時に、気がついてみ ればバスを放火していた、というのです。 石井美津子さんは、そういう犯人の境遇を知って泣き、どうしても憎む気に はなれなかった、と言います。 妹は、「あんな犯人憎むべきだ」と言いますが、彼女は、かえって獄にいる 犯人を「もう一度やりなおしませんか」と言って一生懸命励ますのです。 裁判の席で、犯人は、傍聴に来ていた彼女に深々と頭を下げて、「すいませ んでした。申し訳ありませんでした」と何度もあやまった、ということで す。 このような目にあった人は、犯人が憎い、そして「殺してやりたい」という 気持ちを持つことが多いと思います。 この全身やけどをおわされた石井美津子という人も最初は犯人が憎くて憎く てしょうがなかったそうですが、「自分自身から『憎む』という感情が捨て られたとき、『償い』を得られた」と言っています。 憎むという所からは何も生産的なことは出てきません。 許すということから、また相手を生かすことになるのです。 彼女が信仰をもっている人かどうかは知りません。 しかし、このような人を許す力は、神から与えられたものであると思いま す。 イエスは、山上の説教で、 「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞い ているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、 迫害する者のために祈れ。 と言われました。 これはイエス自身のことです。 イエスは、まさに敵を愛し、迫害する者のために祈られました。 そしてイエスは、この恵みを私達に下さったのです。 私達は、この大いなる恵みをイエスから賜っていることを覚え、この恵みに 答えて生きるものでありたいと思います。 (1993年3月14日)