ローマ人への手紙13章8−14節
「昼歩くように」
8節。 互いに人を愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人 を愛する者は、律法を全うするのである。 ローマ人への手紙は、12章からは、キリストの生き方についての勧めが述 べられています。 そのキリスト者の生き方の最も中心は、愛ということでしょう。 そしてここでパウロは、愛は律法を完成する、と言っています。 旧約聖書において与えられた律法も、詰まる所は愛だ、ということです。 そしてこれは、イエスも同じことを言っています。 マタイによる福音書22章37−40節。(P.37) イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、 主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめ である。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り 人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、か かっている」。 しかし、自分を愛するように、すなわち自分と同じ位に相手を愛するという ことは、実は中々難しいことです。 パウロが伝道した教会においても、しばしば争い事が起こったことが記され ています。 ここにおいてはまず、私達が神によってこよなく愛されている、という自覚 が必要です。 そしてその愛に応えて、私達も隣り人を愛することができるのではないでし ょうか。 11節。 なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねば ならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにき ている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっ と近づいているからである。 ここでパウロは、「時を知っている」と言っています。 この「時」は、ギリシア語ではκαιροsと言います。 ギリシア語には、時を表す語がもう一つあり、それはχρονοsと言います。 χρονοsは年代記のことで、例えば1992年から1993年に変わるとか、 1993年4月25日に何かかが起こったというような場合の時のことで す。 一方καιροsは、何年何月というようなことではなく、内容的なこと、意味の ある時を表します。 特に聖書では、キリストの到来によって新しい時が始まった、というような ときにκαιροsを使います。 イエスが公生涯の初めに宣べられた言葉は、 時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。 というものでしたが、この「時」はκαιροsです。 καιροsは、キリストによってもたらされた時だ、ということが言えます。 ここでパウロが、ローマの信者たちに「あなたがたは時を知っている」と言 っているのは、キリストの福音を伝えられて新しくなった時です。 また、彼らがバプテスマを受けて、古い自分から新しい自分に変えられた時 を言っています。 また、私達にとっても、洗礼を受けて古い自分に死んで新しく生まれ変わっ た時は、καιροsだ、ということができるでしょう。 ローマの信者にとっても、キリストの福音によって、古い時は終わり、新し い時が始まったのです。 当時のローマ帝国の時代は、Pax Romana(ローマの平和)と言われ、世界 史的には、大きな戦争もなく平和な、そして繁栄した時代でした。 しかしそれは、表面的な繁栄であって、キリストのもたらした新しい時とは 対立するものでした。 それゆえパウロにとっては、当時のローマの時代は、闇の時代でした。 繁栄したローマ社会は、パウロにとっては、13節にあるように、宴楽と泥 酔、淫乱と好色、争いとねたみといった現実でした。 宴楽と泥酔ありますが、当時のローマ社会においては、ギリシアの酒の神デ ュオニソス(これはローマではバッカスと言われていたが)を祝う祭りにお いて、人々は酒に酔い、騒ぐのを習慣としていました。 泥酔することによって、人間は理性を失い、いろいろな過ちを犯します。 淫乱と好色とありますが、当時のローマ社会においては、道徳的には非常に 退廃しており、風紀の乱れは著しかった、ということです。 ローマ人への手紙1章の所には、同性愛のことが言われていますが、当時の ローマ社会においては、珍しいことではなかったようです。 争いと妬みとありますが、このようなことも日常茶飯であったようです。 特に権力者の間で、よくあったようです。 当時のローマ皇帝は、クラウディウスという人でした。 彼は、アグリッピナという女性と結婚しますが、この女性は以前の夫との間 にあった息子を連れ子にしていました。 それがネロという男でした。 そして、アグリッピナは、夫である皇帝を毒殺し、自分の息子のネロを皇帝 につけます。 ネロは、前の皇帝クラウディウスの実子であったブリタニクスを毒殺しま す。 ネロは非常に猜疑心の強い人であったようで、自分に反対する者を次々と殺 し、ついには自分を皇帝につけた母のアグリッピナさえも殺します。 また、自分の妻に対しても疑いをもち、殺します。 しかし、このようなことから、元老院からも信頼を失い、ついに彼は自殺を してしまいます。 このネロは、キリスト教の迫害者で有名です。 ローマの町に自ら放火し、その責任をキリスト信徒に負わせたのでした。 私達がコリントに行った時、そこの博物館にネロの肖像がありました。 異常性格とも思える残忍な男であったので、さぞ変な顔をしているかと思っ たら、非常に端正な顔をしており、ちょっと意外でした。 とにかく、ネロのことは一例ですが、当時のローマ社会にはこのような争い が絶えなかったのです。 こういう中にあって、ローマの信者たちは、こういうローマ風の生き方か らは決別したのです。 しかしややもすると、また元の生き方へと逆戻りする、ということもあった のです。 パウロは、そのことを戒めているのです。 表面的な繁栄と平和は、闇の行為でしかありません。 そこでパウロは、「昼歩くように、つつましく歩こうではないか」と勧めて います。 すなわち、だれに対しても、恥じる所のない生き方です。 今の日本も、表面的には平和と繁栄を誇っています。 しかし、ここで「闇のわざ」と言われているようなことが実に多く行われて いるのではないでしょうか。 人に分からない所で、ありとあらゆる不正が行われています。 金丸氏に見られるような政治家の汚職も、ほんの一例であって、このような ことが日本中で日常茶飯事に行われているとも言われています。 また、陰湿ないじめも多くの所で行われています。 14節。 あなたがた、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心 を向けてはならない。 パウロは、「キリストを着る」という変わった言い方をしばしばしていま す。 例えば、ガラテヤ人への手紙3章27節。(P.297) キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たの である。 「キリストを着る」というのは、キリストにすべてを委ねるということで す。 そして、ここから新しい生き方が生まれるのです。 アウグスチヌスという古代末期の有名な神学者は、このローマ人への手紙1 3章の終わりの言葉によって回心した、と言われています。 アウグスチヌスの『告白』という本に次のようにあります。 わたしはこう言いながら、心を打ち砕かれ、ひどく苦い悔恨の涙にくれ て泣いていました。すると、どうでしょう。隣の家から繰り返し歌うよ うな調子で、少年か少女が知りませんが、『取りて、読め。取りて、読 め』という声が聞こえてきたのです。・・・これは聖書を開いて、最 初に目にとまった章を読めとの神の命令に違いないと解釈したのです。 ・・・そこにわたしは、立ち上がった時に、使徒の書を置いてあったの です。それをひったくり、ひらき、最初に目にふれた章を、黙って読み ました。 隣の家から聞こえてきた子供の声は、アウグスティヌスにとっては、神より の啓示の声に聞こえたのです。 その時開いて読んだ聖句が、この13−14節だったのです。 この節を読み終わったとき、いわば安心の光とでもいったものが、心の 中に注ぎこまれてきて、すべての疑いの闇は消えうせてしまった。 と言っています。 彼は確かにそれまでは、やみのわざのような自堕落な生活をしていました が、この回心を通して、「昼歩くように」変えられたのでした。 私達も、常に、昼歩くように、キリストに新しくされた者にふさわしい歩み をなしたいと思います。 (1993年4月25日)