ローマ人への手紙14章1−12節

「わたしたちは主のもの」



 ローマ人への手紙を学んでいますが、ローマ人への手紙は12章から、パ
ウロはローマの教会の信者にキリスト者の生き方について勧めをなしていま
す。
彼はまず最初に、12章1節のところで、

  あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてさ
  さげなさい。

と勧めました。
そしてそれが、「霊的な礼拝」である、と言いました。
それから、12章、13章と、キリスト者としての具体的な勧めがなされてき
ました。
そして今日の所では、「信仰の弱い者を受け入れなさい」という勧めがなさ
れています。
 ローマの教会の中には、何を食べてもさしつかえないと考える「信仰の強
い者」と、野菜だけしか食べない「信仰の弱い者」とがいたということで
す。
そして、信仰の強い者は、弱い者を軽んじ、弱い者は強い者を裁いていた、
というのです。
そこでパウロは、次のように勧めます。3節。

  食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさ
  ばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

パウロはここで「受け入れる」ということを勧めています。
私達は、しばしば自己中心的で、自分と違う人は、中々受け入れません。
12章の6節でパウロも言っていますように、私達は神よりそれぞれ異なっ
た賜物を頂いています。
それゆえ私達は皆、同じではなく、それぞれ違っていますし、そしてそれ
が、人間の豊かさになっていると思います。
しかし、人間はしばしば、自分を中心に考え、ある場合は自己を絶対化し、
自分と意見の違う人、自分と趣味の違う人、自分と能力の違う人というもの
を中々受け入れることが出来ません。
ややもするとそういう人を軽んじたり、裁いたりしがちです。
ここで、「食べない者」と言われているのは、2節にありますように、「野
菜だけしか食べない」すなわち、肉を食べない菜食主義の人たちでした。
何故彼らが肉を食べなかったのか、ははっきりとは分かりません。
彼らは、ユダヤ人であった、という意見もあります。
というのは、当時のローマの社会では、肉はいったん異教の偶像に捧げられ
たのを市場で売るという習慣になっていましたが、ユダヤ人たちはそのよう
な異教にささげられた肉は食べなかったからです。
コリントの教会では、このような肉をキリスト者が食べてもよいのか、とい
うことが問題になっていたということが、コリント人への第一の手紙に記さ
れています。
しかし、ここの「野菜だけを食べる者」は、ユダヤ人であったというのでは
ないでしょう。
恐らく何かの信念において、菜食主義を守っていた人でしょう。
これは、これまでの宗教的な習慣だったのかも知れません。
あるいは、健康上の理由であったかも知れません。
現代に至るまで、菜食主義の人というのは、結構いるものです。
国際的な場に行けば、食事の習慣の違いというのは、結構あるものです。
私の属している旧約学会においても、「食事の注文がある人は申し出て下さ
い」という案内があることがあります。
ユダヤ教の人が参加する時があるからです。
先日も申しましたが、ユダヤ教の人は、食べてはいけないものがあるからで
す。
このような時に大切なのは、「郷に入れば郷に従え」というのではなく、他
の人の生活・習慣を理解し合う、ということです。
パウロは、いろいろな国々に伝道しましたので、このようなことには、実に
配慮があったようです。
パウロは、キリスト教の熱心な伝道者だったので、非常に頑固で、自分とは
異なるものを認めなかったような印象をもつかも知れませんが、決してそう
ではありませんでした。
むしろ、非常に寛容で、他の立場や、違ったものを認め、受け入れ、配慮を
しました。
コリント人への第一の手紙9章の20節と22節には、次のようにありま
す。(P.266)

  ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。
  律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下に
  ある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
  弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対
  しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためで
  ある。

パウロは、頑固で融通のきかない人では決してなく、むしろ非常に忍耐深
い、寛容な人であったということが分かります。
 私達人間は、皆同じという訳ではありません。
それぞれ皆違うのです。
そしてパウロは、そういう違う立場の者を受けいれなさい、と勧めていま
す。
そしてそれは、「神が私達を受けいれて下さったからだ」と言います。
私達は、神とははなはだ違う者です。
「神のような人」というのは、いないでしょう。
にもかかわらず、神は余りにも違う私達を受けいれて下さったのです。
ここには、神の寛容と忍耐があります。
このように、神が私達を受けいれて下さったのであるから、私達も互いに受
けいれなさい、とパウロは言います。
パウロだけに限らず、聖書において勧めがなされる時、それは、私達に一方
的に押し付ける戒めというものではありません。
まず、神がその何倍ものことを既に私達に示して下さっているのです。
そして、それに応えて、その何分の1かのことを私達がなす、ということで
す。
ヨハネの第一の手紙4章11節には、次にようにあります。(P.380)

  愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのである
  から、わたしたちも互いに愛し合うべきである。

ここでも、頭ごなしに「互いに愛し合いなさい」と命令が言われているので
はなく、神がまず私達を愛して下さった、ということが言われています。
そして、それに応えて、私達も、その大いなる神の愛のほんの何分の1位の
ものを行う、ということです。
ここで、他の人を受けいれなさい、という勧めを聞く時、私達はまず、この
ような私達を神が忍耐と寛容をもって受けいれて下さっている、ということ
を思うべきです。
 私達の生活習慣や物の考え方が違うということは、実にいろいろなところ
であると思います。
ローマの教会の信者たちの間でも、実にいろいろな違いがあったようです。
5節には次のようなことが言われています。

  また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人は
  どの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信をもっておる
  べきである。

ある特定の日を大事にするということなどは、一種の迷信のような気もしま
す。
日本にも、大安だとか友引などという日があって、このような日を非常に気
にする人もいます。
私などは、このような日は元々仏教の習慣ということもあって、一向に気に
しません。
仏滅の日に結婚式をしようが、友引の日に葬式をしようが一向に気にしませ
ん。
しかし自分がそのようなことを気にしないとしても、そういう日を気にして
いる人も、受けいれるということも必要だ、とパウロは言います。
熱心な信仰の持主であったパウロですが、非常に寛容で、いささか驚きで
す。
こういう点を毅然とするということの方が信仰的ではないか、という思いも
します。
しかしパウロは、意外にも、こういう点で非常に寛容です。
これは、自分の考え方が絶対的というのでなく、いろんな考え方を認め合
う、ということではないでしょうか。
そしてこれは、他の宗教に対する態度にも言えるのではないでしょうか。
私達は勿論、聖書に示されている神が唯一の神として信じていますが、だか
らと言って他の宗教を信じている人を軽蔑したり、敵視したり、排斥すると
いうことは間違っているのではないでしょうか。
むしろお互い受けいれ合って、手を取り合える所は合っていくということが
大切なのではないでしょうか。
 しかしこれは、他に妥協するということではありません。
キリスト教を信じつつ、他の宗教の習慣にも参加したり、従って行く、とい
うのではありません。
相手の立場も認めるが、自分の立場も認めてもらうということです。
パウロは、12章2節において、

  あなたがたは、この世と妥協してはならない。

と言っています。
先程の5節の所でも、

  各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

と言っています。
自分の信仰には確信を持つ、ということが大切です。
他の者の立場を理解し、認め合い、受けいれあう、ということと、他と妥協
するということとは違います。
 そしてパウロは、そのように他の立場の者を受けいれ合うことは、主のた
めだ、と言います。
8節。

  わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。
  だから、生きるにしても、わたしたちは主のものなのである。

私達は、日ごろ「自分、自分」ということが強いのではないでしょうか。
そしてそのために、他の人を理解することができず、他の人を受け入れるこ
とも中々できません。
しかし、私達は、主によって生かされたものです。
私達は、本来、罪によって、死に定められた者です。
その私達の罪を救うためにキリストが十字架にかかって下さったのです。
ここに私達の生と、それから死もあります。
9節に、

  なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返
  られたからである。

とあります。
ですから、私達は、生きるにしても、死ぬにしても、主のものなのです。
それをあたかも自分のものであるかのように考え振る舞う所に、他の者に対
する不寛容と無理解が生じるのです。
私も、また他の者も、主によって生かされた者である、という自覚が大切で
はないでしょうか。
そこからお互いに尊重し合うという態度が出てくるのではないでしょうか。
「わたしたちは主のものである」いな、「わたしたちは主のものとされてい
る」という恵みに入れられている、ということを覚えたいと思います。

(1993年5月23日)