ローマ人への手紙14章13−23節

「互いの徳を高める」



 13節。

  それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むし
  ろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置か
  ないことに、決めるがよい。

前の所で、ローマの教会には、何を食べてもさしつかえないと信じていた強
い者と、野菜しか食べない弱い者がいて、お互いに裁き合っていた、という
ことが言われていました。
人間は、常に自分中心的であり、自分の物差しが正しく、他を自分の物差し
に合わせようとし勝ちです。
何をたべても差し支えないと考えていた人は、自分の考えに自信があり、野
菜しか食べない者を弱いものだと、軽んじていたのです。
また、野菜しか食べない者は、それが正しいと考え、肉を食べる人を不信仰
だと裁いていたのです。
人間は皆自分の主義や主張があります。
それを持つこと自体は間違ったことではありません。
パウロも、5節の所で、

  各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

と言っています。
しかしその自分の確信というのは、決して絶対ではありません。
他の人は、その人の確信を持っている訳です。
ですから、自分の確信を絶対だとして、他を裁くのでなく、他の確信を持っ
ている人も受け入れる、ということが大切だ、とパウロは言うのです。
パウロはここで、「互いにさばき合うことをやめよう」と言っていますが、
イエスも同じように言っています。
マタイによる福音書7章1−5節。(P.9)

  人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそ
  のさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分に
  も量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自
  分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして
  兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えよう
  か。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、
  はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることがで
  きるであろう。

ここでイエスが批判しているのは、パリサイ人たちのことです。
パリサイ人たちは、自分たちは常に正しいことをしていると自負していて、
他の人を批判していたのですが、イエスの目からは、両者とも同じである、
というのです。
梁とちりというのは、はなはだ極端ですが、自分の過ちに気付かずに、他人
ばかりを裁く者に対して、このようにいささかオーバーに言っているので
す。
いつの時代でも互いにさばき合うということは、人間の常である。
しかし、裁き合う所からは、何も生産的なものは出てきません。
そこでパウロは、「互いにさばき合うことをやめよう」と勧めています。
14節。

  わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れて
  いるものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚
  れているのである。

ユダヤ人には、細かな食事の規定がありました。
その一つに、コーシェルという規定があります。
これは食べてもいいものと食べてはいけないものとの規定で、詳しくはレビ
記11章に記されています
それによりますと、清い動物と汚れた動物があって、清い動物は食べること
ができますが、汚れた動物は食べてはならない、というものです。
これは、現代でも厳格なユダヤ人たちは、守っています。
しかし、使徒行伝の11章を見ますと、ある時ペテロは、夢で神からその汚
れた動物を食べるように命じられました。
そこで、ペテロは、(8節)

  主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたも
  のを口に入れたことが一度もございません。

と言って、拒否しました。
ペテロは、ガリラヤの漁師でしたが、やはりユダヤ人でしたので、小さい時
からその食事の規定は厳格に守っていたのです。
ところが、天から、

  神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。

という声が聞こえた、というのです。
ですから、清い動物、汚れた動物というのも、決して絶対的なものではな
く、ある場合は、神ご自身が汚れた動物を食べなさい、というのです。
ここでもパウロは、「汚れていると考える人にだけ、汚れているのである」
と言って、当時のユダヤ人には絶対的だと思われていた律法の規定を相対化
しています。
聖書の御言も、その一つの文章だけを取り上げて、ここにはこう書いてあ
る、と言って、狭く限定してしまうことが往々にしてあります。
しかし、聖書は、一字一句を文字通りに受け取るのでなく、聖書全体で何を
言おうとしているのかを念頭に置いて、解釈する必要があります。
イエスは、まさにそうであったと思います。
すなわち、パリサイ人たちにとっては非常に重要だった安息日の規定を破っ
たのですが、それは、もっと大切な病人を癒すためだったのです。
 17節。

  神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

「義」というのは、神との正しい関係を言います。
神の前に正しいことを言います。
しかし、罪に汚れた人間は果たして神の前に正しいでしょうか。
パウロは、この問題をローマ人への手紙の最初の方で扱っています。
そして詩篇を引用して、

  義人はいない、ひとりもいない。

と言っています。
そして、3章28節において、

  人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのであ
  る。

と言っています。
義人はいない、神の前に正しい人はいませんが、イエス・キリストの十字架
の贖いを信じる信仰によって義と認められるのです。
今日の所の15節に、

  キリストは彼のためにも、死なれたのである。

と言われています。
キリストは、神の前に正しくない、弱い私達のために死なれたのです。
そしてそれを信じることによって、私達は正しい者と認められるのです。
これが、パウロの最も主張している信仰ですし、またキリスト教信仰の中心
と言えるものです。
 次に「平和」とあります。
これは、単に争い事がない、というだけでなく、やはり神の目から見て好ま
しい状態をいいます。
ですから、お互いにさばき合っている状態は、たとえそこに表立った争いが
ないとしても、平和とは言えないのです。
 次に「聖霊における喜び」とあります。
自分の生活を喜ぶことのできる人は幸せだと思います。
しかし、その喜びにもいろんな種類のものがあります。
往々にして私達の喜びも、自己本位のものが多いのではないでしょうか。
いくら喜びであっても、他人を悲しませての喜び、他人を犠牲にしての喜び
であれば、真の喜びとは言えません。
ここでは、「聖霊における喜び」と言われています。
これは自己本位ではない、神の喜びを自分の喜びとする喜びです。
パウロは、12章15節のところで、

  喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

と言っています。
このようなのが、「聖霊における喜び」ということでしょう。
自分が喜ぶというよりも、神に喜ばれる、ということが大事なのではないで
しょうか。
パウロは、ローマ人への手紙において、12章からは、キリスト者の生き方
について勧めていますが、その一番最初のところで、「何が神に喜ばれるか
をわきまえ知るべきだ」と言っています。
12章2節。

  あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにする
  ことによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であっ
  て、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

私達の生活において、何が神に喜ばれるか、ということを考えることは非常
に重要だと思います。
ただ、自分だけの喜びを追い求めるのでなく、何をすれば神が喜び給うか、
ということを問うことは、私達にとって大切なことであると思います。
そしてここではパウロは、神に喜ばれることは、互いにさばき合うことでは
なく、互いの徳を高めることだ、と言っています。
19節。

  こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い
  求めようではないか。

パウロは、今日の所の一番最初に、「互いにさばき合うことをやめよう」と
勧めました。
さばき合うことの反対は、互いの徳を高める、ということです。
この互いの徳を高めるということは、難しいことかもしれません。
これは、お世辞を言ったり、ゴマをすったりして、相手を気分よくさせる、
ということではありません。
そうではなく、その人のありのままを受けいれる、ということなのです。
その人が自分と同じく、神に愛されている人だ、ということを受け入れるこ
となのです。
私達も、互いにさばき合うのでなく、互いに徳を高めるものでありたいと思
います。

(1993年6月20日)