ローマ人への手紙15章1−6節

「他を喜ばせる」



1節。

  わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自
  分だけを喜ばせることをしてはならない。         

ここでパウロは、「強い者」は「弱い者」を配慮すべきだ、ということを言
っています。
どこの社会にも、「強い者」と「弱い者」とがいます。
そして14章に言われていたように、ローマの教会にもそのような区別があ
ったようです。
自然界は、弱肉強食の世界です。
強い動物は、弱い動物を犠牲にして生きています。
そして、弱い動物も、より弱い動物を犠牲にして生きています。
それは自然界の厳しい掟ですが、またそのようにして、自然界はバランスを
取っているとも言われています。
そして、人間の世界も、ある意味では弱肉強食的な面があります。
常に、強い者が世の中で有利に生きている、ということがあります。
力のある者、お金のある者、地位のある者、影響力のある者、などが世の中
ではばをきかせているように見えます。
そして、古代社会ではなおさらだったでしょう。
聖書においても、例えばアモス書には、当時の上層階級は、貧しい者をしえ
たげて、自分たちだけがぜいたくにくらしていた、として預言者に批判され
ています。
古代社会においては、強い者が弱い者を食い物にしていた、というのはごく
一般的であったでしょう。
しかしそのような中にあって、聖書においては、非常に古い時代から、弱者
に配慮しなければならない、ということが主張されています。
旧約聖書の法にはしばしば、そのことが主張されています。
例えば外国人やみなしご、寡婦などは保護しなければならない、ということ
が言われています。
出エジプト記22章21−22節。(P.106)

  あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげて
  はならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であ
  ったからである。あなたがたはすべての寡婦、または孤児を悩ましては
  ならない。

別の法では、このような外国人や寡婦や孤児などの弱い立場の者に、農民は
土地の農作物を分け与えなければならない、というものもあります。
それだけでなく、動物界においても弱肉強食という現実は、問題があり、や
がて終わりの時にはそれがなくなり、真の平和が来る、と言われています。
イザヤ書11章6−8節。(P.957)

  おおかみは小羊と共にやどり、
  ひょうは子やぎと共に伏し、
  子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、
  小さいわらべに導かれ、
  雌牛と熊とは食い物を共にし、
  牛の子と熊の子と共に伏し、
  ししは牛のようにわらを食い、
  乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、
  乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

これはイザヤのユートピアですが、彼は、動物界の弱肉強食というものも、
良い形ではなく、やがて終わりの日には、肉食動物と草食動物が平和に暮ら
すことを夢見ています。
聖書において、強い者が弱い者を虐げるのは、決して良いことではなく、む
しろ強い者は弱い者を配慮しなければならない、というのです。
 今日の所でパウロは、「わたしたち強い者は」と言って、自分も強い者の
一人であるとしています。
これは恐らく、信仰的に強いということかも知れません。
あるいは、人間的にしっかりしている、ということかも知れません。
あるいは、パウロは非常に教養もあり、ローマの市民権をもっていましたか
ら、そのような社会的なことを言っているのかも知れません。
とにかくパウロは、自分を配慮される側にではなく、配慮する側に身を置い
ているのです。
私達人間は、自己中心的であり、人のことを配慮するよりは、人から配慮さ
れることを望みます。
人にしてあげることよりも、人からしてもらうことを望みます。
人間の不満には往々にして、人から「・・・をしてもらえない」ということ
があります。
その場合、人にしてもらえなかったことだけに注目して、自分がどれだけ人
にしてあげたか、ということは余り考えないのです。
しかし、それを逆転することができれば、その人は本当に心の豊かな人であ
ると思います。
人からしてもらうというのではなく、人にしてあげるという方が、心が豊か
だと思います。
イエスは、「受けるよりは、与える方がさいわいである」と言われました。
聖フランシスコによる「平和の祈り」というのがあります。
そこには次のようにあります。

  神よ、わたしにのぞませてください。
  慰められるよりも、慰めることを、
  理解されるよりも、理解することを、
  愛されるよりも、愛することを。

私達の祈りもややもすると、神に「・・・をして下さい」という祈りが多い
のではないでしょうか。
しかし本当は、私達は神のために何かをなすことの方が重要なのではないで
しょうか。
多くの場合私達は、人を喜ばすことよりも、自分が喜ぶことを望みます。
そのような私達に対してパウロは、「自分だけを喜ばせることをしてはなら
ない」と勧めます。
2節。

  わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図っ
  て彼らを喜ばすべきである。

ピリピ人への手紙2章4節には、

  おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。

とあります。
しかし、他人を喜ばすということは、そう容易なことではありません。
現代の、特に競争社会にあって、多くの人は、他人の幸福を求めるよりは、
自分の幸福を求める傾向にあります。
あるいは、他人を蹴落としてでも、自分が成功することを望むような社会で
す。
そのような風潮にあって、私達もややもすると自己中心的な思いに支配され
てしまうのではないでしょうか。
なかなか「隣り人の徳を高める」ということはできません。
しかし、私達には中々そのことが難しくても、「他を喜ばせる」ことに徹さ
れたキリストがいます。
3節。

  キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あな
  たをそしる者のそしりがわたしに降りかかった」と書いてあるとおりで
  あった。

この括弧の言葉は、詩篇69篇からの引用です。
キリストの生涯は、与えられる生涯というよりは、与える生涯でした。
彼は、「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのであ
る」と言われました。
そしてその通り、ついにはご自分の命と引き換えに、私達に永遠の命を下
さったのです。
キリストの十字架の死は、とりもなおさず、私達を救いに入れるためでし
た。
キリストは、まさに、私達を大いなる喜びに入れるために、ご自身は最も大
きな苦しみを負われたのでした。
私達は、この大いなる喜びに入れられているのですから、私達もその何分の
1かの喜びを他の人に与えることができれば、と思います。
4節。

  これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれた
  のであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだか
  せるためである。

ここでパウロは、聖書というものは、私達に「忍耐と慰めと望み」を与える
ものだ、と言っています。
パウロの当時は、まだ新約聖書は成立していませんでしたので、ここで「聖
書」と言われているのは、旧約聖書のことです。
これは、パウロが日々の生活を歩んでいた時に感じた実際の感想です。
彼は、常に聖書に親しんでいましたが、聖書の御言からある時は「忍耐」
を、ある時は「慰め」を、ある時は「望み」を与えられたのです。
聖書は、単なる書物というのでなく、生きて私達に働きかける力です。
私達が苦しい時、聖書を読むことによって、「耐え忍ぶ」力が与えられま
す。
また私達が悲しみにあった時、聖書からまことの「慰め」が与えられます。
この慰めは、私達の生活においても最も大切なものではないでしょうか。
ハイデルベルク信仰問答の最初の問いは、「私達の唯一の慰めは何ですか」
というものです。
そして聖書こそが、私達に真の慰めを与えてくれる唯一のものです。
また、私達が、絶望している時に、聖書は「望み」を与えてくれます。
そういう意味では、私達は常に聖書に親しむ必要があります。
5−6節。

  どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスになら
  って互いに同じ思いをいだかせ、こうして、心をひとつにし、声を合わ
  せて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さ
  るように。

ここでパウロは、聖書の神を「忍耐と慰めとの神」と言い表しています。
これは、私達に忍耐と慰めを与えて下さる神、ということです。
新共同訳聖書では、「忍耐と慰めの源である神」と訳されています。
そしてパウロは、この忍耐と慰めを与えて下さる神をあがめることが大切
だ、と言います。
今日の箇所は、神を礼拝することで結んでいます。
「声を合わせて」というのは、礼拝における讃美を表しています。
私達の歩みの源は、礼拝にあるのです。
この礼拝において、私達は忍耐を学び、慰めが与えられ、また望みが得られ
ます。
そして、自己中心的な思いが変えられ、他の人を喜ばせることが出来る心を
与えられるのです。

(1993年7月4日)