ローマ人への手紙15章7−13節

「神の栄光をあらわす」



 7節。

  こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、
  あなたがたも互いに受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。

ここでパウロは、もう一度「互いに受けいれなさい」という勧告をしていま
す。
これは14章の1節で言われました。
そしてそこでは、「信仰の弱い者を受けいれなさい」と勧められていまし
た。
受け入れるというのは、相手を理解する、ということです。
ここで「弱い者」と言われたのは、ローマの教会において、野菜だけしか食
べなかった人のことでした。
しかし、「弱い者」はいろんな意味に解することができるでしょう。
私達は、いろいろな意味で弱い立場の人達を配慮しなければなりません。
私達は、常に自分を中心に物事を考える傾向があり、弱い立場の人のことを
理解できない場合が多いのではないでしょうか。
ローマの教会では、肉を自由に食べる人は、菜食主義の人のことを理解でき
なかったようです。
彼らは弱い人間だとして、軽んじていたようです。
健康な人は、病気の人の苦しみを中々理解できません。
また、健丈者は、障害をもつ人のことを中々理解できません。
また、若い人は、老人のことを中々理解できません。
それは悪気はなくても、気がつかないということがあります。
私達は、今度新会堂を立てる時、障害をもった方やお年寄りの方々を出来る
だけ配慮することを心掛けました。
そのためにエレベーターを設置したり、障害者用のトイレを作ったり、耳の
遠い方のためのイヤホンを設置したり、車椅子を備えたりしました。
しかしながら、気がつかない所で、まだまだ配慮の足りない所もあるのでは
ないかと思います。
自分さえ満足であればいい、自分さえ不足がなければいい、というのではい
けないと思います。
私達は、相手のことを本当に理解するということが大切です。
「キリストもわたしたちを受けいれて下さった」とありますが、キリストは
私達弱い人間を理解し、私達を受け入れて下さったのです。
 さてパウロはここで、「互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきであ
る」、と言っています。
これは、互いに受け入れることは、神の栄光を現すことなのだ、ということ
です。
神の栄光を現すのは、何も礼拝において讃美歌を歌ったり、お祈りをしたり
することだけではありません。
弱い立場の人を理解し配慮することも神の栄光を現すことなのだ、とパウロ
は言います。
イエスは、マタイによる福音書25章40節において、(P.43)

  あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい
  者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである

と言っています。
 ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちは、この世の仕事をすることも
神の栄光を現すことなのだ、と言いました。
これは、画期的なことでした。
といいますのは、中世においては、神の栄光を現すのは、讃美とか祈りにお
いてであって、この世の労働は(すなわち金儲け)は、卑しいことだ、と考
えられていたからです。
そういう卑しい仕事は、身分の低い者のすることだ、と考えられたのです。
それゆえ、労働に一生懸命になるということは余りなかったのです。
ルターは、聖書をドイツ語に訳した時、職業をBeruf、すなわち神による
「召し」と訳したのです。
お金儲けである卑しい仕事が、神の召しである、と。
また、カルヴァンは、この世の仕事をすることが、神の栄光を現すことだ、
と言ったのです。
そこで、プロテスタントの信者の間に産業革命を担うような手工業者が増え
た、と言われます。
 8−9節前半。

  わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある
  者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異
  邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである。

「割礼のある者」というのは、ユダヤ人のことです。
パウロはここで、キリストはユダヤ人に仕え、異邦人に憐れみを授けた、と
言います。
初期のキリスト教会にとって、このユダヤ人と異邦人の問題は大きな問題で
した。
パウロは、ユダヤ人も異邦人もない、すなわち同じだ、という考えでした。
パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節で次のように言っています。
(P.297)

  もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女も
  ない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

しかし、今日の所の8節に「父祖たちの受けた約束」とあるように、ユダヤ
人の多くは自分たちは特別の民であって、異邦人とは区別されているのだ、
という意識がありました。
そしてその意識は、時々、他の者に対する偏見となりました。
このような民族主義的な傾向は、いつの時代にもあります。
現代においても、旧ユーゴスラビアにおいては、民族と民族の争いが後を断
ちません。
また、イスラエルとアラブの紛争も繰り返されています。
日本もかつて、自分たちの民族は優秀なのだ、として、アジアの国々を偏見
し、侵略した歴史があります。
そしてまた、民族と民族の争いは、宗教と宗教の争いにもなります。
キリストは、そのような争いを終わらせようとして十字架にかかられたので
す。
エペソ人への手紙2章14−16節。(p.302)

  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意と
  いう隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っ
  ている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのも
  のをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、
  二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて
  滅ぼしてしまったのである。

キリストは、民族という隔てを取り除くために自らは十字架にかかられたの
です。
それゆえに、キリストをあがめることによって、平和がもたらされるので
す。
9節から12節までの括弧は、旧約聖書からの引用です。
これらにおいて異邦人が神をあがめる、ということが言われています。
11節。

  また、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。
  もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。

イスラエルの民だけでなく、すべての民が主をたたえるために招かれている
のです。
神は、私達すべての人間を、民族やあらゆる差別を取り除いて、救いに入れ
ようとされているのです。
ですから私達は、この真の主なる神の栄光をあらわすべきなのです。
教会は、何よりもまず、この神の栄光をあらわすことを使命としています。
私達は、今新しい教会を建設し、もう完成し、8月29日より新しい会堂で
礼拝をすることができますが、この新しい会堂においても、何よりもまず、
私達は心を一つにして、神の栄光をあらわさなければならないと思います。
 13節。

  どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたが
  たに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下
  さるように。

ここでパウロは、ローマの教会の人々のために、祝祷をしています。
祝祷と言えば、私達の礼拝の最後になされるものです。
この祝祷は、パウロの手紙の最後の所にあるものを引用しています。
代表的なのは、コリント人への第二の手紙の最後の祝祷です。
パウロは、手紙を終えるときは必ず、その宛て先の教会のために、神の祝福
を祈って終わっています。
その祝福の言葉を、教会では礼拝の最後の祝祷に取り入れたのです。
しかしパウロは、ここの所のように、時々、手紙の途中でも祝祷をしていま
す。
パウロは、常に、手紙を送る相手教会が、神の祝福を豊かに受けることを願
っているのです。
 さて、この祝祷において、パウロは、神を「望みの神」と呼んでいます。
5節の所では、「忍耐と慰めとの神」と言われました。
私達の信じる聖書の神は、何よりも「望みの神」です。
「望みの神」というのは、私達に望みを与える神です。
その望みは、一時的に喜ばせるが、やがて失望させるようなこの世の望みで
はありません。
この世の望みは、しばしばその後失望させられることが多いです。
この度、衆議院の総選挙で自民党が過半数を取ることが出来ず、非自民の連
立政権が樹立する運びになりました。
37年間自民党の一党独裁による政治で、いろいろ腐敗が行われてきただけ
に、私達の期待も大きいものがあります。
しかし、このような望みもやがて失望に終わるのではないかという不安もあ
ります。
余り望みを置き過ぎない方がいいかも知れません。
それは、人間的な望みは余り当てにならないからです。
しかし、聖書の神に望みを置くなら、それは決して失望に終わることはあり
ません。
ローマ人への手紙5章5節に次のようにありました。

  そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っ
  ている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからであ
  る。

パウロは、ここの祝祷において、私達が喜びと平安と望みに満たされるよう
に、と祈っています。
いずれも、私達にとっては、理想的な状態ではないでしょうか。
もし、私達の毎日の生活が喜びと平安と望みに満ちていたら、どれほどいい
でしょうか。
これは私達の心掛けや努力といったものでは、中々手にすることはできない
でしょう。
私達は、今日喜びに満たされたかと思うと明日はもう悲しみにあい、平安も
もったと思うと不安に陥り、望みが与えられた翌日には失望になる、という
ことがよくあるのではないでしょうか。
ここでパウロは、ローマの教会の人たちに、あなたたちの努力によって、喜
びと平安と望みを抱きなさい、と言ってはいません。
そうではなく、「望みの神が」と言っています。
主語はあくまで神です。
また、「聖霊の力によって」と言っています。
また、「信仰から来るあらゆる喜びと平安」と言っています。
すなわち、喜びや平安は、信仰から来るのです。
聖霊によってもたらされるのです。
私達が、聖書に証されている神が「望みの神」であると信じる時、そしてそ
の神の栄光をあらわす時、私達に喜びと平安とが与えられ、望みに満たされ
るのです。
私達は常に神の栄光を現し、そのことによって喜びと平安と望みに満たされ
た生活ができるように祈りたいと思います。

(1993年8月8日)