ローマ人への手紙15章14−21節

「キリストに用いられて」



 16節。

  このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエ
  スに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦
  人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためで
  ある。

パウロは、異邦人に福音を伝えるために召されました。
彼は、最初は、熱心なユダヤ教信者であり、キリスト教徒を迫害していまし
た。
しかし、ダマスコにあるキリスト者を捕らえに行く途中で、復活の主に出会
い、回心したのでした。
その時の事情は、使徒行伝9章に記されています。
そして、今度は、キリストの福音を伝える者とされたのでした。
まさに180度の転換でした。
そして彼は、今まで聖書の神を知らなかった人々に福音を伝えたのでした。
これはイザヤ書の預言の成就として捉えられています。
21節。

  すなわち、
  「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、
  聞いていなかった人々が悟るであろう」
  と書いてあるとおりである。

これはイザヤ書52章15節からの引用です。
パウロよりも500年も前の第二イザヤは、既に異邦人に福音が伝えられる
ことを預言していたのでした。
 パウロは、生涯に三度、大きな伝道旅行をしています。
19節に、

  こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至
  るまで、キリストの福音を満たしてきた。

とあります。
このイルリコというのは、ギリシアの北西、現在民族紛争の絶えない旧ユー
ゴスラビアの地方のことです。
そこからアドリア海を隔てれば、イタリア半島です。
パウロは、最終的には、当時の地中海世界の中心地であったローマに伝道す
ることを目標にしていましたが、もう一歩というところまで来ていました。
彼は3回の伝道旅行をしましたが、まだ念願のローマには行っていませんで
した。
そこでイルリコというのは、ローマの一歩手前ということになります。
「エルサレムから」とありますが、彼が本拠としていた教会は、シリアのア
ンテオケ教会でしたから、正確ではないかも知れません。
しかし福音は、キリストが十字架にかかり復活され、ペンテコステの日に最
初の教会が誕生したエルサレムから始まったので、「エルサレムから」と言
っているのでしょう。
彼は、3回の伝道旅行において、小アジア、それからエーゲ海を渡って、マ
ケドニアに伝道し10いくつの教会を建てました。
非常に困難を極めた所もあり、迫害を受けた所もあり、伝道に失敗してとう
とう教会ができなかった所もありますが、今振り返って、エルサレムからイ
ルリコまでキリストの福音が満たされたことに満足しているようです。
そしてこれを誇りに思っているのです。
17節。

  だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇
  りうるのである。

ただ、パウロが誇りにしているのは、この世のことではありません。
また、彼自身の力や知恵や能力を誇っているのではありません。
パウロは、かつてはこのような自分の知恵や力を誇った時代もありました。
彼は非常に優秀な人でした。
当時の社会では、エリートでした。
家柄もよく、学問も最高のものを治め、また精神力も非常に大きなものがあ
りました。
ユダヤ人でありながら、ローマの市民権をもっており、社会的にも地位があ
りました。
そして、若い頃、ユダヤ教に熱心であったころ、その自分の能力を非常に誇
っていました。
しかし、キリストを知るようになってからは、それらのことを誇っていたこ
とが何の価値もないと思うようになった、と言っています。
ピリピ人への手紙3章4−7節。(P.311)

  もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの
  人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとして
  いる。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する
  者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリ
  サイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない
  者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリス
  トのゆえに損と思うようになった。

「肉の頼み」というのは、この世のいろいろな誇るべきものです。
あるいは、自分のいろいろな力です。
家柄だとか、学歴だとか、財産といったものです。
私達もしばしば、このような肉的なものを誇りとします。
パウロも最初は、そのようなこの世的なものを誇っていました。
しかし、キリストを知るようになってからは、そのようなことに本当の価値
があるのではない、と思った、と言います。
人間は、何を誇るかで、その人の価値が決まります。
私達の周りの多くの人は、最初のパウロのように家柄を誇ったり、財産を誇
ったり、社会的な地位を誇ったり、知恵を誇ったりします。
しかし、そのようなものは、本当は神によって与えられたものです。
従って、そのようなものを神のために用いることこそ大切なのです。
パウロは、神への奉仕を誇るようになった、といいます。
パウロは、非常に大きな賜物の持主でしたが、それを神のために使ってこそ
生かされ、また彼自身も満足したのでした。
それは、賜物それ自体が実は神から与えられたものだからです。
神によって与えられた賜物を、神のために用いてこそ、真に生かされるので
はないでしょうか。
その賜物が本当に生きたものとなるのは、それを自分本位に使うのでなく、
神のために用いる時ではないでしょうか。
そしてそれが実は、礼拝ということです。
パウロは、このローマ人への手紙12章1節で次のように言いました。

  兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧め
  る。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物とし
  てささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

英語で礼拝をserviceと言います。
まさに仕えることです。
ドイツ語で礼拝をGottesdienstと言いますが、これは、神に仕えるというこ
とです。
礼拝とは、神に仕えることです。
パウロが、異邦人にキリストの福音を伝えるために一生懸命立ち働いたの
も、神に仕えることであり、それは礼拝ということが言えます。
 そしてパウロは、異邦人伝道をなしたのは、キリストによって用いられた
からだ、と言います。
18−19節a。

  わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言
  葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さっ
  たことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。

パウロは、キリストが彼を用いて下さった、ということを感謝に思っていま
す。
人間、用いられるということは、大きな喜びではないでしょうか。
野球の選手も、ベンチに控えている人がいます。
彼らは、試合の中で、いつか自分が用いられることを期待して座っていま
す。
そして大事な時に、ピンチヒッターとかリリーフに用いられたら、それは大
きな喜びではないでしょうか。
そして監督の期待に応えようと頑張ります。
このように、選手が試合において用いられる時、大きな喜びを覚えるのでは
ないでしょうか。
私達も、いろいろな時に、用いられるのは、やはり喜びでしょう。
それは、私達がいろいろな意味で認められ、重要視されるからです。
それは大いなる名誉でしょう。
学校でも、何かの委員として用いられるとか、会社でも何か特別な職務に用
いられるとか、地域やグループにおいても、何か特別なことに用いられる場
合、それはしんどいことではありますが、また名誉なことでもあります。
しかし、最も名誉なことは、神によって用いられる、ことではないでしょう
か。
そして、私達は皆、神によって用いられているのではないでしょうか。
それに私達は喜んで答えているでしょうか。
マタイによる福音書25章14節以下にタラントの譬があります。
そこでは、3人とも主人に用いられたにもかかわらず、1タラント預けられ
た人は、それを喜ばず、お金を土の中に隠しておいた、というのです。
タラントというのは、神から与えられた能力を意味しています。
これは、正確に言えば、神から預けられているのです。
ですから、それを神のために用いるのが最もふさわしい在り方です。
5タラント預けられた人も、2タラント預けられた人も、それを用いて、さ
らに同じだけの額をもうけた、とあります。
それは、神から与えられた賜物を、神のために十分用いた、ということを意
味しています。
私達も、キリストによって豊かな恵みを与えられている者として、キリスト
のためにそれを用いて行くものでありたいと思います。

(1993年9月5日)