ローマ人への手紙15章22−33節
「パウロの願い」
2年前からローマ人への手紙を学んできましたが、もう終わりに近付き、 16章は個人的な挨拶なので、今日のテキストが実質的にこの手紙の結語と いっていいでしょう。 22−24節。 こういうわけで、わたしはあなたがたの所に行くことを、たびたび妨げ られてきた。しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつ イスパニアに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望して いたので、−その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いが あなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くこ とを、望んでいるのである。 ここでパウロは、イスパニアに赴くという願いを述べています。 彼は非常に遠大な計画をもっていたようです。 それは当時のローマ帝国のすみからすみまでキリストの福音を伝えようとい うことです。 当時のローマ帝国は、地中海の周辺の地域でしたが、エルサレムはその東の 端であり、イスパニアは西の端でした。 主イエスは、昇天される前に、弟子たちに、「あなたがたは地の果てまで、 わたしの証人となるであろう」と言われましたが、イスパニアはまさに当時 の世界において「地の果て」でした。 パウロは、その西の地の果てであるイスパニアにまで伝道したいという願い をもっていたのです。 しかし、このパウロの願いはかなえられなかったようです。 しかし、それにしても彼の幻は、非常に大きなものでした。 しかし、その遠大な計画は、困難でもありました。 この時点では、まだ念願のローマにも達していなかったのです。 19節においてイルリコにまで伝道したということが言われていますが、こ れはギリシアの北西部、今の旧ユーゴスラビアの地方です。 そこからアドリア海を越えるとイタリア半島です。 彼はしかし、この後、ローマとは反対の方向に、すなわちエルサレムに向か ったのです。 それはどうしてもしなければならないことがあったからでした。 25節。 しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こ うとしている。 彼は異邦人伝道の当初より、一つの使命がありました。 それは、エルサレム教会のために異邦人から献金を集めるということでし た。 26節。 なぜなら、マケドニアとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中 の貧しい人々を援助することに賛成したからである。 エルサレムの教会には貧しい人が多かったようです。 パウロは、福音の理解において、当初エルサレムの教会とは対立したようで す。 そこで、エルサレムの教会の代表者とパウロの属していたアンテオケの教会 の代表者で会議がもたれたのです。 それについては、使徒行伝15章に詳しく記されています。 これはエルサレム会議とか使徒会議とか言われます。 キリスト教の歴史におきまして、重要な事柄に関しては会議を開いて決める という習慣がありますが、この「エルサレム会議」は、その最初の会議と言 うことができます。 エルサレム教会は、ユダヤ人が中心で、昔からの律法を重んじる立場でし た。 そこで、異邦人にも割礼や食事の規定を守らせるべきだ、という主張でし た。 それに対してパウロは、異邦人に伝道する場合、そのような律法を守らせ なくても良い、という立場でした。 そして、エルサレム会議ではかなり激しい議論の末、パウロの主張が認めら れ、異邦人には律法を守らせなくてもいい、ということになったのです。 これによって、パウロの異邦人伝道は、非常に活発に行われ、その結果多く の地に広く福音が伝えられたのです。 しかしパウロは、エルサレム教会に対しても大きな責任を感じ、異邦人伝道 をした際に、献金を集めて、エルサレム教会に携える、ということを約束し たのでした。 そして彼は、色々な地方で伝道する際に、常にそのことを覚え、少しずつ献 金を集めていたのでした。 このローマ人への手紙は、恐らく第三伝道旅行の時にコリントで書いたと思 われますが、コリントにおいて彼は本当は、念願のローマ並びに地の果てで あるイスパニアに行きたいと思っていたでしょう。 しかしその前に、エルサレム教会との約束を果たそうと思い、反対のエルサ レムに向かうことを決意していたのでした。 この献金の問題は、教会において最初から非常に大切なことでした。 教会を建設し、維持する費用、伝道に必要な費用、それらは信者たちの献金 で賄うというのがキリスト教会の当初からの伝統でした。 さらに、経済的に貧しい教会を助けるというのも、教会の当初からの伝統で した。 エルサレム教会と言えば、キリスト教が始まった教会、いわば本山のような ものですが、経済的には貧しかったようです。 26節にあるマケドニアとアカヤというのは、当時のローマ帝国の州の名前 ですが、ギリシアの北部と南部に当たります。 この地方は、ローマ帝国の重要な町が多く、商業が盛んで、繁栄していまし た。 私達の京都教区においても、2年程前から教会同士で経済的に助け合う制 度が出来、そのために「デナリオン献金」というのが設けられました。 京都教区の中の京都府下や滋賀県には、小さな教会も多く、経済的にも困っ ている教会もあります。 私達もそのような教会を覚え、少しでも支えたいと思います。 さて、パウロは、今日のテキストの終わりで、ローマの教会の人々に祈っ てほしいと願っています。 30節。 兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛に よって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたし のために神に祈ってほしい。 パウロは、自分の身が今から非常に困難な状況になることを予感していま す。 そしてそれは、人間の力ではどうしようもないことのようです。 人間の力は、しばしば非常に無力です。 パウロは、非常に優秀な人物で、学問も非常に高いものを修め、またローマ の市民権を持ち社会的な地位も高く、また非常に強い意志の持主でもありま した。 しかし、そのような人間の知恵や力ではどうしようもないこともあります。 パウロが今から遭遇すると予感している状況は、非常に困難な状況だったの です。 その時に彼は、もはや人間の知恵や力に頼るのでなく、祈ってほしい、と言 っています。 信仰のない者にとっては、祈ったところで何の力にもならない、と思うでし ょう。 しかし信仰者にとって、祈りほど大きな力はありません。 詩篇を読むと、詩人が非常に大きな苦難にあった時、一生懸命祈っている姿 があります。 そして、その祈りにおいて、予期せぬ所から知恵と力が与えられ、問題が解 決しているのです。 イエスも、よく祈られました。 イエスの活動を支えていたのは祈りであった、と言ってもいいと思います。 私達も、会堂建築の途上でしばしば困難に遭遇しました。 その時、多くの人から献金に添えて祈りが書かれているのに、どれだけ励ま されたか分かりません。 この建築が無事に終わったのも、全国から多くの人の祈りによって支えられ たからだと思います。 さて、パウロは、何を祈ってほしいと言っているのでしょうか。 31節。 すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ、そしてエルサレ ムに対するわたしの奉仕が聖徒たちにうけいれられるものとなるよう に。 ここでパウロは、「ユダヤにおる不信の徒から救われ」と言っています。 パウロは今からユダヤに行こうとしています。 しかしユダヤには、パウロに憎しみを抱いているユダヤ人たちがいます。 そういう所へあえて行くと、何をされるか分かりません。 そこで、人々はパウロにユダヤには行かないように、と強く勧めました。 しかし、パウロには、エルサレムの教会に献金を届けるという使命を果たす という決意があります。 そこで人々の反対を押し切って、エルサレムへと向かうのでした。 この時パウロは、死をも覚悟していたようです。 この辺の事情は、使徒行伝20−21章のあたりに記されています。 そしてこの難局を乗り切るのは、自らの力ではなく、神にすべてを任せるし かない、と思ったのです。 それでローマの人々にも祈ってほしい、と願っているのです。 そしてパウロは、次に、エルサレムでの使命を果たしたら、いよいよ念願 のローマに行けるように、と願うのです。 32節。 また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐ さめ合うことができるように祈ってもらいたい。 そしてこの祈りは神によって聞かれました。 これはだれも予想もしなかった形で実現したのでした。 その詳細は、使徒行伝に記されています。 パウロは、第三伝道旅行を終えて、エルサレムに行きました。 しかし、危惧していたように、パウロに憎しみを抱いていたユダヤ人たちに よって捕らえられ、総督のもとに監禁されました。 しかし彼は、ローマの市民権をもっていましたので、ローマで裁判を受ける ことを総督に願い出たのです。 最初のうちその要求は無視されていたのですが、総督が代わった時に、新し い総督によって認められ、囚人という形で船でローマに護送されたのでし た。 途中大嵐に遭って、船が難破し、ひどい状態になったということもありまし た。 そして使徒行伝の最後は、ローマで2年間暮らし、多くの人と交わりをなし た、と記されています。 この時に、ここでの祈りのように、ローマの教会の人達に会うことができた ようです。 しかしながら彼のもう一つの計画であったイスパニア行きは果たすことがで きませんでした。 しかしながら、彼の最も大きな目標であったローマ行きは、彼の予想もしな いような形で実現したのでした。 神は、私達の予想を越えて、御旨を実現されます。 そしてそれは、私達の知恵や力でなすのでなく、神の導きによります。 私達に大切なのは、その神のみ旨にすべてを委ねるということです。 祈りというのは、自らを神に明け渡す態度です。 私達が神にすべてを委ねた時に、神はみ旨をなさるのです。 そして神は私達をよきに導き給うのです。 私達が、私達の力で何とかしようとしている時は、神の力が入れないので す。 私達も、神にすべてを委ねて行く信仰を与えられたいと思います。 (1993年9月19日)