内村鑑三「キリスト信徒のなぐさめ」(1893年発表)より

あなたは1997.10.10以来番目の来場者です。


されども神よ、我が救い主よ、
  汝はこの危険より余を救いたまえり。

人、聖書をもって余を攻むるとき、
  これを防御するに足る武器は聖書なり。

……『義人は信仰によりて生くべし』

……聖書は孤独者の楯、
  弱者の城壁、誤解人の休み所なり。

……余は聖書なる鉄壁のうしろに隠れ、
  余を無神論者と呼ぶ者と戦わんのみ。……

…………………< 中 略 >………………

神の教会は宇宙の広きがごとく広く、
  善人の多きがごとく多し。

余は教会に捨てられたり。

しかして余は宇宙の教会に入会せり。

余は教会に捨てられて
  初めて寛容の美徳を了知するを得たり。……

…………………< 中 略 >………………

ああ余は、余が他人をさばきしがごとく、さばかれたり。

余もまた教会にありし間は、
  教会外の人を議するに当って、かくなせしなり。

キリスト教を信ぜざるが故に、
    未信者はみな信用すべからざる者なり、
 法王に頼むが故に天主教徒は
    汚穢(おわい)なる豚の子(ルーテルの話)なり、
 露国宣教師に教化せられしギリシャ教徒は国賊なり、
 監督教会は、英国が世界を掠奪せんがための機関にして、
    その信徒は、……探偵なり、
 長老教会は野心家の集合所なり、
 メソジスト教会は不用人物の巣窟なり、
 クェーカー派は偽善の結晶体なり、
 ユニテリアン派は偶像教にまさる異端なりと。

……されども教会に捨てられて余理の目は開き、
……所信を異にしても人は善人たるを得べしとの大真理を、
余はこの時において初めて学び得たり。

真理は余一人のものにあらずして
  宇宙に存在するすべての善人のものたることを知れり。

…………………< 中 略 >………………

余は初めて世界に宗教の多き理由と、
  同一宗教内に宗派の多く存する理由とを解せり。

真理は富士山の壮大なるがごとく大なり。

一方よりその全体を見るあたわざるなり。

……人間の力弱きことと、真理の無限無窮なることとを知る人は、
  思想のために他人を迫害せざるなり。

全能の神のみ、真理の全体を会得し得る者なり。……

…………………< 中 略 >………………

願わくは神よ、余に真正のリベラルなる心を与えて、
  余を放逐せし教会に対しても寛容なるを得しめよ




 1891年1月19日に起こった第一高等中学校不敬事件で、内村鑑三はその職を奪われ、全国民から国賊と罵られたばかりか、彼が勅語に対して礼拝ではなく敬礼ならするといって、一人の同僚に代って敬礼をし直して貰ったことに対して、教会からも卑怯とのそしりを受け、その上みずから重患の床に打ち倒されている間に、妻加寿子も急逝して、文字通り人生のどん底に投げ込まれました。

 その事件から2年後の1893年に「キリスト信徒のなぐさめ」を発表し、教会の中で自分が孤立し、無神論者、異端と弾劾され窮地に陥ったとき聖書によって救われたこと、本来はお互いに愛し愛されるキリストの家庭としての教会であるはずなのに、実際の教会にあるのは、ねたみ、そしり、不遜、高慢、無慈悲、無情であり、その偏狭な排他的精神であることを批判し、行き場所がなくなったが故に仕方なく無教会となったこと、キリスト者は真理に対して謙遜であること、他に対して寛容であることが必要と説いただけでなく、これを自分の祈りとしたのでした。

高橋三郎著「なぜ無教会か」(教文館)より


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