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「 イカ釣りの船 」





雨音の中で、海の意識から光が浮き上がる

ひとつ、またひとつと粒子が産み出され

やがて海面の揺らめきを満たし尽くす

定置網を引く手の力強さに導かれて

喜びや悲しみの意志がわき上がり

心までもが青白く波立つ

歓声を上げる人々の端っこの方に立って

その子は誰よりも一生懸命見つめながら言う

でもさ、あれ、みんなあとで食べちゃうんでしょ?

移植された価値観がこの子を戸惑わせている



ホタルイカという存在のシステムは

空に浮かぶ雲のように

見るものの意志を手がかりとして

その色と音と匂いを変えていく

風にグングンと流されながら

心に映るより少しだけ早く

時間の旅へ一歩踏み出す

そして心に入る刹那に意志と融合する

そんなのは気のせいだと思いこんでいる

ホンモノから僅かに偏倚した現実世界



混じりけなく信じることができれば

雲は大空を漂いながら

内に秘めた可能性のすべてを

一人一人にそれぞれの形で映し出す

疑うことを植え付けられた人々は

雲を雲として見ようとしながら

もう二度と、雲を見られない

社会では雲のパターンは決まっていて

製品化された雲の形を流通させるために

教育に似せられた外科手術が心に施される



柔らかく揺れる光の表面から

心に向かって粒子が上昇し始める

あの子はもう

海があるはずの場所よりも高い闇を見つめている

ホタルイカはサラサラと降る春雨の粒に

その青白い光のままで溶け込み

瞳に蛍を舞い踊らせる

厚い雨雲の壁の向こうに溢れる

星々の羊水に浮かんでいる

蛍は体中で感じた、母の心音に似ている



膝を抱えて漂っていても

星の核心に頭を向けて浮かべはしない

人はもう感じることに戻れないから

その代わりに、疑いを生業とした

それは適応であり、進化である

けれどこの蛍舞う星空に埋もれながら

心は感じることを求め続けている

もし疑うことと感じることを

融合して雲を見つめたら

どんな色の音が聞こえてくるだろうか



蛍はただのイカに戻り

あの子も腹一杯食べて笑っている

食べることは生命の営みに触れることだから

匂いと味と温度を省略してはいけない

夜の闇の中、相変わらず雨が降り続く音

イカ釣り船の明かりの揺らぎだけが

波立つ海の鼓動を証明している

生命は連なることにより波立ち、記憶する

今夜の出来事はきっと、生命の樹に刻まれた記憶だ

あの子は、時空に蓄えられた記憶を受け継ぐ儀式に出会った


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