雑記帖 - つれづれのことのは

No.1
おいたち

絵:きみさんとまさおさん
きみさんとまさおさん
5人兄弟の末っ子に生まれた私は、同じく5人兄弟の真ん中に生まれた明治者の父と大正元年に長女として生まれた母に育てられました。

若い頃からの趣味が剣道と謡(うたい)という父政男さんは、後年詩吟も吟じていましたが、礼儀正しく几帳面でひたすら優しくお人好しな性格でした(裏をかえせば融通性無く優柔不断?)。末っ子の私は、父に一度も叱られたことがなく、ただ可愛がられて育ったあまり、大変な我儘者に育ち、「三つ子の魂百」までの諺通り、ぱ~とな~のトさんも私自身も、「こまったな~」と思っています。

一方、母きみさんは、花が大好きで正直者が誠実の衣を着たしっかりものという人柄で、主婦のプロでした。こちらも悪く出ると、正義感が強いが柔軟さに欠け独りよがりな激しい性格ということになるのですが、「良いところは似ないもの」の諺通り、どちらかというと母に似た性格の私は、またまた、トさんを困らせています。

絵:ぺこさん
ぺこさん
「安子」という名は、ウがんむりに女と書きますが、字の通り、家に居るだけで安らぐ女性にと両親が命名してくれました。ところが「理想と現実」は食い違うためにあるらしく(故に希望がうまれるのか?)、パートナーのトさんにいわせると、やんちゃな「や」・すえっこの「す」・こうるさい「こ」で「や・す・こ」と呼ぶそうです。

確かに、小さい頃から誉め言葉として「天真爛漫」ですねと言われたり、自他共に「甘えん坊で寂しがりやで泣き虫の末っ子」で、おしゃべりが三度の食事ほど好きと思えない節もないかな?

絵:トさん
トさん
トさんに向かって「ね~ね~と~さん、聞いとる?聞いとらんやろ?ちゃんと、人の話聞かれまん!」。しょっちゅう、こんな具合に「のれんに腕押し」して独り相撲をとっているのです。

友人に言わせると決して安あがらない子とも読めるそうで、「生活信条はシンプル!」とかかげざるを得ないくらい欲張りで、買い物好き。本物志向とやらで高価な器にも骨董にも目が無く、財布が空になるまでお金を使い切る性格。

また、小さい頃から、入退院を繰り返し、小学校も出席日数が足りず、ようやっと進級したせいか、「体の弱い分だけ気が強い」という性分で、さらに「気は強いが小さい」と自分でも可哀想になる性格も併せ持つのです。

もうひとりの友人にいわせると「世界お世話焼き大会があれば、多分高岡代表の一人に選ばれるかもしれない。」と言うくらいお節介で、良くいえば人を喜ばせるのが大好き。「将来、鶴亀ハウスで、自分のおむつをひきずりながらでも人のおむつの世話をしていることになりそう」と、評されています。

趣味は、お料理作り、旅、スキー、水泳、山歩き、演劇、音楽、映画鑑賞、それから何より好きなのが読書とおしゃべりという具合。どうか、おみしりおきを!

(2001-11-12)

No.2
「身土不二」と「地産地消」

絵:耕す人
耕す人
「三里四方のもん食べとれば、病知らずやよ」と、昔、父に教えられました。ところで語源は、どこから?と、あれこれ食の辞典やことわざ辞典を調べていたのですが…。

身土不二の探求」山下惣一著(創森社)を読んでいて「三里四方の食によれば、病知らず」の語源を知ることになり、それこそ食を忘れて読みふけりました。出典は中国の仏教書が文献としては最初だということが、韓国農協中央会の研究で明らかにされているそうなのです。もっともです。三里四方は人間の足で歩ける手頃な距離。そこで育った新鮮なものを食べることは、地産地消、自給自足。

美味いもの求めて「宅配グルメ便」を利用するのも、排気ガスをまきちらし、包装材のゴミを生み出し、冷凍だ冷蔵だと電気を消費し、いったいどこまで・・・と、人間の奢り高ぶりを自戒するこの頃。

絵:夏野菜
夏野菜
今年の我が家の小さな無農薬有機栽培菜園に、植え込んだのは、トマト3本、ミニトマト1本、なす8本、きうり3本、ピーマン4本、カボチャ3本、それから赤ちそ、青ちそ、ししとう、夏野菜がたっぷり。

独特の甘さで「嫁にくわすな」の秋なすも漬け物に煮物に炒め物にと大活躍。なんといっても、驚きは、4本のピーマン。なるわ、なるわ、たわわな実りを秋まで持ち越し、あまりの花のつき様、実のなり様に、秋野菜を植える時期を失してしまうことに。なんと、昨日の日曜日(11月18日)にも大きなザル一杯の収穫!う~ん、これも、温暖化のなせる業かと、地の恵み、天の恵みに感謝しながら、ちと恐ろしくなったのでした。

先日、内橋克人氏のセミナーに参加し、北欧やヨーロッパ諸国の「地産地消」の農業政策、食べっぷりをデーターで明らかにされ、ビックリ!デンマークなど自給率300パーセント!自国を潤し、他国を潤し、あまりあるという羨ましい農業立国ぶりを知りました。

自然に即し、働き生きていることが身近にみてとれる地に足付いた暮らしぶりでありたいと切に思ったことです。

(2001-11-19)

No.3
火鉢その1

絵:火鉢で焼く餅
火鉢で焼く餅
紅葉していた木々が北風小僧の寒太郎に吹きとばされ、師走となりました。火鉢にかけられた鉄瓶の湯気に、つい手をかざしています。猫板の上では、ぽこがまんまるになっています。私の子供、父の孫にあたるぽこさんは、幼い頃、実家に出かけた折りに焼いて貰ったかきもちの味が忘れられないようです。今も、炭や灰のお世話は娘のぽこさんが主に手間かけてくれます。冬になると、しゅんしゅんと湯気立てている鉄瓶も父の愛用したものです。火鉢の炭火の温もりと柔らかさと香り、鉄瓶の湯気たてる音を聴く静けさは、心に安らぎを与えてくれます。今回は「火鉢」にまつわる話しをいくつか…。

絵:イネのはさがけ
イネのはさがけ
-藁について-
昭和の時代、父は、小さな町工場で沢山の職人さんに助けられ、鑞型の仏具を造っておりました。その際、欠かせないのが稲の藁束です。鑞を溶かすのにはガスの火ではなく、昔ながらの藁の火がよいのだと云っておりました。その藁も高岡市に隣接する氷見市の山あいの棚田で「はさ」に干された藁が丈夫で火力も強いのだと聴いております。

さて、その仕事で役だった藁は灰となって、また大切な役割をになってくれるのです。真っ黒でふかふかとした、それは美しい藁灰がたっぷりとできるのです。刈り入れが済み藁束がどっさり届いた日からしばらくすると、「ほこほこに沢山できたぞ~」と、父が嬉しそ~に持ち帰ってきました。寒さに向かう秋の日の心温まる思い出です。

春のお祭り前、我家では、畳替えをしました。裏返しするもの、表替えするもの、新調するものと職人さんに見極めて判断してもらいました。さて、その時の古畳の行方は?といいますと…藁灰に変身したのです。今となっては貴重品、藁だけでできた、むか~しの畳を廃物利用しました。鼻の穴真っ黒にしながら、たっぶりの藁灰作りに挑戦したのです。

畳は日本の米文化が生み出した、素晴らしいリサイクル品であった筈なのに、いまや、ハッポースチロールを建材くずで固めたクッションをはさみ、畳とは名ばかりの「タタミ」が9割方を占めているとか。こんなものが、万一火事で燃えるとダイオキシンなどの有害物質を放つのではないかと懸念されるのですが…。

確かに昔ながらの藁床の畳はやたら重いのです。しかし、使い古した畳は、ほこほこのりっぱな藁灰となり、火鉢で炬燵で活躍してくれます。そして、さらに古くなった灰は我家の家庭菜園の土となって立派な野菜を育ててくれることになりました。これも、みごとというほかない完全リサイクルの生活習慣だと、先人の知恵に脱帽です。

出入りの畳職人さんには、大変喜ばれました。「最近は、こんな藁床を使ってくれる人が、ガタンと減ってしまい、技の見せ所がなく、寂しい限りやちゃ。」「そのうえ、てまかけて古畳で藁灰つくりまでしてもらえるとは!」燃やしやすい様にと、古い畳を丁寧に細く裁断してもらえました。科学が発達し文明の機器が増え続ける便利な生活とは?新製品の必要性とは?と、考えさせられた畳替えでした。

生活の端々で消え去って行く日本文化に、寂しいだけではなく、危機感を覚えています。イタリアやドイツのようにマイスターが胸張って生きれる日本であって欲しいと切に望んでいます。

(2001-12-05)

No.4
火鉢その2

絵:父の形見の銅の火鉢
父の形見の銅の火鉢
話しは、我が家の火鉢にもどります。ここ高岡は銅器を特産品としています。父から譲り受けた火鉢は、高岡の誇る彫金師の方のモダンな彫金が施された高岡銅器の作品です。

小さい頃に、火鉢を囲んで、銀杏や栗の実をほっくりと焼いたことを懐かしく思い出します。菅で編んで干されたかき餅も、炭火で焼くと、かりかりとしてたまらなく香ばしいのです。おじいちゃんの焼いてくれる豆餅・昆布餅を、火鉢のまわりで、いまかいまかと孫達が唾をため頭を揃えて待っていたお正月。手編みのセーターの引っかけを解き、鉄瓶の湯気にさーっとあてがい、まっすぐでふっくらとした糸に再生し、みるみる間に、かぎ針で掛け継ぎしていく魔法使いのような母の手。

5人の子を育て上げ、二人だけの老後を迎えた両親が、火鉢を挟んで向合い、「小鍋仕立ては出世せず、ゆ~うたかして(そういっても)やめられんね」「そやちこと~」と、小さな鍋をつついていた懐かしい食事風景が鮮やかに思い浮かびます。

小さな茶の間に相応しいこじんまりした火鉢です。しょっちゅう職人さんが出入りしていたので、父はいつも、火鉢を挟んでお客さんと向かい合い、お茶をすすめながら仕事の話しもはずんでいました。近所の人や仲良しの友人達が訪れることも多く、聞き上手で、いろんな人達から頼りにされることの多かった母が、相談事を聞きながら、灰をならしたり火箸で炭を足しながら思案を重ねていたことも懐かしい茶の間の風景です。

5人の子供達と12人の孫に恵まれ、母は80才まで父は90才まで長生きしました。実家では、お盆だお祭りだと事あるごとにみんなが集い、きまって茶の間の火鉢の周りに顔を揃えてご馳走に舌鼓を打ったのです。思い出はつきません。

花が大好きだった母は、使わなくなった火鉢にゼラニュウムを植えていました。たっぷり大きな青い陶器の火鉢です。今は伏木の我家で道行く人達に愛でられ花を咲かせています。ベランダでも、古い陶器の火鉢に蓮やとくさを水に浮かせ、涼感を楽しんでいます。輪島の骨董屋さんで手に入れた欅の一枚板の長火鉢もあります。松本佐吉作柏葉紋写しの九谷焼の丸火鉢は来客用の手あぶりです。鎌倉の骨董屋さんで見つけた小さな手あぶりもあります。我家では、あちこちの部屋に火鉢を置いています。

(2001-12-05)

No.5
火鉢その3

絵:撮影すんで日が暮れて
撮影すんで日が暮れて

ある日のことです。このサイトにちょこっと載せていた「火鉢」のことがディレクターさんの目にとまり、いろいろとメールでやりとりしているうちに、とうとうNHKの取材班が東京から来高されることになりました。まだ「火鉢」の登場には、ちと気の早い秋のはじめのことでした。

トさんが、日頃手抜きしている部屋の掃除をせっせとすすんでしてくれました。私は、猛暑の夏の間、いいかげんに掃除していた庭も、しっかり座り込んで、はびこった雑草やぜにごけを退治しました。ふーっ。てんやわんやです。なんか、ちょっと、しんどいことになってきたのですが…。「のりかかった船」「冥土の土産」「閻魔様への自慢話」とはやし立てられ、家族三人踊ってしまったというわけです。

来る撮影当日は、家族揃って早起きし、メーキャップ…はせずに、普段通りがいいねと、そのままの暮らしぶりで、撮影隊を迎えました。NGなしに、段取り良く撮影は進みました。それにしてもスタッフの方が、真剣な面もちで撮影・照明・音入れされる様子に驚きました。放送時間は4分ばかりなのに、一日がかりなのです。製作現場の創造への情熱に、家族揃って「火鉢」を前に熱くなってしまいました。

ハイビジョンでの放送日には、尊敬する先輩から、御招待受けていたのですが、残念ながら、あまりに多忙な連日の仕事(と遊び?)の疲れで眠りこけてしまい、出かけることがかないませんでした。「ぽこさんの落ち着きと富夫さんの語りが、なかなか良かった」と後でお褒めの言葉を頂きました。20世紀最後の朝のBS再放送は、駆けつけた友人夫婦と一緒に、少々どきどきしながら、テレビのチャンネルをあわせて楽しみました。

コメンテターを努めて下さった安岡氏は古民芸・道具への見識と愛情の深い方で、著書を読み、家族で常からの秘かなファンです。そして、母親のようにあったかい語り口の司会者の藤田さんとのお話しが「火鉢」の雰囲気を、より和やかなものにしていました。素晴らしい番組に家族揃って出演させて貰い、NHKの映像に記録され感謝、感謝です。

便利と効率を追求するあまり、手間暇かけた暮らしぶりが絶えてゆくことは心寂しいことです。日本人の暮らしの中に活かされる木や和紙・鉄やお米の文化の良さをこれからも「この素晴らしきモノたち」で取り上げて貰いたい思いです。テレビマンユニオンの皆様の益々のご活躍に乾杯!

Highslide JS
ばあちゃんの形見のゼラニウムから撮影開始
(2000-10-14)
Highslide JS
インタビューされて緊張のおももち?
(2000-10-14)
Highslide JS
「ぶぅぉ~」っと火吹きをしてみせる
(2000-10-14 / 音声のおにーさん)

(2001-12-05)

No.6
けんちん汁

「きょうなんたべたいけ~?」「そうけ、けんちん汁け~」と、一人ごちて、今夜の主菜は、き・ま・り。仕事の終わりにちょっとしたハプニングがあって帰宅は8時半。急いで腕まくりして、「さ~、美味しいものつくるよ~」。

冷凍の鰯のすり身を、半解凍したところで、もみもみしてやると、あっという間にすりみに変身。手のひらでくるくるっとまるめてつみれ団子にしてやります。10センチほどのラウス昆布を1センチ角に切って出汁にして、下茹したこんにゃく・大根・人参・ごぼうは皮付きのまま、大きさを揃えて切るはしから鉄鍋にどんどん放り込んでゆきます。本しめじは手でさいて。

おっと、けんちん汁にかかせないのが里芋。卵大ほどの地の里芋は皮を剥き塩で軽くぬめりをとって、これも大きさを揃えて鉄鍋へ。にぼしをまるごと粉にしたものも大さじ1っぱい。エイッ。30分程、グツグツ煮込んだら、あとは、お酒に味醂に麹味噌で味つけし、仕上げにねぎの小口切りを加えてできあがり!アツアツを頂くと、身体が芯からほっかほっかになってきます。

(2001-12-19)

No.7
山に新雪が積もると

ここ北陸の高岡では、剱・立山に新雪が降る頃になると漬け物を漬け始めます。漬け物樽は、もちろん室外や納戸に置きます。家によっては、地下室や漬け物部屋をもっているお宅もあります。もっとも、我家は築50年を経た古い日本家屋なので、室内でもすきま風がひゅ~と吹き込む風通しのいい家なんですが。朝一番に起き出すと、ズボンの裾をしっかり靴下に挟み込み、二重になったシンチラ上着にカナダで買いこんできたカウチンのベストを着るという民宿のおばさんスタイルです。

(2001-12-20)

No.8
ニシンの昆布巻き

ニシンの昆布巻きは、亡くなった父の大好物でした。それも母の手作りが大好きで、甘みの薄い出汁味です。昆布巻きを炊くときの昆布の香りが小さな家を充たし、食欲をそそられたものです。10日に一度という位、頻繁に食卓に登場していたような気がします。母は昆布巻きもラウス昆布でした。

母が亡くなってから一人住まいになった父が、我が家に遊びに来るときには必ずといっていい程、昆布巻きと黒豆を炊いてあげました。若い頃から謡や詩吟を趣味にしていた父は、喉にいいのだと黒豆も大好物。煮汁も風邪のクスリと称して全部飲んでしまうので、母は甘さは控えめに煮ていました。

(2001-12-24)

No.9
ニシンの昆布巻き - 母の作り方

みがきにしんは24時間、米のとぎ汁につけます。昆布は30分~1時間水に浸し戻ったところで、片身分を2、3本程のさくに切り、頭と尾の部分が交互になるように置いてくるくる巻きます。塩もみしたかんぴょうでゆわえることもありましたが、母は、よく「すげ」で結わえていました。

父は、骨がさわるような舌触りをとてもきらいましたから、ことこと、ことこと、3時間程も煮込んでいたようです。母の作る昆布巻きは、圧力鍋を使わないのに、昆布もにしんも、ぽったり柔らかい昆布巻きでした。私が、いまでも母の味にはとてもかなわないと思うのが、この昆布巻きと大根の粕煮です。あ~こう書いているだけで、何だかつばが一杯になってきました。「おか~さ~ん」

(2001-12-25)

No.10
師走の差し入れ

早朝から今年最後の不燃物の処理に時間をとられてしまいました。ゴミの山を目の前にして、「生きるってたいへんなんだな~」と、しばしため息。果たしてほんとにこのゴミは必要欠くべからざるして排出されたのであろうかと、舌を噛みそうな思考と疑問に捕らわれます。とにかく石油製品関連のなんと多いこと!

木と竹と和紙と石と鉄の文化であった筈の日本がなぜにかくも急激な変貌をしてしまったのだろうかと恐怖さえ覚え、しかし、その一方で、便利この上ないPCもその固まりか…。この矛盾をなんとしようと思う内に、時計の針だけは正確に時を刻み続けてお昼がきてしまい、なんら問題解決も見ない内にお腹だけはぺこぺこ。

その上来客が引きも切らず電話もなりっぱなし、とっさのときのおじやでも作ろうかと思っていたところへ、「ピ~ンポ~ン」贔屓にしている行きつけの寿司屋さんが差し入れを持ってきてくれました。なんとりっぱな鯖寿司と稲荷納豆寿司に思わず唾をゴックンと飲み込んで「うれしい!」。脂のしっかり乗った鯖のおいしかったこと。

(2001-12-28)