仏教は、神に頼るのではなく、自分の努力(修行)によって自分の思考性を変える宗教です。 仏教は思考性を変え、覚った人(仏)になることを目標としています。 覚りには、「仏陀の教え」を基に事物を見る、「仏教的なものの見方」という認識の方法を理解することが重要です。 「仏教的なものの見方」とは、人間の持っている固定観念や先入観を取りさって、事物を「ありのままに見なさい」ということです。 |
普通、人は、自他を区別して生きています。 しかし、気づいた時(覚ったとき)、自と他の区別がなくなります。 「いっさいが自分になる」のです。そこにある石ころも、鳥も、虫も、自分も、すべてが同じだという感覚を味わう。 すべて一切のものが、私を構成する要素、であると感ずる。 覚りは、何か特別な事態でもないし、神秘的な現象でもありません。 さまざまな思い、感情、利害勘定、価値評価、記憶、こだわり、習慣といったものいっさいから離れて、過去や現在を考えることなく、今をただ生きるだけという在り方になることだと言われます。 浄土真宗も根本的には、仏教。 目指すところは、さとり。 いかに人々をその覚りの境地に導くか。 |
仏教(仏陀・釈迦・釈尊)の教えの根本は、この世は、縁起(原因と条件の組合せ)で成り立っているということ。 したがって、諸法無我(すべてのものに固定した本質がない) 諸行無常(すべてのものは変化し続けている)、という現実をいかにして実感させるか、というのが仏教の課題です。 それが浄土真宗の課題でもあり 浄土真宗の救いの境地もそこにあるはずだと思います。 それが、浄土真宗的表現を使えば、「生かされている喜び」となるのだと思います。 全宇宙の歴史が、今、私に集約されている、そのことに、手を合わせて念仏申す、それが他力信心の境地ではないかと思います。 |
目の前に紙があるとします。 紙から木を見ることができます。 なぜなら、紙はパルプから作られて、パルプは木から作られるから・・・。 そしてまた、その木が生えていたうっそうとした森を見ることもできます。 木々のみではありません。 太陽がなくては、雨がなくては、風がなくては、栄養がなくては、木は育だちません。 紙の向こうに、木が、森が、太陽と雨と風と土が見えてきます。 木はパルプになるために切り倒されなければなりません。 紙の中に木こりさえ見ることができます。 それらの要素が紙を作っているのです。 そう考えていけば、紙は多くの「紙でない要素」によって作られていることが分かります。 太陽も雨も風も土も、それに木も木こりも、それは紙を作っている「紙でない要素」です。 つまり「紙という要素」は「紙でない要素」によって作られているのです。 その「紙でない要素」を、紙から元の場所に戻すとどうなるか。 パルプは木に戻り、それを育てた太陽の光は太陽に戻り、雨は空に、風も雲も元あったところに、木こりは家に戻してあげます。 つまり紙を形作っていた「紙でない要素」を、そのそれぞれの場所に戻してやったとすると、あとには「紙そのもの」というものが残るでしょうか? 何も残りません。 紙は 紙でない要素によって成り立っているのです。 その紙を作る紙でない要素を 元のところに戻したとしたら 紙はからっぽ(空)になります。 |
宇宙の全ては単独で存在することはできません。 なぜなら、全てのものごとは、他の様々な物事と関わりあって初めて存在するから。 この関わり合いのことを『因縁(原因と条件)』とか『因果(原因と結果)』とか言います。 因というのは直接的な原因、縁というのは間接的な条件です。 この直接的な原因と間接的な条件とがあいまって、はじめて果(結果)がありうるのです。 いろいろな要因が重なり合って何かのことが起きることを『縁起』といいます。 関係主義的世界観です。 つまり、世の全ての物事や出来事は「個」として実在することはできず、世の本質は縁起(原因と条件の組合せ)・因縁(原因と条件)・因果(原因と結果)という関係性です。 そして「個」としての実在がない以上、全ての事象は虚無(中身はからっぽ)です。これが「空」の思想です。 |
般若心経の有名な一節、『色即是空、空即是色』。 「色」とは目に見える「物」、すなわち存在のことです。 「空」とは存在ではない関係性の事象、「事」です。 「色即是空」は、目に見えるもの(色)は 物があるのではなく 物がない関係性の現れ(事象)=空である、ということです。 「空即是色」は、逆に、関係性=事(空)が、物=存在(色)となって現れてくるということです。 物事の本質は因縁(他との関わり合い)であって、何かの物や出来事についてそれ単体を見ても意味はないし、そこには何もないと言っているわけです。 これが仏教の重要な根本原理です。 |
世界がどういうようにお互い同士関係をもち、作られているかを理解し、何ものも関係ということなしに、それ自体では存在しないことを理解します。 また、すべては時間とともに変わっていき、その瞬間瞬間以外のことにないことを理解します。 そのことは世界を知ろうとしている自分自身にも当てはまり、この自分自身も存在の関係の中だけでしか存在しないし、それも瞬間瞬間に変わるので、自分自身というのも本当は存在しません。 |
野球で活躍したイチローという選手がいました。 誰もが努力をすればイチローのような選手になれるか、と言えば、そうではありません。 イチローは、小学校低学年からチチローと言われた父親と野球の練習をした事が有名ですが、そういう家庭環境は誰しもに与えられるものではなく、特異です。 また、努力できる事も才能だと言われますが、環境を与えられたからといって、誰しもが努力・練習を続けられるというものではありません。 そしてさらに、運動神経が備わっていなければ上達できません。 多くの一流アスリートが、丈夫な身体に生んでくれた親への感謝を述べますが、親だけがアスリートを生み出したわけではありません。 祖父母、祖祖父母・・・先祖をたどれば、人類としては数百万年の歴史、さらに哺乳類としては二億二千万年の歴史、地球上の生物としては三十八億年の歴史。地球の誕生は四十六億年前、宇宙の誕生は百三十七億年前・・・そのDNAの歴史の積み重ねの結果、イチローという才能の持ち主が生まれ、イチローという世界的な野球選手が育ちました。 DNAの歴史ばかりではありません。 ドラフト会議では、中日など他球団に上位指名されず、オリックスに入団。 オリックス入団後、監督や打撃コーチに独特の打法が認められず、一軍と二軍を往復。数年後、仰木監督と打撃コーチに認められ、一軍定着。 オリックスのスカウトの目にとまらず、他球団に入団していたら、イチローの活躍はなかったかもしれません。 また、仰木監督でなかったら、イチローの活躍はなかったかもしれません。 時間的・空間的な縁(条件)が整い、野球の大スターイチローが作り上げられたのです。 自己の努力によって成功をつかみ取ったと考えがちですが、振り返ってみれば、生まれも育ちも他から与えられたものであったと気づくはずです。 |
東大生や東大出身者の多くが、毎日十時間以上勉強したと言います。 彼らが、必死に努力した、頑張ったと思っているかというと、そうではないらしい。 勉強が好きだから、勉強したのだと言います。 彼らは街で車のナンバーを見ると、つい因数分解(数字をかけ算の式で分解すること)してしまうそうです。 そして、それが素数(自分と一以外では割れない数字)であるとうれしいと言います。 東大生もまた、勉強が好きだという天性の優秀な頭脳と勉強に専念できる環境という、他力により生み出され育てられた存在だといえます。 |
自力・他力と言われていますが、気づいてみれば、自力は存在しません。 すべては他力によって生かされていると気づく事が出来ると思います。 もし、自力で生きているなら、誰もがイチローのような才能を持って生まれてくる事が出来、イチローのように練習をして、大選手になれるはずです。 また、望めば万人が勉強をして、ノーベル賞を受賞できる頭脳の持ち主になれるはずです。 さらに、自力で生きているなら、老化を止める事が出来るはずですし、死んでいく事もないはずです。 自力で生きているなら、病気にもならないでしょうし、万一病気になっても、自分で治すことが出来るはずです。 しかし、現実には、一人一人姿形が違い、能力に差異があります。 また、誰もが年老いていき、死んでいかなければなりません。 病気になれば、検査されて、他人である医者に診断されなければ、自分の身体がどうなっているのかさえ分かりません。 それは、自分で自分を作ったのではない、他力(縁)によって生かされているからです。 |
仏教的なものの見方が出来れば、自己がじつは時間的・空間的にあらゆる他者の全体です。 自己を中心に見れば、あらゆる他者は自己の内容となりますが、他者を中心に見れば、自己は他者の内容にふくまれることになります。 |
世界という言葉は、もともと仏教の言葉で、世は時間を意味し、界は空間を意味するものです。 世界というのは、本当は空間だけのことなのではなく、時間をも含んでいることになります。 時空のすべてを世界というわけです。 我々が生きている世界は、静止した空間だけのものではありえません。 どこまでも動き、変化し、転変していく、諸行無常の世界です。 一瞬、一瞬、世界は生まれ変わっていると言えます。 ですから、すべてが今にある。 すべては今しかない。 |
今、宇宙のすべてのエネルギーが私に集約されて私となっています。 私を存在させ、私を生かす他力に感謝し、他力のなすがままに生かさせていただく、そこにお念仏があり、お念仏の生活があるのだと思います。 いのちにありがとう、そこに南無阿弥陀仏のお念仏があるのだと思います。 |