私はこうして
 原発反対に
   なりました

 

 

学生時代

 

よく、原発反対だというと、かつての学生運動家(過激派)や社会主義・共産主義の運動家と勘違いされます。

もちろん、そういうイデオロギーで脱原発(反原発)を主張している方もあります。

しかし、私はそうではありません。

学生時代の私は、学生運動というものが大嫌いでした。

私が通っていた京都・大谷大学にも、右翼サークルや学生共闘や民青といった左翼系サークルもあり、学内には立看板が並び、アジ演説やビラ配りも行われていました。

同志社大学の赤ヘル集団がゲバ棒で乱入し、応戦した体育会系の友達がケガをしたこともありました。

そんな大学の中で、右翼系の学生がガクラン(学生服)で服装を統一し、両腕を後ろに組んで、ピンと背筋を伸ばした格好のまま上半身を前傾させ、“オッス”と挨拶する姿は、全く理解できませんでした。

天皇制を強化して何がよくなるのだろうと、嫌悪感や反発すら感じました。

学生共闘に対しては、戦争という国家による武力に反対しながら、自分達も徒党を組んで武力闘争をするというような姿勢に対して、矛盾を感じていました。

民青は、自由・解放を主張しながら、暗く、凝り固まった閉鎖的なイメージで、没個性的な集団に見え、自分達自身こそ自由を束縛しているような矛盾を感じました。

ちょうど田中角栄〜三木武夫〜福田赳夫といった時代で、私も政治や経済、社会のあり方に憤りを感じていましたが、市民(国民)個々人が問題意識に目覚めなければ、世の中は決して変革できないという考え方を持っていました。

その思いは今でも変わってはいません。

だから、学生共闘や民青といった学生運動のあり方は、社会の変革という目的は理解できましたが、その運動は、市民から敬遠こそされ、決して市民に広がりを持つ運動へと発展していくとは思えませんでした。

学生運動家の学生とはよく酒を飲みながら、社会への不満について夜を徹して議論をし、彼らから行動を共にしようと誘われましたが、決して運動には参加しませんでした。

その頃の私は、もちろん兵器としての核に対しては反対していましたが、彼らが原子力発電所に対してなぜ反対するのか理解できませんでした。

日本人は核アレルギーが強くて、核の平和利用にまで反対するのかといった感覚で彼らを見、逆に、核の平和利用(原子力発電所)は積極的に推進すべきではないかと考え、原発の話題になると推進側に立って議論をしていました。

大学を卒業し、寺へ帰ってもそういう原発に対する考え方は変わらず、福井県を見習って、石川県も原子力発電所を積極的に誘致すべきだと主張していました。

 

 

美浜の青年

 

ところが、そんな23〜4才の私に、17〜8年前(1978〜1980年頃)のことですが、
京都へ向かう列車の中で不思議な出会いがありました。

福井から列車に乗って来た、年の頃は35〜40歳位の青年が、私の正面の座席に座りました。

そして、私に話しかけて来ました。

「兄ちゃんは何処の者や?」

「石川県・能登半島の先端の輪島の者です。」

「俺はなァ、五木ひろしの実家の近所の者や。
五木ひろしのおかあさんはなァ、五木ひろしを苦労して育ててなァ・・・・」
などと、五木ひろしの幼い頃や家庭の話を始めました。

私は、彼の五木ひろし物語をフンフンと興味深そうに聞いていました。

五木ひろしの話題が一段落着いたところで、彼が突然、
「ところで、兄ちゃん、原発って知っとるけ?」
と、聞いて来ました。

私は、五木ひろしの話から、彼が原発の建つ福井県美浜町の人だと分かっていましたから、待ってましたとばかりに、
「福井県はすごいですよねぇ。
いち早く原発という最先端の科学技術を受け入れて、県の発展を目指していますよね。
それに比べたら、石川県なんてものの考え方が古くていけませんよ。
福井県を見習って、どんどん新しいものを取り入れていかなければ衰退するばかりだと思いますよ・・・・」
と、彼がきっと喜んでくれるだろうと、日頃の主張を話しました。

すると、彼が、
「俺も、、原発ができるまでは、温排水で魚の成長がよくなり、漁業の振興にも役立つなどと、原発のよい話ばっかり聞かされて、原発に期待しておったんや。
それでな、この前、本当は近づいたらイカンのやけれども、原発の温排水の排水口のところの海へ潜ってみたんや。
そしたらな、兄ちゃんも輪島の者やったら分かると思うけど、(両手で洗面器大の輪を作りながら)こんな化け物みたいなアワビがおるんや。
海の色も変な色でなァ。
他の魚や海草なんかも様子が変なんや。
俺は、漁師やから難しいことは分からんけれども、海がまともな海かどうかぐらい分かる。
ありゃあ、化け物の海や。
気持ち悪ぅて、すぐに上がってきたわ・・・・。
それから、原発は安全でいい物だと信じてきたけれども、決して、奴等の言う通りのいい物じゃないんじゃないか。
どうも危ない物じゃないかと、2度と原発には近づかんようにしとる・・・・。」
というのです。

彼は、敦賀の駅で降りていきました。

私は、原発推進論者だっただけに、彼の言葉がショックでした。

彼は漁師さんで、原発に関しては素人だといっても、海の魚を獲って生きる“海のプロ”です。

その“海のプロ”が、原発の海は洗面器のようなアワビのいる化け物の海だというのです。

私の心の中には、半信半疑ながら、彼の言葉が深く残りました。

 

 

市川定夫先生

 

それから、時々フッとその美浜の漁師さんの言葉を思い出しながら、さすがに原発推進は言い出しづらく、それでも労働運動などとは無縁の平凡な一市民としての生活をしていました。

若手僧侶の仲間で、靖国・教科書・同和・原発といった社会問題に対して、我々仏教者はいかにかかわり、どう答えていくべきかという学習会が持たれ、そこへ仕方なく義務的に参加していましたが、原発には関心があるものの、あまり積極的にはなれませんでした。

そんな時に、先輩僧侶から、原発の学習会をするから聞きに来ないかという誘いを受け、出かけて行きました。

講師は、市川定夫さんという埼玉大学の教授でした。

市川先生は、NASA(アメリカ航空宇宙局)の研究員を勤めて帰国された方で、ムラサキツユクサの突然変異の研究で世界的第一人者だそうです。

ムラサキツユクサは、とても環境の変化に敏感で、突然変異をおこしやすい植物だそうで、放射能に対しても敏感に反応し、放射能が生物に与える影響を測るバロメーターとなる植物だということでした。

そして、広大な宇宙の中で地球が誕生してから、現代に到るまでの生物の進化の歴史を説明して下さいました。

地球誕生当初は、地球上の放射能(放射線量)が大変強くて、その放射能に適応した生物が誕生したそうです。

それから徐々に地球は、熱くなったり寒くなったりし、放射能も徐々に少なくなり、そこに住む生物も、その時代の温度や放射能という環境に適応したものへと変化していったそうです。

それがダーウィンのいう進化論なのだそうです。

つまり、現在、地球上に存在する生物は、現在の地球環境・自然界の放射線量に適応した生物のみが存在しており、それ以外のものは存在できないということです。

人間が、人工的に放射能を作り出すということは、自分達が存在しえない環境を作り出すということであり、人間が人間でなくならなけばならないことを意味するんだということでした。

そのことを、市川先生は、平易な言葉で分かりやすく説明され、私は、数年前の列車の中で聞いた青年の言葉は本当だったんだと思いました。

日頃、ご門徒さんの前で、30万年といわれる地球上の生命の歴史、その人類の生命を背負って、今、私がここに生かされており、私の命は、私のものであって私個人のものではなく、後世の子孫への責任ある、如来からの預かりものなのだと法話をしていた私には、市川先生の生物の進化のお話は、涙が出そうなほど感動的で、正に仏法そのものだと思いました。

地球環境に生かされている自分だということを忘れ去り、自己の生命の源である地球環境を破壊しようとしている人類のあり方は、人間が人間でなくなってしまう自己否定以外のなにものでもなく、これを煩悩といわずして何を煩悩と呼ぶのだろうと思いました。

お釈迦様や親鸞聖人が現代に生きておられたら、原発を作り続け、生命の尊厳を見失って快楽をむさぼり続ける現代人の姿に、どれだけ嘆き悲しまれることだろうと思いました。

原発を語らずして、自分は坊主だとは名乗れないと思いました。

自分の人生に悔いを残さない為、私は原発に反対していこうと思いました。

 

 

ドイツ人留学生

 

それから、高木仁三郎先生や久米三四郎先生、藤田祐幸先生などのお話を機会があるたび毎に聞かせていただき、原発に対する認識を深めていきましたが、外に向かって運動をする勇気は持てませんでした。

それは、ご門徒が恐かったからです。

原発反対だなんて言い出しても、誰も理解してくれないばかりか、そんな危険な考えを持った坊主は寺から出ていけと言われるのではないかと思い、輪島では原発に反対だということは一言も言い出せずにいました。

そんな時に、ひょんなことからドイツ人留学生のホームスティをすることになり、その留学生と酒を飲みながら話しているところへ友達が遊びにやってきました。

チェルノブイリ原発事故の後だったので、私は、ドイツやヨーロッパの放射能汚染の様子を聞きたくて、留学生にそのことを質問しました。

ところが、留学生は、“若干の汚染はあるが、生活に全く問題はなく、原発は安全だし、必要なものだ”と言うのです。

私は、彼の認識不足に驚き、当時発刊されていた“Bart”という雑誌を見せながら、原発や放射能の危険性について一生懸命説明しました。

留学生も必死に反論します。

夢中で議論していて、フト気がつくと、隣の友達も私と共に原発の危険性を一生懸命訴えているではありませんか。

友達とお互いに顔を見合わせて、
「あんた、いつから原発に反対だったの?」
と聞くと、
「おまえこそいつから・・・・」
ということで、互いに親しくしていても、原発の話なんかしても簡単には理解してもらえないし、輪島という田舎の住民で原発に関心を持っている者なんていやしないと、勝手に決め付けていたのでした。

これが、輪島での第1号の原発反対仲間との出会いでした。

それでも、たった二人だけの原発反対で、二人で何かを始めようということにはなりませんでした。

 

 

珠洲の反対運動

 

関電と中電の2ヶ所の原発立地計画がある隣の珠洲市で、原発反対グループから候補者が立ち、市長選挙が行なわれました。

私も“真宗大谷派反原発の会”の一員として、また、一人の市民として、珠洲市民に原発反対を呼び掛けに出かけました。

原発反対派は、“何かせずにはおられない”という気持ちから始まった玉砕覚悟の選挙で、選挙という機会を利用して少しでも原発反対を呼び掛けたいということが目的で、決して当選できるなどとは考えていませんでした。

しかし、選挙結果は、予想に反して僅差での惜敗となり、原発反対を掲げて立候補したもう一人の候補者と合わせると、原発推進を公約に掲げた候補者を上回る得票を獲得しました。

珠洲市にもこんなに原発に不安を持つ市民がいたのかと、原発反対派は驚くと同時に勇気を持ちました。

にもかかわらず、当選した原発推進派の珠洲市長は、当選すると間もなく、立地可能性調査を始めようとしました。

選挙で勢いづいた原発反対派は、関電の行動を阻止しようと連日、座り込みをしました。

そんなある日の朝、先輩僧侶がやって来て、
「山吹、暇か〜?」
と、玄関から声をかけました。

私が、「今日は休みです。」と、答えると、
「それじゃぁ、珠洲までドライブに行くから俺の車に乗れ」と言われて、軽い気持ちで先輩の車に乗りました。

連れて行かれた先は、関電の宿舎である国民宿舎の駐車場でした。

定時になると、関電の社員が隊列を組んで宿舎から駐車場に出て来ます。

待ち構えていた市民は、駐車場の出口に座り込みます。

関電の立地部長は、作業に出かけるのに邪魔だから通路を空けろとハンドマイクで呼び掛けます。

市民も、お前たちこそ大阪へ帰れとやり返します。

しばらくそんなにらみ合いがあって、関電は宿舎へ帰って行きます。

そんなセレモニーのような事を何度もくり返して、関電が定時になっても出てこなくなると、市民グループは当番の見張りを残して解散となりました。

私と先輩は、近所の先輩僧侶のお寺へ行って一休みさせてもらったのですが、
そこで、
「今日の午後、市役所で市長との交渉があるのだが、お前たちも行かないか」
と、誘われました。

私を連れていった先輩は、自分は用事があるからと輪島へ帰って行きましたが、私は強引に珠洲市役所へ連れて行かれてしまいました。

市役所で市民と市長との話し合いが始まりましたが、私は珠洲市外の人間だからと遠慮し、一番後ろで聞いていました。

市民の、何故原発誘致なのかという質問に、市長も助役も、原発は安全で珠洲の活性化に必要だからという答えをのらりくらりと繰り返すばかりで、いっこうに噛み合った話し合いとはなりません。

冷静に聞いていたつもりの私も徐々にいらだち、気がつけば最前列で地元の高校生と共に、大声で市長に対して原発の危険性を訴えていました。

突然、時間だからと市長も助役も引き上げ、市役所職員から話し合いの終了が告げられました。

市民は納得できず、市長を出せと職員に詰め寄りますが、市長は出て来ません。

市民は、市長が話し合いに応じるまでいつまでも待つと、市役所に座り込みを始めました。

私は、連れて行った先輩が帰ってしまい、おまけに財布などが入ったバッグまで先輩の車に乗せたままだったので、無一文で帰る事も出来ず、市民と共に市役所に座り込みました。

一緒に市役所職員らと交渉するうちに、珠洲の市民の人達との連帯意識が生まれ、仲良くなった人が何人もいます。

そんな事から、原発反対市民グループによる数十日に渡る市役所占拠が始まりました。

座り込みが始まって、1〜2日経った夕方、七尾市からやって来ていた先輩僧侶が、無一文で帰るに帰れない私が可哀想だと私を輪島まで送ってくれ、私はようやく家に帰ることができました。

輪島へ帰って、お葬式にお参りさせていただくと、皆から「山吹君、珠洲は大変だねぇ。」と、声をかけられます。

「どうして、私が珠洲にいたことを知っているんですか?」と、尋ねると、
「テレビのニュースや新聞に、あんたの顔が大きく映っていたよ」との返事に、驚きました。

知らないのは私だけでした。

たまたま、涙を流しながら珠洲市長に原発反対を訴える女子高生の後ろに立っていた時の映像を、マスコミが一斉に流したのでした。

輪島では、すっかり原発反対の運動家として有名になり、ご門徒にも隠しておくことができなくなっていました。

そこで、家族と共に覚悟を決めました。

たとえ寺を追い出されるような事態になろうとも、信念を曲げずに原発に反対していこうと。

 

 

青年会議所

 

ドイツ人留学生と議論した友達と私は、二人とも輪島青年会議所の会員でした。

珠洲青年会議所は、原発推進の中心的役割を担っていましたし、青年会議所という団体自身が商工会議所同様、自民党支持の保守的な性格の団体だったので、輪島青年会議所も原発推進なのだと決め付けていました。

しかし、推進だったら推進だと表明すべきだと思いました。

珠洲市の原発立地の問題は、放射能の危険性ばかりではなく、農・水産業や朝市などの観光業といった経済面でも、必ず隣接する輪島市にも影響があり、よそ事だとだんまりを決め込んでいるかのような輪島市民の姿勢、特にまちづくりに問題意識を持つ市民の集まりであるはずの青年会議所で、何ら珠洲原発立地に関する議論がないのはおかしな事だと感じていました。

そういう輪島青年会議所に、たとえ推進の決議をする結果になろうとも、問題意識を持って欲しいという願いから、友達と二人で、青年会議所の定款に基づき、“「珠洲原発反対決議を議題とした臨時総会」開催を求める署名”を集めてみることにしました。

署名集めをしながら原発を話題にすることが目的で、署名が集まるなどということは期待しておらず、恐る恐る起こした行動でしたが、瞬く間に会員の過半数を超える署名が集まり、反対決議をしようという気運まで盛り上がってきました。

もちろん、土建業を中心とした会員からの反発・圧力もありましたが、原子力発電所立地が輪島青年会議所の問題として大きく取り上げられました。

臨時総会も定款に従って開催され、学習会や見学会を開催して、皆で原発を学んでいこうということとなり、賛成・反対の決議は行いませんでしたが、新聞には青年会議所が賛成・反対に偏らない学習会をはじめるというので大きく取り上げられました。

私も友達も、原発問題を取り上げてすらもらえず、二人だけが特異な存在として浮き上がり、青年会議所を退会せざるをえない状況に追い込まれることを覚悟していたので、署名をし、原発問題に関心を示して集まった仲間が大勢いたことにとても嬉しく、勇気と自信を持ちました。

 

 

能登の自然を愛する会

 

珠洲市役所での座り込みは、日中は、老人が中心となり、夜間になるとそこへ仕事を終えた青・壮年が加わって、連日、市役所内で反原発集会を開いているような状態が数十日続きましたが、結局、市長との話し合いが行われないまま、中西知事の判断による機動隊の出動で、市民は強制退去させられてしまいました。

それからしばらくして、珠洲市の原発立地予定地区の人達から、輪島の人達に珠洲市民の気持ちを伝えたいから集会を開いてくれないかとの依頼がありました。

私は、参加者を集める自信はなかったのですが、珠洲の人達の思いはよく理解できていたので、5〜10人でもよければと引き受けました。

パソコンで手作りのチラシを作り、朝市へ出かけて手配りで集会を呼び掛けました。

私一人の呼び掛けなので、ほとんど人が集まらないんじゃないかと覚悟していたのですが、集まってみると50人を超える市民が集まりました。

それから2〜3日経った頃、今度は、久米三四郎先生を講師に原発学習会を開催しないかという話がきました。

それも、一人でチラシを配っての開催だったのですが、70人は超える市民が集まってくれました。

それから2〜3日経って、集会に参加してくれた人が2〜3人尋ねて来ました。

皆で原発の市民サークルを作って活動しようというのです。

私は、徒党を組んで賛成・反対だと戦うことを目的としているのではなく、輪島の市民に原発問題を知ってもらいたいという願いで集会を開いたのだから、原発反対の会を作る気持ちはないと強く断ったのですが、何度も執拗に尋ねて来られました。

私は、彼らの熱心さに根負けし、それ程言われるのなら、もう少し多くの市民が集まったところで相談しましょうと、約束し、集会を開きました。

集会には30人余りの市民が集まり、会を作ろうということに話がすぐにまとまってしまい、「能登の自然を愛する会」という会が生まれました。

ただし、原発反対の集団ではなく、原発学習会を中心とした原発問題の啓蒙活動を目的とし、3ヶ月間で10〜15回の学習会を集中的に開催しました。

それですっかり原発反対の山吹として有名になってしまいました。

その後、輪島市に2ヶ所のゴルフ場建設の問題や河井浜という市街地に隣接した海岸の埋立計画が持ち上がり、それぞれ私たちが中心となって取り組んだのではありませんが、反対運動に参加・協力しました。

また、当初は政治・選挙には関らないでおこうと約束していたのですが、原発やゴルフ場・埋め立てといった問題は、政治・行政が推進していることから、どうしても政治と関らずにはおれなくなり、多少なりとも政治と関りを持つようになりました。

原発反対だと名乗りを上げた当初は、当時の県知事のブラックリストに載せられ、青年会議所で原発の見学に行くと、警察や北電が動き回り見学を拒否されるなど、嫌がらせもあり、ご門徒なども何となく私を敬遠ぎみだったように思います。

門徒総代をしている保守系の市議会議員の方から、町内の門徒を引き連れて正覚寺の門徒をやめるぞと脅されたり、北電OBのご門徒から嫌味を言われたこともありました。

原発反対なんて金にならないことをして何の徳になると非難され、あれやこれやと反対し、人を困らせることばかりする奴だとも非難されました。

市議会議員の方は、輪島市長を相手に行政訴訟をしたことなどから、ますます私の言動を苦々しく思ったようです。

しかし、一般の方達からは、反対の声を上げるにしたがって、逆に信頼を得たように感じているのは思い上がりでしょうか。

“原発・ゴルフ場・埋め立てに反対するなど、ひとのすることにはケチをつけるくせに・・・・”と、後ろ指を指されないようにと心掛け、寺の住職を一生懸命勤めさせていただいているつもりです。

美浜の青年に出会い、原発問題と出会わなかったら、多分、私は平凡な田舎の住職だっただろうと思います。

原発問題が、私に色々なことを考えさせてくれ、様々な経験をさせ、様々な人との出会いを作ってくれました。

そして、原発問題は、私に、人を疑い信念を隠して生きるより、人を信じて自分の信念に従って行動する事の大切さを教えてくれたように思います。

 

 

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