財団法人「真宗大谷派本廟維持財団」が大正元年に設立されたのは、
寄附行為第1条に「本財団は真宗大谷派本願寺の維持を確保するを以て目的とす」
とあるように、真宗本廟(本山・本願寺)の永遠なる維持を目的として設立されたものです。

その背景には、明治時代からの厳しい宗派の財政状況の中で、全国のご門徒の懇念により宗派・本山の財政基盤を確立したいという願いがありました。

永続性や管理運営上利点の多い財団法人という宗派(本願寺)とは別法人として位置づけられましたが、その設立の趣旨から運営は当然宗派と不離一体でなければなりません。

今日のいわゆる「財団問題」とは、昭和48年10月、大谷暢順氏が理事長に就任し、昭和49年嶺藤亮内局が発足して以後、宗務総長・財務長等の宗派の役職者が財団の理事から排除されたことから始まります。

宗派役職者を排除した財団は昭和55年12月、財団の名称を「真宗大谷派本廟維持財団」から「本願寺維持財団」へと変更し、真宗大谷派を無視したものとなりました。

さらに昭和57年、真宗大谷派の本山である本願寺の助成という唯一の目的に、「納骨堂」の経営を加えました。

そもそも、昭和46年に始まる東山浄苑(納骨堂)は、宗派外第三者でありながら宗派運営に不当に介入した吹原弘宣氏によって、宗派の定める正当な手続きを何ら行うことなく宗派所有の土地に勝手に建設されたものです。

昭和63年に行われた維持財団の寄附行為の変更により、本来厳格に禁止されていたご門徒の拠出金と宗派の財産である不動産(本願寺飛地境内)という莫大な基本財産の処分を可能としてしまいました。

また、本山(宗派)護持の篤い懇念により宗派が設立した財団である以上、当然、解散時の残余財産は「一切真宗大谷派本願寺に寄附する」(大正8年寄附行為第36条)と定めているにもかかわらず、それさえも宗派と全く関係のない「類似の目的を有する団体に寄附」できるように変更されてしまいました。

そして、平成4年、宗派に無断で京都駅前の近鉄百貨店敷地約3千坪が売却されてしまいました。

京都駅前付近一帯の土地(約1万坪)は、現在の本山の御堂建設時の作業場であり、宗派(本願寺)が維持財団運営のため基本財産として大正9年に寄附したものです。

この近鉄百貨店への売却益は200億円とも300億円ともいわれ、その保管状況や使途についても全く不明なままとなっています。

そのような中で、平成7年春、維持財団は突如として東山浄苑内に総工費60億円の第2納骨堂の建設工事を始めました。

この巨額な工事費から、近鉄百貨店敷地の売却益が使われているものと思われます。

最近では、
@京都市東山区に「岡崎の家」と称する豪邸の建設
A京都市東山区の病院跡地を購入しマンションの建設
B京都駅前の土地を第三者に貸し、マンションの建設
などを行っている模様です。

維持財団の運営が本願寺助成という本来の道から外れ、宗派の財産を私物化し、自己の利益を最優先しているとしか思えません。

私たちの先達が、いざというときの本山維持の備えとして残してくれた大切な財産が「一部の人たち」によって不当に消費されているようです。

財団ばかりではありません。

東京浅草別院の離脱、大谷暢道氏に絡む枳殻邸をはじめとする数々の事件は、大谷家の人々とそれに群がる一部の人々による宗派財産の私物化であり、宗派に対して多大な損害を与え、それがそのまま末寺・門徒への負担となっています。

宗派(本山)は、蓮如上人五百回忌御遠忌法要、さらに御堂の屋根の修復に、末寺・御門徒からの懇志金(寄付金)を募っている今こそ、本来の趣旨である財産の運用益が活用されなければならないはずであるのに、残念でならないばかりか、怒りさえ感じます。

  

 

私は、数十年にわたる大谷派の紛争は、単なる財産争いのスキャンダルな話題ではなく、真宗大谷派の民主化の問題だと捉えています。

太平洋戦争で負けた時点で、GHQの指導により、日本の民主化と同時に、宗教界の民主化も行われたのですが、天皇家と親戚[皇太后と前裏方(前門主の妻)が姉妹]関係にあったため、大谷派だけは民主化から除外されたそうです。

国の民主化によって天皇制は残りましたが、それは象徴としてのものでした。

大谷派の門首(門主)は権力を一手に握った絶対君主的なもののまま残ったので、大谷家による宗派の私物化がそのまま継続されました。

しかし、それではいけないという事で、親鸞の御同朋・御同行の精神を受け継ぐ宗派へ改革しようと起こされたのが同朋会運動に代表される民主化運動であったのだと思います。

ところが、これまで宗派を私物化し、特権を欲しいままにしてきた大谷家を中心とした一部の人たちがそう易々と自分たちの権利を手放すはずがありません。

そこで保守派と改革派という対立が起こり、それが権力闘争や財産争いなどのスキャンダルとして世間に表面化してきているのです。

 

 

親鷲聖人の教えの大きなテーマは、“いかに生きるか”ということでしょう?

“生きる”ことにプロもアマもありません。

本来、浄土真宗にプロの宗教家は存在しないはずです。

門信徒の人たちが、自分たちはアマチュアで、私たち僧侶をプロの専門家であり、自分たちより一段高いところに存在する人たちだという意識、そんな専門家の中でも親鸞聖人の血を受け継ぐさらに一段高いところに存在する人たち、そんな門信徒の人たちの誤解の上にぬくぬくとしていた真宗大谷派のあり方が今問われているのだと思います。

大谷家を中心とした一部の人たちが問題視されているようですが、末寺の僧侶もレベルの違いこそあれ本質的には同じだと思います。

宗派は大谷家や本願寺をスケープゴート(代表・身代わりとして責任や罪をかぶせる)にするのではなく、機構改革と同時に自己改革(末寺・僧侶)が必要だと思います。

そうでなければ単なる権力争いで終わってしまいます。

改革派と言われる内局にも、横領・リベート・ワイロ・買収といったうわさが絶えません。

本山への相続講御依頼金(上納金)も、御同朋・御同行の精神に反した不平等なもので、懇志金とは名ばかりの暴力団の上納金と大差ないのが実態です。

宗務役員と呼ばれる宗派の職員も、官僚・公務員同様偉くなり、末寺・門徒の苦しみなど理解できようはずもなく、単なる上納金の取立て屋でしかありません。

改革派とは名ばかりで、権力構造が摺り変わっただけのようにしか思えません。

このままでは親鸞聖人の教えを道具に使う詐欺師集団でしかないのではないでしょうか?

私たち僧侶を含めた真宗門徒が忘れてはならないのは、仏陀・七高僧・親鸞聖人らの教えです。

親鸞聖人の教えに照らしてみて、私の現在の生きようはどうであろうかと問われているのだと思います。

今、「お東紛争」で問われているのは、真宗大谷派・末寺・僧侶が本当に親鸞聖人の教えを受け継ぐものであるかどうかということだと思います。

 

 



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