仏事としての葬儀

かつては輪島のような地方においては、各在所(村)や町内に長老がいて、祭りや葬式などの諸行事を取り仕切っていました。
時代とともに社会も移り変わって、行事においてリーダーシップを発揮できる長老的な存在がなくなってしまったように感じます。
また、情報網の発展により、他地方の習慣が伝えられて、それが新時代の合理的な習慣であるかのように輪島に根づきつつあるようにも感じています。
宗教的なリーダーのいない、移り変わりの激しい世の中で、ご門徒にはどうしてよいやら分からないことが多いようで儀式、とりわけ葬儀に関する質問をよくされるようになりました。
同じことを何度も繰り返し説明するうちに、要請もあって、平成7年、数冊の真宗大谷派の葬儀に関する解説書を参考に、輪島における葬儀の基本的なマニュアルを作成し、ご門徒に配布させていただきました。
どこかで読んだ記憶のあるような文章もあるかと思いますが、どの部分をどの本を参考にさせていただいたか分からなくなっていますので、どうかお許しいただきたく思います。
無断盗用で許しがたいという部分がありましたら、申し訳ございませんがご連絡ください。

はじめに−仏事としての葬儀を願って−

愛しき方との別れ。避けることは出来ないと知ってはいても、それは本当に悲しいことです。
それは身近な方を失った悲しみと共に、いずれは死していかなければならない私自身のいのちの事実に向かい合う時でもあるからなのでしょう。
誰しもがこの悲しみの中で、寂しさや虚しさを感ぜずにはおれないのです。
そして、あらためて自らの人生に目を向けざるを得ないことにもなるのです。

私たちの人生は様々であり、それぞれに喜びや悲しみに包まれていますが、それがたと
えどのような生涯であったとしても、その人生はその人自身にとって、誰も代わることの
出来ない、かけがえのない一生です。

しかし私たちは、なかなか人生をそのように受けとめることが出来ません。
人生におけるあらゆる出来事を、「善い・悪い」「好き・嫌い」「損・得」というように、それぞれの都合(立場や知識・経験)によって分別し、思い通りにならなければ苦しむという矛盾した思いのなかで生きています。
その最大の矛盾が「生・死」の問題でしょう。
自分の都合だけでは生きていけないのが、いのちの事実でありながら、都合の良いことばかりに目を向けて、生への執われと死への不安のはぎまで、いつも苦しんでいます。
だからこそ仏教は、私たち人間にその矛盾から解放されて生きるという人生の真の意味を明らかにしているのです。

私たち真宗門徒は、人生に起こる様々な問題を大事な縁として念仏の教えに遇うことによって、かけがえのない尊き人生に目覚め、生死の苦悩から解放されて、行き詰まることのない精神生活を求めてきました。

葬儀とは、亡き方の人生に対して心からご苦労さまでしたと手を合わせると同時に、遣った私たち自身が念仏の教えに遇う大切な機縁であるのです。
私たちは、念仏の教えに頷いたとき、亡くなられた方を、単なる死者としてではなく、人生の真実を教えて下さる諸仏として受けとめることが出来るのです。

大切な人との別れはつらいことですが、この深い悲しみを正面から受けとめて、念仏の教えに遇うことこそ、亡き方から願われているのでしょう。

通夜・葬儀の準備

■仏壇(お内仏)のおかざり

自宅であれ、病院であれ、ともかく医師から危篤状態を告げられたら、親族やごく親しい友人に連絡し、臨終にたちあってもらうようにします。
たとえ、それが夜中の1時2時であっても通知をしなければなりません。
そのさい「こんな時間にまことに申しわけありませんが……」という言葉をそえて、病院なら病院の住所を知らせます。
また、遺言があれば書きとめるといった配慮も忘れてはいけません。

そして、臨終を看とったら、まず仏壇をあけて白のローソクをつけ、香(線香)をたきます。
花は樒などの青木のものにかえ、四十九日が過ぎたら普通の生花にとりかえます。
打敷は、小紋様の地味なものか、または白か灰色の中陰用のものにします。
葬儀のときは打敷はすべて裏がえして使うと思っている人もいるようですが、それは、中陰用の打敷がない場合にかぎって、ふつうの打敷を裏がえして代用するだけのことなのです。
床の間があれば、名号や聖教の文字などの掛け軸をかけます。
臨終のとき、他宗では「末期の水」を飲ませますが、浄土真宗では行いません。

■死亡通知

故人の臨終の直後に知らせる人は、ごく身近な家族や親戚にかぎられていましたが、その他の人たちについては、通夜や葬儀の日程が決まってから、故人との生前の関係などを判断して連絡をします。
どの範囲の人に知らせるかは、その家庭の事情によってちがいますので、親戚ならば親族のなかでいちばん信頼できる人に、また地域の人については、町内会の役員などに相談するといいでしょう。
とり急ぎ知らせる必要のある人は、家族・親戚、故人が世話になった人、故人の友人・知人、職場の人、事業をしていた場合は取引先の人、町内会などの地域の代表、サークル仲間−などです。

●お寺にはできるだけ早く連絡・相談を!

昨今では、自分の寺が遠いなどの理由で、お寺に連絡・相談をされないまま、葬儀が準備されたり、勤められてしまうことがありますが、必ず、お寺に連絡をして葬儀のお願いをし、日程などの打ち合わせをして下さい。
ご門徒(檀信徒) の葬儀には住職が出来るかぎり伺いますので、なるべく早めに連絡をして住職の都合を聞いておくべきです。
なお、亡くなられた方の俗名・年齢(生年月日)・命終年月日・喪主の名前続柄・連絡先(住所・電話番号)など、間違いのないように連絡を致します。

遺体の安置と枕飾り

遺体を納棺するまでは「北枕」といって頭を北の方に向けて寝かせます。
この北枕というのは釈尊入滅の姿勢にならったものです。
時々、北という方角にこだわるあまりお内仏(ご本尊)に足を向けて遺体が安置されていることがありますが、部屋の中においてはご本尊側を西と考えて遺体を安置し、決してご本尊に足を向けることのないようにして下さい。

手は胸のうえに組ませ、念珠(数珠)を手首にかけ、顔は白さらしの面布でおおいます。
敷布団や掛布団などは、なるべく白で清潔なものを使用することです。

枕元に小さな机をおいてそれに白い布をかけ、向かって右にロウソクたて、中央に香炉、左に花立てという三具足を配置します。
白のロウソクをともし、香をたきますが、このとき不断香といって、香をたやさないように心がけます。
花立には樒か、青木の枝をたてます。
できるならば、この枕飾りをとおして、向こう側に仏壇のど本尊を礼拝できるような形にします。
仏壇を安置していない家は、そのむねをお寺に知らせ相談するといいでしょう。

なお、枕飾りに水や一膳飯、枕団子をそなえるのは他宗の作法で、浄土真宗では必要ありません。
また、衣服を逆にかぶせたり、屏風を逆さに立てたりするのも何の意味もありませんし、魔除けのための守り刀も必要ありません。

お寺への連絡と臨終勤行

遺体を安置したら、檀那寺に死亡したことを連絡し、葬儀のお願いにあがります。
これを「告げ」といい、2〜3人でうかがうのが習わしとなっているようです。
お寺にうかがうときは、お明し(料)と御仏供米(料)を用意して持参します。
しかし、様々な事情でお寺へ出向くことのできない場合には、とりあえず電話でお願いをします。
このとき、臨終勤行をお願いすることを忘れないようにします。

臨終勤行とは、その言葉どおり、臨終にあたって長年お仕えしてきた仏壇のご本尊に対して行う最後の感謝のおつとめのことで、枕経ともいいます。
本来なら、息のあるあいだにおつとめし、臨終にある人に聞かせるのがいいのですが、いろいろな事情から最近では、それが出来なくなっているのも、しかたのないことでしょう。
ともかく、檀那寺の住職に勤行をしていただくときは、どんなに忙しくても、家族や親族、知人などはいっしょにお参りさせていただきます。
浄土真宗では、礼拝・帰依の対象、つまりご本尊は基本的にはあくまでも阿弥陀如来で、遺体を礼拝の対象としてはあつかいません。
したがって、臨終勤行も葬儀でのおつとめも、どんな場合であっても、ご本尊でなく、遺体だけに対してのおつとめは絶対に行いません。

通夜・葬儀は檀那寺で行うということでもかまいません。
なお、臨終勤行が終わったあとで、住職と葬儀の日時や会場などについて、打ち合わせをしておくといいでしょう。
わからないことがあれば、住職になんでも相談することです。

通夜・葬儀のうちあわせ

●喪主の決定

喪主は遺族の代表者であり、葬儀だけでなく、中陰法要や年忌法要なども責任をもってとり行うことになります。
一般的には故人の配偶者がつとめますが、配偶者がいなかったり、高齢だったりする場合は、成人している子供がつとめます。
誰が喪主にならなければならないという決まりはありませんから、遺族の代表としてふさわしい人であればいいでしょう。

●世話人代表の決定

喪主や遺族にかわって、葬儀の進行をすべてとりしきってくれるのが世話人代表です。
この世話人代表には、親類や故人の友人、町内会の役員、または故人の会社の人たちのなかから、経験のある人にお願いするのがいちばんいいでしょう。
社葬などの大きな葬儀では、葬儀委員長をたてることがありますが、ふつうの家庭の場合は世話人代表だけでいいでしょう。
世話人代表が決まったら、喪主や遺族は以後、葬儀の進行については口だししたり、指図したりするのは控えることです。

 死亡届や火葬埋葬許可申請の手つづき(これによって出棺時間が決まります)
 壇飾り(予算を考えて、どの程度のものにするかを決めます)
 遺影(なくてはならないものではありませんが、故人の人柄がにじみでているものを選びます。ネガがなくてもカラー写真でもかまいません)
 死亡通知(新聞広告をだすかどうか)
 霊枢車の手配
 火葬場へのマイクロバスやタクシーなどの手配
 喪服の貸衣装
 記帳簿(弔問・会葬者の氏名や香典・供物の記録)
 テント・机・椅子(受付を外にだすとさは必要となります。
 会葬礼状の印刷(最近は弔問や会葬のさいに、商品券やテレホンカードなどをそえて、その場で手渡すことが一般的です)

以上が打ち合わせをする項目ですが、葬儀を営むうえで大切なことは、規模の大小ではなく、心をこめた葬儀かどうかです。
そのため、壇飾りなどは、あまり華美にならないようにしたいものです。

●葬儀会場、規模の決定

葬儀会場は、予想される会葬者の人数や、葬儀の規模によって決めるようにします。
ふつうは自宅で行いますが、自宅が狭いとか、まわりに人家が密集していて人が大勢集まるのに無理があるといったような場合は、お寺や斎場を借りることになります。
また、団地や町内の集会場を借りることもできます。
自宅で行うときは、会場はなるべく玄関に近い部屋にします。
家具などを片づけ、障子や襖もとり外して、玄関から斎壇が見とおせるようにします。

●葬儀日程の決定

ふつう、昼間亡くなったときは、その夜を「仮通夜」にして、翌日の夜に 「通夜」を行います。
そして、翌日に「葬儀・告別式」を行って、火葬場で「茶毘」にふします。

よく「友引」の日には葬儀を行っていけないといわれますが、これはまったくの迷信で宗教的な根拠があるわけではありません。
もともと「友引」とは、「六曜」という中国の古い時代の暦のなかの一日でした。
そして、その日は「共引」ということで、共にひきあう、つまり「勝負なし」を意味する日だったのです。
その「共引」が、いつのまにか「友引」となり、一人さびしく息をひきとった人が、この日に葬儀を営むと、参列した友人をあの世へひっぱるという迷信がうまれたのです。

浄土真宗の門徒は、南無阿弥陀仏の念仏のなかに、無常の命がいつまでもあると考え、きょうを大切にすることを忘れている私たちを、呼びさまそうとされている如来の呼び声を聞き、きょう一日を貴重な一日として生きていこうとしています。
このように一日一日を大切に生きていこうと、努力している人にとっては、日のよしあし、方角の善悪など関係ありません。

とはいっても、これは浄土真宗の門徒の考え方であって、私たちが社会生活を営んでいくためには、いろいろな人とかかわりあっていかなければなりません。
なかには、迷信だとわかっていても、ものすごく気にする人もいます。
そうした人にたいしては、「友引」というのは迷信であって、少しも恐れることはないと教えてあげるのが、本当の親切なのですが、葬儀というのは突然のできごとであり、日程を決めるにしても、喪主や遺族を含めて、世話人代表をつとめてくれる人や、葬儀社の人たちの合意で行われることが多く、その合議のなりゆきによって、たまたまあたっていた「友引」を避けるという結論がでたとしても、これはしかたのないことでしょう。

要は、この種の迷信に対する姿勢が大事なのです。
こうした無意味な迷信にふりまわされる情ない現実に気づいたとき、いよいよ正しい信心に自己を向かわしめるよう襟を正すようにすればいいのではないでしょうか。

●各世話役の決定

世話人代表は葬儀をスムーズに運営するために、喪主や遺族と相談して、次のような係を設けて協力してもらいます。

 進行−葬儀全般の進行をとりしきる進行係は、世話人代表がなるのが一般的です。
 受付−弔問・会葬者の受付や案内。氏名および香典や供物の記録。
 会計−葬儀に関するすべての金銭の出納を担当。
 接待−ご導師や諷経僧、会葬者への茶菓子・食事などの接待。
 駐車・配車−駐車場の案内や火葬場へ行く人の乗車割りあて。
 炊事−茶菓子や食事の用意とその世話。
 雑務−必要なものの借りいれや購入(茶碗、灰皿、座ぶとんなど)。最寄りの駅などから自宅や葬儀会場までの道順の案内をする。その他、いろいろな雑用。

このなかで、会計係はお金を扱うため二人以上が必要で、そのうちの一人は遺族の親族にやってもらうのがいいでしょう。
香典は、袋に書かれている金額と中の金額とを確認したうえで、香典帳に記入します。
なお、葬儀にかかった費用は、遺産相続のさいに相続財産から差し引くことができますので、どんなものでも必ず領収書をもらっておくか、領収書がない場合はキチンとメモをしておくことです。

死亡届の提出

人が死亡したときは、死亡届を役所に提出しなければなりません。
死亡届は、死亡診断書といっしょになっていますので、死亡診断書に医師の記入・捺印をしてもらったら、死亡届の必要な項目に記入して、役所の戸籍係へ提出し、「火葬埋葬許可証」をもらいます。
この死亡届は、死亡した日から7日以内に提出しなければなりません。
死亡届を提出しないと、火葬埋葬許可証がもらえませんから、実際の手つづきとしては、死亡後すぐに提出するようにしてください。
なお、死亡届については、役所では休日・夜間を問わず、24時間うけつけてくれます。
また旅行先など、その人が住んでいる以外の場所で死亡した場合は、死亡した場所と、その人の住所のある役所へそれぞれ提出しなければなりませんから、死亡届は2通必要になります。
火葬場の予約の受付も、24時間休日・夜間をとわず受け付けてくれるはずですので、住職・親戚・世話役との日時のうちあわせが終ったら、すぐに市役所へ電話予約するとよいでしょう。

■納棺−お寺から棺掛七条をお借りして準備しておきます。

納棺する前に遺体をぬるま湯で浄めますが、最近ではアルコールを含ませたガーゼや脱脂綿でふき浄めることが多くなっています。
浄め終わったら、耳、鼻、口、肛門などに脱脂綿をつめ、眼と口を閉じ、姿勢をととのえます。
そして男性ならヒゲをそり、女性なら薄化粧をしてあげます。
遺体は、胸のうえに両手をあわせ、念珠(木製の数珠)をかけます。
この納棺はできるだけ近親者だけで行うものです。
納棺のさい、故人が生前に愛用していた品などを入れることがありますが、火葬の関係上、金属性のものや燃えにくいものは避けるようにしましょう。
納棺がすんだら、ご本尊の前におき、棺掛七条でおおいます。
納棺がすんでも、まだ棺のふたに釘はうちません。

浄土真宗では死装束は必要ない

浄土真宗では、いわゆる「死装束」はしません。
死装束というのは、遺体に経帷子を着せ、頭には三角巾(頭巾)をつけ、さらに六文銭の入った頭陀袋を首にかけ、手甲脚絆に草鞋、それに杖までそえるのです。
こうした「死出の旅」という発想は、中陰という思想と、十王または十三仏思想を背景としたものです。
つまり、人間は死後すぐに極楽浄土なり地獄なりに行く者と、なかなか行く先の決まらない者とにわけられ、行く先の決まらない者は四十九日(中陰)のあいだ、冥土の旅をつづけ、七日ごとに行われる裁判で行く先が決められるというのです。
それでも決まらない者は百力日、一周忌、三回忌と延々ともちこされるといわれています。
頭陀袋の中の六文銭は、この間の旅費というわけです。
ところが浄上真宗では、み仏の誓いを信じて念仏を称える者は、この仲ですでにみ仏になる身に約束されているのであり、命終とともに浄土に往生させていただくことになっています。
ですから、このような「死出の旅」にでる必要もなければ、いれかわり、たちかわり裁判をうけることもありません。
したがって、浄土真宗においては「死装束」は、まったく無意味なものなのです。
一般的に行われているからといって、そうした支度をすることは、かえって死者を冒涜することにもなりますので、もし、葬儀社が「死装束」の用意をしてきたら、きっぱりと断る姿勢がほしいものです。
そこで、納棺にあたっては、故人が愛用していた清潔な衣服か、本人にとって特別に思いでのあった服など着せることです。

■棺書・棺文

ご住職が棺のなかにいれる書き物のことを棺書、または棺文といいます。
何が書かれているかといいますと、おもに「南無阿弥陀仏」の六字名号か、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号です。
いずれにしても、名号を中心にして、聖教の文字や故人の法名が書き加えられます。
また、紙に書かずに棺のふたに直接書くこともあります。
浄土真宗では、礼拝の対象はあくまでも阿弥陀如来であって遺体ではありません。
だからといって、遺体を粗末にあつかうということではなく、ただ、礼拝の対象としないということなのです。
しかし、現実にはそうはいかないことがでてきます。
たとえば、納棺前の弔問のときとか、出棺の前に棺のふたをあけておわかれするとき、あるいはまた、会葬者が霊枢車を見送るときなどです。
そのとき、思わず合掌礼拝したとしても、これは自然の感情、人情としては当然のことなのです。
このとき、故人の遺体に礼掃しているのではなく、いまは浄土に往生して阿弥陀仏と同じ悟りをえられている故人にたいして、または阿弥陀仏にたいして合掌礼拝して念仏を称えていることをはっきりさせるために、棺書を書き、これを納棺するわけです。
したがって、この棺書は故人をあの世へ送るための「送り状」 でもなければ「守り札」でもありません。

●法名は仏弟子の名告り

法名は、帰敬式を受け、仏弟子となった人が頂く名前です。
帰敬式は、「おかみそり」ともいい、仏・法・僧(僧伽) の三宝に帰依し、念仏に生きる者としての誓いを立てる大切な儀式です。
頭髪に剃刀をあてて髪を剃る型をとるのは、この世の苦を生み出す勝他(他に勝とうとする心)・利養(財物を貪る心)・名聞(名誉を求める心)などを剃り落とそうという決意を表わしています。
生前に帰敬式を受けて頂くご縁がなかった方には、枕勤めの前か、葬儀の暗までに住職にお願いすることになります。
真宗の法名(戒名とは言いません)は、宗祖親鸞聖人が自らを「釋親鸞」と名告られておりますように、すべて「釋(尼)○○」と、お繹迦さまの「繹」の一字を頂いています。
俗名や職業は様々であっても、仏・法・僧の三宝を依り処として、一切衆生と共に真に平等なる世界に生きたいと願う真宗門徒の名告りです。
したがって、法名には本来、居士・信士・大姉・信女など戒名に用いられる位号が付けられることはありません。
私たち真宗寺院でも、この法名のこころを忘れ、他宗に倣って、位号を付けてきた歴史があったことは、慙愧に堪えないことです。
私たち真宗門徒は、大いなる誇りをもって「繹(尼)00」という法名を名告ってまいりました。
ですから、通った者の体裁で字数に執われることのないよう、法名の意味を深く心得たいものです。
帰敬式は、真宗本廟(京都・東本願寺)や真宗会館(東京都練馬区)、またお寺でも受けることが出来ます。詳しくは、住職にご相談下さい。
なお、教団の護持にご尽力下さったど門徒に、院号法名が贈られる制度があります。

通夜とは

通夜とは文字どおり、近親者が夜を徹して安置した遺体を見守り、故人をしのぶということです。
肉親や縁あつき人の死という現実を謙虚に見つめ、日ごろ忘れがちな「生死」の問題を自分の問題として深く考えたいものです。
最近では、仕事などの都合で、どうしても葬儀に参列できないという人たちが出席するようになり、葬儀とはとんどかわらなくなってきています。
このため、通夜ぶるまいにだす食事など万端にわたる準備が必要です。
現在通夜といっても「半通夜」がはとんどで、夜7時どろからはじめて2〜3時間で終わるケースが多くなっています。
とはいっても、仏壇と壇の前のローソクの火と香はたやしてはいけませんから、交代でもかまいませんので、かならず誰か一人はおきているようにしましょう。

●焼香の作法

焼香の仕方は、宗派によってちがいがありますし、真宗の各派によっても多少のちがいがありますが、ここでは、大谷派(東本願寺)で行われている作法を紹介することにします。
 @まず、焼香台の二、三歩手前でご本尊に向かって軽く一礼します。
 A前にすすみ、右手で香合のふたをとって、香合のふちの右側におきます(はじめからふたがとり外されている場合は不要)
 B右手で香をつまみ、2回ゆっくりと火中に薫じます。一般的には、このときに香をつまむだけでなく、頭や額のあたりにおしいただく人が多いようですが、それは必要ありません。
 C香合のふたをもとどおりに閉じる。(あとに焼香者がつづく場合は不要)
 D合掌して念仏を称え、礼拝します。
 E少しさがって一礼し、自分の席にもどります。
参列者が多いときは、回し焼香といって、お盆にのせた香炉を順送りにして自分の席ですわったままで焼香することもありますが、このときの作法も焼香台の前に出たり、もどったりする以外はかわりありません。
焼香の順番は故人と血のつながりの濃い順に行います。

通夜ぶるまい

通夜客をもてなす食事のことを「通夜ぶるまい」といいます。
本来は精進料理がいいのですが、最近では、仕出し料理や、のりまき、折詰などですませる例が多くなりました。
ただし、いずれにしても生ものは避けます。
お酒も用意しますが、そんなにたくさんの量はいりません。
日本酒、ビールなど出席者にひととおりいきわたる程度で十分です。
また、遺族やお手伝いの人たちの食事も忘れないように用意します。

葬儀壇の荘厳

真宗の葬儀の基本的な荘厳は、お香・紙花・蛸燭の三具足です。一膳飯を盛って箸を立てたり、コップ水やお茶、お酒、刃物などを置く必要はありません。
最近、写真を飾ることが一般的になってまいりましたが、写真は礼拝の対象ではありません。
本来、写真は必要ありません。
ご遺族が、亡くなられた方へ精一杯のことをしてさしあげたいと思うことは当然のことでありましょう。
しかし、そのことは決して飾りつけに重きをおくことではありません。
飾りつけは、なるべく華美に流されないようにしたいものです。

(通夜)葬儀当日に用意するもの

(通夜)葬儀当日にかならず忘れてならないものに、次のものがあります。
法名を書くための筆と硯、半紙五〜六枚です。

葬儀と告別式

葬儀とは亡くなった人を葬送する儀式のことで、告別式は親族や知人が故人にわかれを告げる儀式のことをいいますが、現在ではいっしょに営むのがはとんど一般化しているといっていいでしょう。
昔から営まれてきた葬儀のやり方は、自宅で出棺のおつとめをして、それから参列者が行列をくんで葬場へ向かい(野辺送り)、そこで葬場のおつとめをしたのちに火葬するという方法でした。
しかし、いまでは自宅であれ一般斎場であれ、何時から何時までと時間を区切って、一般会葬者が参列する告別式形式の葬儀が殆どといっていいでしょう。
この告別式形式の葬儀では、出棺のおつとめに続いて葬場のおつとめも、ともに区別されずに、その場で行われることになっています。

葬儀式次第

喪主・遺族・近親者は定刻より早めに会場にはいります。
なお、葬儀・告別式も各派や地方によって多少の違いがありますので、ここでは一般に行われている式次第を紹介してみます。

開式の辞−世話人代表(葬儀委員長)、または司会者が行いますが、省略する場合もか
なりあります。
 勤行−出棺の勤行で『勧衆偶』(帰三宝偶)を読経します。
      この勤行が終わるとロウソクの立てかえと焼香の準備がされます。
      ロウソクを立てかえる意味は、出棺勤行のあとで行われる葬場勤行とを区別するためです。
 弔電代読−弔電が多い場合は、代表的なものを2〜3通にし、あとは電文を省略して名前だけを読みあげます。
弔辞、弔電があるときは、前もってお寺に申しでておいて、その指示にしたがうようにします。
 弔辞拝受−弔辞がある場合は、なるべく短いものをお願いし、二〜三人にかぎるよう
にします。
 勤行−葬場の勤行で『正信偶』を読経します。
 焼香− 『正信偶』の勤行がはじまって、「五劫思惟之摂取」がよまれると僧侶の指示がありますので、喪主・遺族・近親者・遠縁の順で焼香します。
 喪主あいさつ−導師・諷経(ふぎん)僧にお礼を述べます。

出 棺

葬儀の式次第が終わったら、出棺です。
近親者や故人と特に親しかった人たちの手で霊枢車に運びます。
出棺にさいして、棺をどこから出すかについては、いろいろなことがいわれていますが、やはり玄関から出すのが、いちばん自然なのではないでしょうか。
玄関が挟かったり、また他の事情でむずかしい場合は、はかのところから出してもかまいません。
霊枢車が火葬場へ出発する前に、喪主または親族代表が、出棺の見送りをしている会葬者に会葬御礼のあいさつを行います。
あいさつの内容は、@会葬のお礼、A故人生前の厚誼にたいする感謝、B故人の思いで、C遺族への今後の厚誼をたまわりたい−といったことを簡潔に述べるようにします。
遺族は出発する前に、お骨箱、ロウソク、線香、火葬許可証など忘れもののないように再度確認します。
火葬場まで行く人は、すみやかに指定の車に乗るようにします。

火葬とお骨拾い

火葬場へつくと、棺はかまどの前に安置され、かまの前の卓上にご本尊を安置し、荘厳する場合は三具足(花は樒、ロウソクは白または銀、打敷、水引は白または銀地)にします。
僧侶の読経をいただきながら焼香をします。
その後、棺の窓があけられ、故人との本当の最期のおわかれをし、棺をかまへ送って点火します。

読経、焼香、点火終了後は控え室にさがり、お骨拾いを待ちます。
軽い食べ物や飲み物を用意し、故人の思いでなどを語りあいます。
お骨拾いの連絡をうけたら、控え室を片づけ、かまどの前に整列します。

かまが開かれてお骨がだされると、火葬場の担当者がお骨を集め、骨箱におさめる手配をしてくれます。
小さな骨箱に分骨していれるのは、本山の本廟(納骨堂)に納骨するためです。

一般的に葬儀のあと「清めの塩」を体にふりかけることがありますが、これは日本古来の宗教観に由来しているようです。
古代の人びとは死磯、つまり死のけがれをことのほかきらいました。
死が積れているとする理由は、死体がだんだん腐るからです。
腐敗した死体の不快な臭いや、みにくく崩れた死体を非常に嫌悪したところからきているのではないでしょうか。
そして、その穢れにたいする「清め」 のマジナイに用いられる塩もまた、物質的な理由によるようです。
昔から、塩は食物の保存に重要な役割をもっていました。
つまり、腐敗防止にたいするキキメを、そのままマジナイのうえで期待したのです。
塩をふりまくことによって、死体の腐敗にたいする「けがれ」が防げると考えたのでした。
現在、会葬者に会葬御礼といっしょに小袋にはった「清めの塩」を渡すようですが、いずれにしろ迷信、マジナイの類にすぎません。
したがって、浄土真宗では葬儀のあとに塩をふりかけるといったことはやる必要はありません。

■還骨のお勤め

遺骨と共に帰宅しましたら、お内仏(仏壇) の近くに用意してあいた中陰壇に遺骨を安置し、その前に三具足を置き、お勤め (還骨勤行) を致します。
お内仏のない部屋の場合には、必ずど本尊を安置しましょう。
最近は、さまざまな事情によりより初七日のお勤めを繰り上げることが多くなりましたが、火葬場から帰った時には、まず還骨のお勤めをするのが本来です。

葬儀を終えて

事務のひきつぎ

葬儀のあいだの雑事や事務は、世話役の人たちが処理してくれていましたが、葬儀のあとのことは遺族がしなければなりません。
特に事務のひきつぎは、できるだけ早くすませたいものです。
会葬者名簿、供物や香典の控え、弔辞や弔電のまとめたもの、お金の精算、たてかえ金の返済など、世話役の人からよく説明をうけてひきつぎます。
そのとき、世話役の人に心からお礼を述べることは、いうまでもありません。
香典などの現金は、きちんと金額と張簿を照らしあわせながら確認しないと、あとでつまらないトラブルのもとになりますので注意してください。
香典は葬儀のあとに郵送されてくるものもありますので、これらの記録もひきついだ帳簿に記録しておきます。
また、弔問客から遺族にたいしての伝言や、心づかいなども聞いておいて、あとで挨拶にうかがうときに失礼を欠くことのないようにしておくことも大切です。
こうした葬儀費用は、遺産相続のさいに、相続税の控除対象になりますので、領収書などは大切に保管しておきます。
控除することができるのは、花屋などの業者への支払い、お寺へのお布施、通夜などの接待飲食費、その他の雑費など葬儀当日までにかかった費用です。
なお、三十五日忌法要などの法事の費用、香典返しなどは葬儀費用には含まれません。

■礼 参 り

葬儀が終わると、翌日、お寺に礼参りにうかがいます。
棺掛七条をお返しし、本堂にお礼にあがることをいいます。
なお、お布施は礼参りのときに持参します。

お 布 施

「布施」という言葉は、サンスクリット語(梵語) の「ダーナ」からきています。
檀那寺とか檀家という言葉も、これからでているとされています。
ダーナとは「あまねくほどこす」という意味で、仏教の理想世界実現のための一つの手段として他にはどこすことです。

布施には法施、財施、無畏施の三つがあります。
法施とは、人が正しい生き方をするために、なくてはならない仏法の教えを説き、無形の精神的な施しをするもので、これは僧侶のつとめです。
この法施にたいして、感謝の気持ちをお金や品物であらわして、お寺へ施すことを財施といいます。
無畏施とは、不安や畏れをいだいている人にたいして、安心の施しをすることで、慈悲の心のあらわれです。
したがって、お布施というのは葬儀や法事などでうけた法施にたいし、財施でこたえるわけですから、いくらでなければならないといった金銭的な決りはありません。
事実、お寺に相談しても「お志でけっこうです」という返事がかえってくるはずです。
上限からいえば、その家の経済状態が許す範囲であれば、いくら包んでも多すぎるということはありませんし、また反対に少額であっても、その家にとって精いっぱいの金額であれば、それはそれで十分なのです。

お布施の上書きには、いくつかの種類がありますので、ここでは葬儀に的するものをとりあげてみましょう。
臨終勤行(枕勤め)−「御布施」、通夜−「御布施」、葬儀・告別式−「御布施」、遺骨勤行−「御布施」、そのはか「棺覆(七条)料」「御車料」(お迎えにいかなかった場合)などがあり、礼参りのときは「礼参」または「志」とします。
また、葬儀をご縁に仏教繁盛の寄進として「祠堂料」をさしあげる習慣もあります。
このように仏法がひろまるためにお金を使うことも、如来に救われていった故人のお心に添うことになるのではないでしょうか。

永代経 (祠堂経)

永代経は永代読経ともいい、お経を永久に伝えていただきたいという願いから、故人を縁として懇志金をおさめ、読経をお願いすることをいいます。
永代経をお願いすると、年年永代にわたり、故人の命日にお寺の本堂において、読経していただけるとともに、年に一回ないし二回、永代経法要をお寺でつとめてくださいます。
永代経法要は、故人を縁としてお寺に参詣し、故人をしのび報恩の生活をするとともに、自分自身が聞法の縁をいただくためのものであり、またすべての人が仏法にであう場としての大事な法座です。
喪主が願主となってお願いする場合がはとんどですが、詳しくは住職に相談するといいでしょう。

あいさつ回り

世話人代表をはじめ、故人の恩人や親しかった人、また近所の家、さらに故人の勤務先などへお礼にうかがいますが、これはお寺への礼参りをすませてからにします。
このあいさつも、いまでは喪主が自分ででかけるのが普通になりました。
でかけるときの服装は、いちおう正装の喪服となりますが、それはどこたわることはありません。

会葬礼状

一般会葬者にたいする礼状は、本来、葬儀のあとに郵送するものでしたが、最近では葬
儀会場で会葬礼状に粗品をそえて、会葬者一人ひとりに手渡すのが一般的となっています。

中陰について

中陰とは中間的存在という意味で、中有ともいいます。
古くからの日本の葬送儀礼のなかで定着した死生観で、人が死んで次の世にうまれかわるまでの期間のことです。
七日ごとをひとつの節として、段階を踏んですすんでいくと考えられています。
つまり、次の世に到達するためには、この七日間を七回繰り返さなければならないというのです。
だから四十九日ともいわれ、残された人たちは、ひとつの節を迎えるごとに追善の法要をつとめ、死者の冥福を祈るという習俗として、昔から伝えられてきました。
しかし、浄土真宗では阿弥陀如来の救いによって、命終と同時に浄土へ往生するという教えですから、追善や追福の供養というより、亡き人の遺徳をしのびつつ、さらに自分がうまれてきたことの意義を考え、人生の真実に目覚めていく法縁として、より深く念仏の教えを味わうように心がけるべきでしょう。

中陰の数え方

死亡した日 (命日)から数えて七日目を初七日、次の七日目を二七日、以下同じように三七日、四七日、五七日、六七日となり、七七日 (四十九日)を満中陰といいます。
浄土真宗では、中陰の法要は前日の逮夜(午後)から当日の日中(午前中)にかけて行うことになっており、その土地の習慣によって当日の日中につとめる所と、前日のお逮夜につとめる所があります。
特に輪島では、お逮夜に法要をつとめる所が多いようです。

中陰の期間、つまり四十九日が三ヵ月にわたると、満中陰を三十五日 (五七日) で切りあげてしまうことがあります。
それは、四十九日(始終苦)が三月(身につく)という語呂あわせからきた迷信で、たとえば、その月の十五日以降に亡くなった場合は、どう数えてみても三月にわたってしまうのは当然です。
このような当然のことを、どうの、そうの、気にかけることのはうがおかしいのではないでしょか。
何度もいいますが、浄土真宗では、こうした迷信・俗信にとりつかれ、不自由になることをきびしく戒めています。

中陰壇のおかざり

お内仏の脇の床の間に、二〜三段の仮壇を花屋のはうで作ってくれます。床の間がない場合は、仏壇の横に小机をおき、白布でおおうか、白い打敷をかけるようにします。
そして、壇の最上段に遺骨(骨箱)を安置しますが、骨箱の法名が見えるようにします。
下の段には三貝足(向かって右からロウソク立て、香炉、花立て)を配し、花立てには樒をそなえ、七日ごとにとり替えます。
遺影を安置してもかまいません。
また香を絶やさないようにという配慮から、渦まき線香を用いたり、線香を何本もたてたりすることがありますが、浄土真宗では、どん場合でも適当な本数の線香を、適当な長さに折って薫じます。
そして、お仏飯を盛り、供笥があれば供笥に、なければ適当な器に供物を盛ってそなえます。
中陰の期間は、ともすれば中陰壇が中心になりがちですが、中陰といえども礼拝の対象は、あくまでもご本尊ですから、仏壇の扉はいつでもあけておき、勤行は仏壇の前でつとめるのが正式です。
仏壇のおかざりは、打敷をかけ、三具足を配します。
供花は樒か、そうでなければ派手なものは避けて、白か黄色の花にします。
ロウソクも銀か白にします。
よく、中陰壇に仏壇のロウソク立てなどを用いることがありますが、中陰壇には別のロウソク立てを用意するようにしましょう。

四十九日法要

満中陰(四十九日)を迎えたら、身辺の整理はもちろんのこと、悲しみを克服し、新しい生活をはじめる出発点という意味を含め、遺族、親戚などの近親者が集まって法要を営みます。
法要の日時は、檀那寺のご住職とよくうちあわせをしてから、その後、案内状をだすようにします。
満中陰の法要は、はとんどの場合、自宅で営みます。
法要には、お斎などの接待の都合もありますから、葬儀のようにたくさんの人に来て頂くわけにはいきません。
普通の家庭でしたら、せいぜい二十人から五十人が精いっぱいというところではないでしょぅか。
したがって、お参りして頂く人は肉親のはか、主な親戚をはじめ、とくに故人と親しかった友人ということになります。
法要のさいには、ロウソクをともし、お仏飯を盛り、花をいけ、供物をそなえます。
おつとめが終わるとお斎になります。
お布施は、このお斎の席でご住職にお渡しします。住職には、施主の「御布施」と親戚の「志(御布施)」を、他の僧侶には「御布施」をそれぞれお渡しします。
四十九日の法要が終わったら納骨をしますが、その土地の習慣などもあり、一周忌などまで納骨をせずに、自宅に安置しておくこともあります。
百カ日の法要は、四十九日の忌明け後の最初の法要ですが、一般に身近な親族で行っています。

本山への納骨

遺骨のうち胴骨(骨箱)は中陰のあと、比較的早い時期にお墓におさめるようにしますが、分骨されて小さな金欄の袋にはったお骨は、しばらくお内仏に安置し、自分の家の墓所とは別に、宗祖・親鸞聖人の墓所である御廟に納骨するのが真宗門徒のたしなみです。
分骨は、釈尊の死を悲しみ、その徳をしのんで弟子たちが釈尊の遺骨(舎利)をわけてまつったことが、そのおこりだといわれています。
今日、私たちが行っている分骨は、自分が生前に恩をうけた人の徳をしのんで、遺骨の一部を自分の身近なところにおさめて、おまつりしていこうという場合と、仏教に帰依した自分自身の遺骨を仏や開祖のお墓にいっしょにまつってほしいという願いからするものと、大きく二つのケースにわけられるでしょう。
御廟に納骨する意味は後者で、宗祖・親鸞聖人といっしょに安置されることは、真宗門徒にとって最上の喜びといっていいでしょう。大谷派は大谷祖廟へ納骨します。
また、本山の親鸞聖人のおわします御影堂の須弥壇の下にも門徒の分骨がおさめられます。
これを須弥壇収骨といい、聞法の道場である御影堂に聖人とともに、永遠に念仏を喜ぶ身でありたいという願いがこめられています。
御廟への納骨の手続きは、願主が直接、故人の分骨を持参しておさめるようにします。
須弥壇への納骨は、大谷派の場合は檀那寺をとおして前もって冥加金をおさめますと、本山から「収骨券」がとどきますので、収骨されるときは分骨とともに本山へ持参します。
ともに、くわしくは住職によく相談してください。

法事をつとめる心がまえ

法事とは、法要とも法会ともいい、三宝供養を意味する仏法の行事です。
現在、法事といえば、一般的には先祖や故人の年忌にあたってつとめられる法要、つまり年忌法要のことをさしています。
ここで気をつけたいことは、年忌法要がたんなる先祖供養の儀式ではなく、故人をしのぶことによって法縁にあうこと、すなわち仏法をきく(聞法)行事であるということです。
法事というのは、亡き人や先祖をしのび、いま私たちが生かされている生命の尊さをかみしめ、しかも、その生命が永遠の生命につながっている喜びを、たしかめあう大切な行事です。
ふだん、私たちは、つい自分ひとりで生きていると思いがちです。
しかし、私たちは突然この世に出現したのではなく、私たちがこの世に誕生するためには、両親から祖父母、曽祖父母……と、気の遠くなるような生命の営みが続けられてきたからなのです。
先祖は南無阿弥陀仏の信心をいただいて旅だっていかれました。
形あるものが必ず滅びるということを、仏教では「諸行無常」といいますが、それは形のある「命」であって、人間存在を支えている「いのち」は永遠なのです。
そして、み仏はすべての人を救わずにはおれないという誓いをたてておられます。
法事は、このみ仏の徳をたたえ、やがて私たちもこの世のつとめを終えて、浄土にうまれかわらせていただくみ仏の誓いのたしかさを、味わわせていただく行事なのです。
そして、この行事をとおして、み仏の教えにあう縁に恵まれるのですから、おこたらずに大切につとめなければなりません。

■法  事

法事は亡き方のご命日を機縁として、私たち一人ひとりが仏法に遇わせて頂く仏事です。
真宗の法事の原点は、報恩講にあります。
報恩講とは、門徒にとって一番大切な仏事であります。
真宗門徒は、宗祖が念仏の教えを明らかにして下さり、そしてその教えに遇えた感謝の気持ちを、宗祖のご法事−報恩講−として勤めてまいりました。
私たちの親しい方々のご法事にも、これと同じ心が流れているのです。
日常の生活に追われ、仏法に接する機会の乏しくなった私たちにとって、法事は仏法を聞いていく大切なご縁です。
月毎のご命日を「月忌」、年毎の当月当日のご命を「年忌(祥月命日)」といいます。
特に、百ヶ日(亡くなられた日を含めて)から始まって、一周忌(亡くなられて満一年後)、三回忌(満二年後)、・・・・・、五十回忌、以後五十年ごとに年回法要を勤めます。
法事は、亡き方の祥月命日に勤められるものですが、最近は集まられる方々の都合を考慮して、休日に勤められることが多くなりました。
その場合でも、せめて身内だけでも、ご命日当日はお内仏にお参りを致しましょう。
ご命日が近づいたら、お寺に連絡をして、お寺の都合を聞きます。
日時、場所(お寺か自宅か)、人数、お斎をとるならその旨を伝えます。休日に勤められる方は、早めに連絡致しましょう。
また、様々な理由により、寺や自宅以外で法事を営むこともありますが、ご本尊を安置することだけは忘れないように致しましょう。

もう一度焼香の作法

焼香の仕方は、宗派によって違いがあります。ここでは、真宗大谷派の作法を紹介致します。
 @ご本尊に向かって頭礼(軽く一礼)します。
 Aお香を撮み、二回火中に薫じます。(香をおし頂くことは致しません)
 B香合(香人れ)の中の香の乱れを直します。
 C念珠(数珠)を両手に掛けて合掌し、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。
  (念珠を擦り合わせることは致しません)
 Dご本尊に向かって頭礼をし、自席に戻ります。

念珠は平常は左手に持ちます。
焼香の前後に、喪主(施主) や親族などに挨拶する必要はありません。

 

 

 

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